宗教を考える④『マハーボ―ディ寺』~ブッダ悟りの現場



前々回から続いているシリーズの追加である。

『マハーボ―ディ寺』アレキサンダー・カニンガム著、松本榮一・恭訳

インドのブッダガヤにある「マハーボディ寺」。お釈迦様が悟りを開いて仏陀になった場所であり、ゆえに仏教最高の巡礼地である。私は行ったことがないが。

インド大陸を最初に統一したアショーカ王(マウリア朝第三代)が、仏陀の成道を顕彰するために紀元前3世紀ごろに建立したと言われている。釈迦が生まれたのが紀元前5世紀だから、仏跡としては最も古いものだそうだ。アショーカ王はインド統一にあたって多くの人を殺したため、深く反省し仏教に帰依したという。

現在のマーハボディ寺

その後長い間、アジア各国に広まった仏教の、信徒たちの巡礼先として大切にされてきたが、イスラムの統治によって破壊され、また時代の風化によって形跡がなくなっていった。それを復元したのがイギリス人の考古学者アレキサンダー・カニンガムである。ときは大英帝国の植民地時代。仏教が廃れてしまったインドでは、仏陀がインド人であることすら忘れられていたらしい。というか、カニングハムによって、仏教はもともとインドから生まれたことが分かったというのであるから驚きだ。日本では仏教は盛んになった。それは中国から入ってきたのだが、もとは天竺から来たという事実は、三蔵法師の逸話などを通じて知られていたと思うのだが。この三蔵法師こと玄奘が書き残したものを最大の資料としてカニングハムは、マハ―ボディ寺を発掘・復元したのだという。

そういうわけで、この本は考古学的な見地から、寺を巡る歴史的背景、敷地内外の建物、構造、仏塔、レリーフ、埋蔵物などを説明したもので、詳細な図や写真も載っている。

ところで、そもそもなぜ私がこの本を読んだかというと、インド考古学の父であるカニングハムが1892年(!)に出版したこの本の訳者と知り合いだからである。しかも知り合ったのはインドであった。東北大震災の直前だからもう6年も前になる。インドのプネーというところにある、ウルリカンチャンという(ガンジーが創設した)自然療養施設に滞在中のことであった。知り合ったといってもわずか20分くらいしかお話ししなかったと思う、私が来た時に、彼らは滞在を終えて出て行ったから。

縁は奇なものである。松本榮一氏は有名なカメラマン、その奥様の恭さんはフリーランスの編集者であり翻訳者、この二人を私につないでくれたのが、同じくその療養施設で知り合った橋本清澄さんという、対馬で天日塩を作っている人なのだが、この話はここでは省く。

とにかく松本夫妻は、一年のうちかなりの時間をインドに過ごしていて、この本の出版も、もともとブッダガヤに住んでいたり、地元の考古学者であるラムスループ教授との交流があって実現したのである。訳本のほかに、もう一冊解説本があり、それは同教授による解説を訳して編集したもので、カニングハムの書いたものの理解を助ける補助本となっている。

恭さんによれば、この本は仏陀によって書かされたような気がするということである。本当に魂を込めて訳したのだろう。130年前のカニングハムの英語にも、ラムスプール教授のインドなまりの英語にもたいへんな苦労をされたことと思うが、じつに流暢で読みやすい和訳になっている。ブッダガヤに巡礼ないしは観光に行く人たちはもちろん、古代の仏教建築に興味のある人には、ぜひ手に取っていただきたいものだ。

ここで釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた、そのときに少女が乳粥を運んできた、その程度しか知らなかった私は、それらが実際に事実であることがこの本で確認できたわけだが、それにしても長い長い歴史の中で、ビルマやスリランカ、中国などのアジアの仏教徒たちが、この寺にやってきて建物を増築したり、修復したり、いろいろなものを寄進したり、片や一方でヒンズー教やイスラム教の王様たちが破壊したりと、その形跡をたどるのはなかなか興味深いことであった。

私は考古学には疎いし、現地に行ったことがないので、実感としてつかめなかった部分が多くあるが、宗教の持つ力のすごさを感じることができた。マハ―ボーディ寺は確かに人類の宗教史に欠かせないものであり、その原型をイギリス人のカニングハムが発掘したというのが面白い。アショーカ王や玄奘三蔵といった仏教史の偉人がからむ仏教の世界を、訳者はワクワクしながら読み解いたそうである。

