お金と寿命と社会的地位について自分の尺度をしっかり持てば、この世は楽しいことばかり



ある知人がこの頃心配性になってしまったと言って嘆いていた。30代半ばになると、おのおの価値観が定まって来て社会的なことにも興味を持つし、友達と話していると主義主張の応酬が激しくて、心の浮き沈みが大きくなるらしい。まあ、社会的なことといえば、新聞もテレビも不安をあおるようなことばかり報道するから、多くの人が批判的かつ厭世的になってしまうだろう。あるいは彼女のように心配性になる。



先日実家で父の庭の野菜をもらって包んでいた新聞の一面に、「2045年には65歳以上の人口が全体の3割」という見出しがあった。二面でもそれが特集されていた。「え~っ、そんなのトップ記事になるようなニュース?前から言われてなかったっけ?」と思った私。2045年というと、いまから27年後か・・・私は77歳だからその中の一人・・・だからなんだっていうの!?



1970年代は人口増加が社会問題だった。人口が増えすぎて食糧難や住宅難が心配された。産児制限やブラジルなどへの海外移住が奨励された。それらの政策がすぐに結果をもたらさなかったが、30年もしないうちに、人口の減少が問題になり始めた。一人当たりの出生率が第二次ベビーブームだった70年代前半の2.14人から1.43人に下がっただけではない、出産どころか結婚すらしないのが当たり前になりつつある今日だ。



つまり社会問題なんて、そのための政策や対策なんて、あてにならないというか、先が読めないというか、心配したってしょうがない。そもそも私たち30秒後に自分自身が何を考えているのかすらもわからないのに、28年の後の社会情勢なんて分かりっこない。ハーバード大学の研究者によると、銀河系中心のブラックホールがあらゆるものを飲み込み始めており、ヒッグス粒子が形成する物質エネルギーが変化し、突如としてすべての生命が消滅する可能性もあると、今朝のスマホの海外ニュースが報道していた。この宇宙が瞬時に消えてしまうかもしれない、なんて心配しようもない問題である。(それはそれで面白いかもしれない、突然自分も全ても消える!!)



それはそれとして、私は50歳になって、もうお金も社会的地位も自分を幸せにしないことが分かってしまった。もちろん生活に必要なお金は重要だけど、お金があるからといって幸せが確保されているわけでもないし、なかったら不幸でもなく、年金暮らしになったらそれはそれなりに幸せに生きていける自信がある、人が何と言おうと。



野草をとって山菜を摘んで、小さな菜園を作って、あとはご飯と味噌とプラスアルファで十分だ。海外旅行なんて行かなくても、たとえば伊東の浜辺や裏山に行くだけでも楽しい。古い着物を解いて洗って素敵な服を作ることもできる。毎日小さな台所をピカピカにして、畳を拭いて柱を磨いて・・・そんな昔気質の家の暮らしをしてみたい、大きなオール電化のマンションなんてほしくない。



コンサートなんか行かなくても、自分でギターが弾ける。読みたい本もたくさんあるし、一日中だって好きなこと書き綴っていられる。



病気になったらそれはそれ。十分楽しく生きたから、寿命だと思う。治療も入院もその時の経済状況で考えればいい。楽しく質素に生きていれば、そうそう病気に何かならないだろうし、年をとったら枯れるのは当然だし。



社会に評価される必要は全くない。されても嬉しいとこれまで思ったこともないし、されている人を羨ましいと思ったこともなく、それなりに大変そう思うだけで、無責任でいられることはじつに幸せだと、生まれつき野心がないことも、いってみれば得であり徳なのかもしれないと、うぬぼれている。そもそも一過性の社会的評価なんて、何の価値があるのだろう、所詮不完全な人間の気まぐれであり、そんなことに一喜一憂するほど私の人生は薄っぺらくない。社会的評価を求める人は、人間界という生物のわずか数パーセントの世界を絶対視しているわけだから、それはそれでかわいそうな気がする。



というわけで、お金、寿命、社会的評価に自分の尺度があれば、この人間としての人生は楽しいことばかりなのだ。万物は生命エネルギーの多様な、瞬間的な表出であり、まぎれもなく私自身もそうなのであり、そう思えば、すべてのことはあるがままに起きているのだから、批判も不満も不安も不平も持つ必要がない。起きていることは、天文学的な要素が絡み合って生じているのだから、それ以外のことが起きるわけもなく、自分を含め人間の意思や能力でどうすることもできず、したがって、起きていることはすべてベストなのである。



これまでの自分の過去も、この先起きるすべてのことも、自分一人の力で出来たことでも出来ることでもないがゆえに、たんたんと受け容れ、面白がっていればいい。将来も、死も、他人も何も怖くない、すべては同じ宇宙エネルギーの現象なのだから。(そして、それすら一瞬で消えてしまうかもしれないという、計り知れない膨大な法則の元にあるのだから!)





