宗教を考える③『愛と命と魂と』~元極悪人の救世主



宗教を考えるシリーズ最終回である。(宗教を考える① 宗教を考える②

新宿の図書館で勉強しているものだから、新宿区の資料があって、歌舞伎町関連本がかなり多く――様々な社会問題の吹き溜まりのような場所だからだろう――小難しい本を読んでいると疲れるので、ときどきふとそうした本を手に取って読みだしてしまうことがある。ホームレスとか家出少女とかホストクラブの話とか・・・

今回面白いと思ったのが、『愛と命と魂と~生きてこそすべて 歌舞伎町駆け込み寺』という玄秀盛さんの自伝である。玄さんの満面笑顔が表紙に載っている。




宗教が人を救うものだとしたら、あるいは人を救う人が救世主だとしたら、彼は紛れもなく、歌舞伎町駆け込み寺の教祖であり救世主といえる。しかし、これはちょっと新しいタイプの救世主である。キリスト教で言えばパウロ的かもしれないが。

明治期に日本に本格的に入ってきた各宗派のキリスト教によって、自我の確立と平等の精神を学び、社会的な問題に目覚めた人たちが教育や医療や政治その他様々な分野で活動したが、彼らは、どう考えてもエリートである。もちろん庶民の間にも信仰は広まったが、人を救う活動を積極的に行ったのは、元藩士の家から出て教育を受けた人たちだ。

新興宗教と呼ばれる団体の教祖にはいろいろなタイプがいても、もちろんエリートもいるし、大元教の出口なおや天理教の中山みきのように神が憑りついて宗教を興したものもいる。そのあと様々な跡継ぎや中興の祖のような存在があって続いているのであろう。

ところが玄秀盛さんというのは、極悪人であった。この本はじつに正直に生い立ちから今日までを包み隠さず書いてある。たぶん殺人以外のことならすべてやったんじゃないかと思う。というか、直接手を下さなくても精神的、経済的に追い込まれておかしくなったり死んだ人もいたかもしれない。小学五年でタバコを吸い始め中一でシンナー、カツアゲ、万引き、強姦と成人になるまでにすでに悪をし尽くした。

しかし、子供がそうなるには理由がある、彼はそのようにしか生きていけなかった当然の理由がある。韓国からの密航者の父とその愛人から生まれ、別れた両親がまたそれぞれに相手を変えたため、4人の父と4人の母の間をたらいまわしにされ、後から生まれてくる腹違いの兄弟姉妹の世話をしながら、食事もろくに与えられず・・・すさんだ大人たちはだれ一人として彼をまともに扱わず、邪魔者にした。

はなから愛を知らず、人間の汚い所ばかり見せられて育ち、虐待を繰り返す親から離れて生きていくためには、ずるく汚く生きるしかないだろう。学校でいじめられたら、いじめ返すしか方法がない、誰も守ってくれないのだから。・・・壮絶である。

こうして生きる力を得た彼は、ずるく賢く抜け目なく、一方で人の何倍も努力を重ねて手に職をつけるが、虎視眈々と次のチャンスを狙うという形で、30代には会社をいくつも経営するまでになる、しかも人を騙しながら。それを悪いことだと思うだけの意識を植え付けてくれる大人など誰もいなかった。

金の力と度胸で政界や財界の大物とつながり、陰でやくざとやり合う危ない仕事も引き受けて、金でも女でも欲しいものは何もかも手に入るし、何も怖いものがないような日々も、幸せとは程遠い。

ある日テレビで観た、千日回峰行を達成したという比叡山の高僧にあこがれて会いに行く。その高僧の指導で修業じみたことをし、得度もする。相変わらず、悪いことはやめられないが、心の奥底には、もっとよく生きたいという声がする。

難病の発見をきっかけに、いつ死ぬかわからない人生を賭けてみようと、新宿歌舞伎町で困っている人たちを救うNPO法人を立ち上げたのは45歳のときだ。やくざはやったことはないが、裏の世界は知っている。警察のことも知っている。悪をし尽くしたからこそ分かることである。

幅広い人脈を生かしたり、逆に裏切られたりしながら、駆け込み寺を開設し、他のボランティアスタッフに助けられながら、やってきた人たちの相談に乗る。必ずしもうまくいくことばかりではないし、資金繰りもいつも苦しい。これまで3万人近い人の相談に乗ってきた、これからは全国に駆け込み寺を作りたいという。

ふ~む。この人は、羽仁もと子やライトのように心を揺さぶられるような思想をもった人間ではない。知的でもないし品性があるわけでもない。が、頭でっかちで理論ばっかり言っている人たちに比べ、なんと正直で熱いのだろう。そして実際に人を救っている。彼の過去は過去である、今この瞬間に彼を頼る人がたくさんいる、それがすべてだ。もちろん来るをみな助けられるわけでもない、そこまで能力のある人でもないし、ましてやボランティアに近いスタッフならなおさらだ。しかし、実際に動いているのだ。それがすごい。

苦しみの中から努力する力を持ち、過去を乗り越え、人のために尽くす。ろくに教育も受けられなかったあんな生立ちの境遇から、よくこれだけの頭の良さと純粋な心があったかと思うと、人間の可能性に驚く。密航者の父、捨てられても新しい男を次々つくる母――立派な親ではなかったが、ある種の魅力と度胸と剛毅さは譲られたのかもしれない。

そして、彼によって実際に人が救われているのであれば、その壮絶な過去は、悪いことも含めて、意味があるということになろう。苦労した人でなければ、わからないことがあるだろうし。屈折した汚い感情のない人には、想像も及ばないドロドロした人生の果てにやってくる相談者もいるだろう、歌舞伎町という街には。警察など頼りにならないだろうし。

こんな場末の相談所には、大学で心理学を専攻したカウンセラーには務まらないだろうと思う。給料は少ないし、何しろ相談に来る人にお金がないのだから。迫害されたユダヤ人のキリストが、さげすまされている人たちに寄り添った例を出すのはちょっと違うかもしれないけど、彼にしかできない救済をしていると思う。人間の底辺から最高級の世界まで経験したという人はなかなかいない。いろいろな人がいろいろなことを言うだろうけども。

結局、本来の宗教というものは、恵まれた人たちの知的遊戯ではなくて、弱者の心身の救済となってこそもっとも意味があり、広まってもきたのであろう(為政者の道具にされる場合は別だが)。先のブログに書いたように、その内実は分からないが、新興宗教の信者が増えているのも、それだけ社会的な弱者が拠り所を求めているということだろう。本来、宗教は文化財になるような壮麗な教会やお寺とは関係がない。そもそも宗教は文化ではない。それは後付けだ。馬の餌入れ(飼葉桶)に産み落とされたキリストは、立派な建物を建てたわけでもなく、権威を恐れず、病めるもの貧しきものだけを助け歩いた。そして最後は同胞のユダヤ人に十字架につけられたのだ。

NPO法人を立ち上げてから10年、悩み事は深刻化しているという。また自分で考える力のない人が増えているともいう。既得権益の保持以外は思考停止になっている公的機関や伝統的な宗教団体には救えない。商売最優先の医療もカウンセラーも救えない。

もちろん私にも何もできない。だから宗教の原型のような玄さんはすごいと思う。テレビを見ないので知らなかったが、数年前に俳優の渡辺謙が玄さんを主役にしたドラマを企画したそうである。


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