これが原型になって、中国を経由して日本各地に寺ができたと考えたら、それは確かに興味深いことである。ここで最後の苦行をした釈迦が悟りを開いた、それは確かに聖地である。世界最高のパワースポットである。その霊力は、今も衰えることない、なぜなら仏陀の教えは真実だから・・・そう私は思っている。だからこそ時代と国境を超えてあちこちに広まり、またここが多くの人をひきつけてやまないのだ。

だいぶ前に福井県の吉崎御坊という寺に行ったことがある。自動車で旅行中にたまたまその駐車場で眠って、起きて何やら騒々しいと思っていたら、その日は「蓮如忌」であった。蓮如(1173-1263)は親鸞の築いた浄土真宗の中興の祖であり、福井を中心に信仰を広めていった人である。その寺は港に近く、当時は栄えていたようであるが、往時の面影は失われていた。それでも地元の人は蓮如忌に集まってくる。ましてや当時の漁民や農民にとって、蓮如の存在ほど神々しいものはなかったであろうと、つくづく思わされた。蓮如はそこに4年ほどしかいなかったわけだが、人々はそれをずっと語り継いでいったのである。

吉崎御坊のHPによると――

吉崎に上人が到着して僅か三ヶ月後のことでした。ここに、日本の歴史上一大奇跡とも言える「蓮如ブーム」がほんの三ヶ月の間に沸き起こったのです。お念佛の大合唱が、北陸の津々浦々に地鳴りの如く、響き渡ったことでしょう。どの村でも上人の話題で持ちきりだったに違いありません。吉崎へ参詣する若嫁を、姑が鬼の面を付けて脅かしたという話で、人形浄瑠璃にもなった「嫁脅し肉付きの面」、地元で今も語り継がれる民話「吉崎七不思議」などもこうした「蓮如ブーム」が背景にあったのです。雲霞の如くの群参に御山は、かつてない繁栄を誇ります。御坊の周辺は参詣者の宿泊施設となった「多屋」と呼ばれる宿坊が建ち並び、その中央に馬場大路というメーンストリート、南大門から七曲がりを降りたところには、船による参詣の船着き場ができました。こうして、無人だった山が一気に大都市、寺院を中核とした寺内町に変貌したのでした。

蓮如の霊力、あるいはその背景にある仏陀の霊力はものすごい。蓮如が布教したのは、一般の人たちである。考えてみると、漁民や農民にとって、日々の労働や暮らしの中で、共同体のおきてや生活の知恵のほかに、心の中の規範となるような考え方を、それまで聞いたことがあったであろうか。戦国時代の不安定な圧政のもと、自主的に世の中の道理や自分たちの置かれた立場について考える機会と、日常の思考の範囲を超えた「救い」の概念を初めて与えられたのものと思う。

しかし人々を惹きつけたのは浄土真宗の念仏の教えだけではないだろう。そんな霊的・精神的なことよりなにより、寺の存在があって、初めて人は集うことができたのではないか。そこへ行けば、人に会える、一緒に念仏を唱えたり歌をうたったり、教養を得たり、ご飯を食べたり踊ったり・・・さながら、現在の娯楽や文化施設のすべて――コンサートホール、野球場、パチンコ、デパート、図書館、公民館、学校、道場――だったのだろう。それは精神的、物理的にものすごい求心力をもった存在であったにちがいない。そして、年に数回の祭り――これは非日常的なエネルギー爆発の機会であった。

江戸時代の伊勢参りにしても、信仰と同時にその道中の物見遊山が大きな目的であったという。宿場町には見るべき名所がたくさんあった(今もそうであるが)。

マハ―ボーディ寺はまさにそうした点で、世界中の仏教徒(あるいは物見遊山、観光客)にとって、最大の求心力を持っている。仏教を巡るあらゆる歴史的経緯が刻まれているのである。当然ながら、権力者は宗教の持つ求心力と伝播力を利用して統治しようとする。寺や寺院を建てたり、増築したり、壊したりするのは、まさにそうした為政者の歴史そのものである。

世界最古の宗教と政治のシンボル、マハーボーディ寺。仏陀の霊力の宿る寺。その始まりを記録したこの本を読んだら、ぜひとも行きたくなってしまった!!

これを書いている今日は、たまたま仏陀の誕生日である。(そして私事だが祖母の命日)


訳本と解説本の二冊セット。サブタイトルは「ブッダの大いなる悟り」
マハーボ―ディ寺の歴史、建物の構造、伽藍の配置、仏塔、レリーフなど時代別に詳しく書かれている。




0 件のコメント:

コメントを投稿