伊豆高原のとあるドラッグストアの駐車場にある大きな大きな桜の木







無題④~あるがままを見る





前のブログの続き



先に「解放」と副題を付けたブログを書いたが、それは、自分の存在がないところから見える世界なのだが、それでも「見る」行為は発生するようだ。「見る」のは眼の複雑な機能だが、ただモノを映すだけでなく、そこには対象物を瞬時に「判断」してしまうという脳の機能も働いている。それはそれで「起きていること」として構わないのだが、できれば、対象物をまっさらに見ることが出来たら、そう、あるがままに見ることができたなら、それはさらなる解放につながるだろう。



例えば、先週実家からスキー場へ行く途中、視界に広がる山々について、私と彼は絶えず父に質問し続けていた、あの山はなに、と。あれは妙義の荒船山、あれは赤城の黒檜山、後方に見えるのは日光の男体山・・・と父が答えるたびに納得する私たち。でも待って、私は思った、山の名前を知って納得するってどういうことだろう?それで何が分かったっていうのだろう?



そもそも山ってなに?陸の一番高いところ。陸ってなに?海に浮かぶ部分ではない。海から出ている部分である。つまり陸自体が海底から見ればすでに一万メートルを超すような高い山であり、通常、山と呼ばれる部分はその陸の中で少し高く盛り上がったところに過ぎない。そしてその少し盛り上がった部分は自然にランダムに生じたもので、それが中には火山が噴火したものもあるし、陸と陸がぶつかって盛り上がったところもあるし、その形成はいろいろだが、もともと「〇〇山」という存在があったわけではない。「〇〇〇子」という人間が初めからあったわけでもないし、今だってそういう人間があるわけでもない、単に他の人間と混乱させないように便宜上名前を付けられている、ある生命エネルギーに過ぎない。



なので、あれは榛名の〇〇山だと聞かされて、ふうんと納得するということ自体の意味が分からない。誰かがつけた名前は山そのものではないからだ。そもそも山と山じゃないところの境目も不明だし、宇宙人の眼から見たら山と空の境目も分からないかもしれない。山も空も概念だ。ましてや高い山ってなに?低い山があって初めて高い山があり、青くない空があって初めて青空がある。青という色は青以外のすべての色と違う色を差しているにすぎず、青といった瞬間に、私はなにを見ているのだろう?ある一定の波長の長さを人間が青と決めただけのことで、青という色が元々あるわけではないのだ。それが証拠に、人間以外の動物に青い色は見えない。



形容詞も名詞もすべてそうである。きれいは汚いものがあって存在し、美人は不美人がいて存在し、賢いは愚かがあって存在する概念。痛いは痛くない、面白いは面白くない、まずいは美味しい、酸っぱいは酸っぱくない・・・あらゆる形容詞はそれ単体では意味が成り立たず、必ず反意語が無意識化に立ち上ることで機能する言葉である。



名詞もしかり。薔薇という花はない。桜という木もない。桜は梅との違いを知らない。桜は自分が木であることも花をつけることも知らずに、そのままに存在する。そのままに芽を出し日の光を浴びて成長し、水を吸って二酸化炭素を吸って酸素を吐き出して、夜はその逆、そして花を咲かせ散らし、実をつけて、紅葉し散る・・・しかしこうした行為そのものに意味付けし名前を付けたのも人間である。桜は芽も葉も空気も水も太陽も知らない。ただ在ってただ享受する。ただ生きて死ぬ、それだけ。あるがまま。



そのあるがままの生命の姿を私たちはそのままに見ることができず、先述のように、あらゆる変化と機能に名前を付けカテゴリーしたがる。そして名前がないものを「発見」などと、もともとあったのに(しかも人間より先に存在していたのにもかかわらず!)おこがましくも名前を付け、〇〇科などと分類する。桜という名前にすでにいくつもの既成概念が織り込まれているので、私たちはもうそれをそのままに見ることができないのである。



人に対しても同じで、私、〇〇〇子という存在にはいくつものストーリーがまとわりついている。年齢、性別、職業、住所、性格といった情報が共有されている。レッテルが貼られている。背が高いとか、顔がはっきりしているとか、のんびりしているとか、趣味が多いとか、交友関係が広いというのは、すべて誰かとの比較において語られている。その比較のうえでしか私が存在しないかのようだ。誰とも比較しないである人を見たら、そこには何の形容詞もないはずだ。



なんの形容詞も、あるいは名詞すらないもの、それはカテゴライズもされず、ただそのまま。人間でもなく、生物でもなく、単なる宇宙的なエネルギー。



長年蓄積されたデータをゼロにすることはできないから、この机の上にいろいろなものがあり、それがアイマスクだったり、ケータイだったり、スピーカーだったり、目薬、イヤリング、コースター、さまざまな書類であるように見えてしまうけれど、そしてそれらがいかにも乱雑に存在しているように見えるけれども、たしかに人間がそれらを名付けカテゴライズしたからこそ生じた物質であるけれども、それでも、できるだけ、概念を外し、単にそこにあるものとして、そう、宇宙開闢以来の進化の中で必然として生じたエネルギーの塊として見たら、乱雑に置かれているというより、なにかどれも懐かしいような、ありがたいような、近しいような存在に思えてくるから不思議である。



いずれも今この瞬間を共有し合っているエネルギー同士として、ここに在る。たがいに何の概念も持たず、たただた許されて、恵まれて、存在しているのだ。







無題③~解放



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うちの人がインフルエンザにかかってしまった。一昨日の夜から高熱に苦しめられている。一度解熱剤を飲んだが、熱が38度を下がることはないようだ。かわいそうに。私は昨日は午前中はずっとおかゆやらなんやら作り続け、午後はずっと隣で寝ながら本を読んでいたが、あまり近くにいないほうが良さそうなので今日はパソコンに向かっている。そして、つらつらと「私の不在」について考えている。



唯識論的に言えば、インフルエンザに苦しむ夫という存在はない。そもそも私の夫である〇〇〇男という人間はいない。そういう名前を付けられた存在はある、社会的な便宜上、彼の両親がそう彼を名付けたのだ。インフルエンザというものもない。ある身体の症状を、カテゴライズして人間が付けたものである。あえて言えば、あるウイルスが別の生命の身体の中に入って繁殖しようとしている現象である。「苦しい」と思っているのは、誰か?事実は、ある生命体の中で熱を出してウイルスをやっつけようとしている現象だ。



「苦しい」という感情ないしは感覚は、いったい誰の感覚なのだ?「苦しい」イコール「不快」の感覚は、どうやって生まれたのだろう。ある生命体が人間と呼ばれる形で誕生し、生き延びるために「快」と「不快」を覚えたのだろう、「快」は物理的に生存に有利で、「不快」は不利。単純にそれだけだったのだろう、しかしそもそも「快」「不快」というのも人間の後付けのレッテルであり、現象そのものではない。いってみれば、生存に不都合な現象が起こっている、ということか。それゆえ身体が戦っているが、戦う相手ウイルスもまた生命エネルギーの現象である。究極的には、どちらがいいわけでも悪いわけでもない、単なる現象なのだ。



もちろん苦しんでいる彼には、差し迫った事態なのだろうが、俯瞰してみれば、二つの生命エネルギーがせめぎ合っているということである。そしてその事態はやがて消滅する。万が一、彼としての身体が負けたとしても、宇宙的エネルギーとしては、何ら変わりはない。単に波が打ち寄せて引くようなもの・・・それを「人間」が一大事としてとらえている。もともと〇〇〇男などいないのに。



さて、目下苦しんでいる彼の身体には申し訳ないが、冷静に考えると、「自分=私」がいないということは、とてつもない解放なのではないか。自分がしていること、考えていること、同様に他者に見える人間がしていること、考えていること、あるいは人間社会らしきもので起こっていることすべてが、すべて誰にも関係なくて、単に起きるべきことが起きているだけだという認識に立てば、「私」がシャカリキに生きようとする必要などないからだ。



何が起きてもいいのである。だってそれを起こしている「私」などいないのだから。何かを考えて誰かに何かをしゃべっていると、自分では思いこんでいるけど、それは実は自分ではないとしたら・・・「自分」ではなくて、宇宙的エネルギーの表現が勝手に起こっているのだとしたら・・・それは「自分からの解放」でなくてなんであろう。



「私」はいない。「あなた」もいない。すべては解放され、すべては起こるべくして起こっている宇宙のエネルギー。生きているという感覚がもうすでに大いなる恵みなのだ。



無題②「私」という妄想の世界



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非現実な映画や小説のストーリーを観る自分自身が、自分の創ったストーリーに過ぎない非現実なのではないかという問いがある。



自分、というか、この身体があるのは現実である。しかしこの身体が自分、あるいは私そのものかと言うと、どうやらそうではないらしい(唯識論的に言うと)。



とうか、そもそも「私」ってなんだ?身体が私ではなく、思想も私ではないとしたら、「私」とは単なる概念?



ではその「概念」を認識して、「私」と思い込むのはどこにあるのか?



まずは身体から考えよう。この身体は自然の産物だ。身体を構成する要素は宇宙開闢以来生成され続けてきた原子からできている。この身体は宇宙のあらゆる物質と同じ原子からできていて、つねに変化し、消滅し、また再生することを繰り返している。この身体が死ねば、死体の原子は何らかの化学反応で、この宇宙の何かほかの物質を形成する。いや死ぬまでもない、肺を息を吐くだけでも、その二酸化炭素が、周辺の何かに影響して、何らかのものを生じさせる。少なくとも同じ部屋にある観葉植物の光合成に役立つかもしれない。



この身体がリンゴを食べれば、膨大な神経細胞が動く、膨大な細菌が動く、膨大な電気信号と酵素が分泌される。リンゴと身体は一体になる。この時点でこの身体とリンゴは不可分な存在だといえる。リンゴは「私」であり、「私」はリンゴであるといえるかもしれない。そしてその分の老廃物が身体から排出される。トイレに流された老廃物は何らかの形で分解され処理されるが、けっして消滅してしまうわけではない。



リンゴだって、どこからか突然にやって来たものではない。リンゴがこの身体に入るまでに、膨大な人的エネルギーと物質的エネルギーが実存する。リンゴを向くための包丁も、リンゴを盛るための皿も、リンゴの皮を捨てるための三角コーナーも、リンゴを洗う水道水も蛇口も水道管も、そして、その包丁や皿や三角コーナーをデザインした人も売った人もいるし、それらすべてを「私」が買うためのお金を稼いだ人、紙幣を印刷した人、財布を作った人、財布の材料の革になった牛、牛を育てた人、牛の餌となった草・・・



ああ、もうバカみたいで数えることも不可能なくらい、単にただひとつのことがなされるまでに起きたことは数えきれない、単に脈々と連綿とエネルギーが変化して、今この瞬間が起こっている。



一体全体なにを言いたいかというと、自分の身体だとか自分が食べているとか信じている行為が、まったくもってなにかものすごく計り知れないエネルギーがあって実現しているということである。それは神秘的な奇跡、実にありがたい一瞬一瞬の恵みなのだ。



もう午後4時近いのに、電気もつけないで部屋にいてパソコンを見ることができるのは、太陽があるからだ。朝から晩までこの地表を温かくしているのも太陽のおかげだ。花が咲くのも、植物が育つのも、牛や豚がいるのも、太陽のおかげだ。太陽のおかげで、「私」の身体はいかされている。しかし、人間は太陽をコントロールできない。



太陽ほどでなくても、大気も、月も、海底潮流も、海底プレートの移動も、「私」の存在を可能にするエネルギーである。地震は怖いが、地震というエネルギーの発散がなければ地球は爆発してしまうだろう。すべては「私」が存在するために不可欠な恵みである。



痛いとも言わずに伐られる木、踏まれる草や虫、掘り起こされる地面があって、この身体が快適な家に暮らすことができる。「私」を温めてくれるセーターの原料となる羊毛は、いったいどこの国の草原に住む羊なのか、「私」の足を守る靴の革はどこの国の牛なのか、頭痛を治してくれる薬のために犠牲になったモルモット、あるいはその薬を開発するために苦学した研究者・・・すべてはいまここに「私」が存在するための恵みである。



「私」ではない、「この身体」といったほうがいい。私とは、そうした恵みに感謝して生きていることの神秘や奇跡を味わうというよりも、むしろ膨大な無駄な思考・感情にとらわれる装置のようなものだ。あらゆる恵みの中に自分も存在すると考えるよりむしろ、あらゆるものから分離して個を保ち、孤を悲しむほうにいそしんでいる装置ではないか。



自分は「〇〇〇子」である。1967年〇〇県〇〇市に〇〇と〇〇の長女として生まれ、祖母と妹と5人家族。背が高くやせており泣き虫でいじめられ、幼稚園から小学校まで比較的暗い子供時代を過ごし、中学ではバレー部に入り万年補欠、英語が得意で海外に憧れ、進学校に進むが勉強は不真面目、でもアメリカに行きたくて留学の出来る大学へ行き、通訳の勉強をして、いくつかの会社で通訳と翻訳と広報の仕事をし、しかし組織が向かず会社を辞め、フリーでいろいろな仕事をするがボランティア程度で、趣味は広くヨーガに俳句にギターにスキーなどなど、どれも適当に続けたりやめたり。結婚生活は順調で、交友関係は広く浅く、家族には恵まれ、貧乏でも裕福でもなく、子供はいないがその分自由で、健康で前向きで明るい性格。



―――などと、たったの半ページ足らずで、おおむね「私」を紹介してしまえるのだ。本当にこんなのが「私」なのか?



いや違うだろう、こんなのが「私」じゃない。こんなふうに狭く限定してしまえるほど「私」という存在エネルギーは小さくない。さっきからかいているように、「私」の身体が50年間、この地球上にあることの背景には、少なくとも宇宙の開闢以来の137億年間のすべての進化、というかエネルギーの変化が関係しているし、50年間やって来たことも天文学的な外的エネルギーの助けがあるのだし、今この一瞬ですら、太陽や空気がなかったら存在できないのだ。



「私」は決して、「〇〇〇子50歳」などとくくれるような矮小な個別の分離したものではない。ただただこの一瞬に起きている宇宙的エネルギーの表出なのだ。そしてそれは、一瞬で消えるはかないものではあるかもしれないけど、ものすごく多くの恵み、あるいは愛に支えられてこそ存在可能なものの表出である。



このリアリティーに対して、たとえばとある一人の漫画家の妄想から生まれたストーリーを映画化したものが、いったい何だというのだろう。それもまた宇宙的エネルギーの、ほんの小さなあぶくに過ぎない。



今この瞬間に起きていることしかない―――と「悟った人たち」が言っているのは、おそらくそういうことなのだろう。リアリティは、まさに今この瞬間に起きていることだけ。過去も未来も、エネルギーの矮小化された架空の「〇〇〇子」が捉えられるような単純なものではない。過去に本当に何が起きて、今ここにこの身体があるのかもわからないし、わずか3秒後に何が起きるのかも本当の意味では分からないのだから。



いま、ここに、この身体がある、それだけがリアリティだ。



そしてその「身体」が体験しているように思えることは、「私」とは何の関係もなく、ただ「起きている」だけなのだ。私のお腹がすいたのではなくて、「身体」があって、「空腹を感じる神経が作動している」。私の頭が痛いのではなくて、ここに「身体」があって、「その中の何かの神経が何らかの理由で圧迫されている信号が生じている」ということである。



今私が考えて文章を書いているのではなくて、この「身体」が(身体というのも概念かもしれない、なぜなら、そこには無数の生命体があり電気信号が内外から作動しているから)、なにか得体のしれないものに反応して、パソコンの前に座って、文字を打っている、だけのことである。ほんとうに、ただそれだけのことなのである。





無題①~「映画」という妄想の世界



タイトルは「無題」、なぜなら、最初に決めても書いているうちにだんだん違う方向に発展してゆき、最後にタイトルを変えることが少なくないからだ。何かを調べようとして、ネットで検索するうちに、別の記事を見たり広告に操られて、当初と違うものをいくつも見ることになるように(ネットサーフィン)、書いているうちに考えが発展して、というかあちこちに飛んで、書く予定のなかったことが頭から紡ぎ出されている・・・



最近とみに「思考」とか「感情」というものが、じつは「私」から生まれているのではないような気がしている。なぜなら、自分(=私)のものだとしたら、なぜ思考や感情を自分で操ることができないのか?なぜ理由もなく暗い気分になったり不快になったりしてしまうのか?なぜいやな気分がした時に、それを消すことができないのか?そもそも今から数十秒後に自分が何を感じて考えているかすら分からないなんて、もしそれらがほんとうに自分のものだったら、おかしいではないか?



「私」とは、湧いてくる思考や感情に気づく存在である、とある人が言っている。そして、そもそもその「私」自体も、作られたストーリーで、本来はなんの分離もない、ある一つの宇宙エネルギーの表現の一部にしか過ぎない・・・と「悟った人」たちが言っている・・・



う~ん。ものを書くということは、「私」の存在を強化するような行為の気がして、この頃少しやめていた。廣池千九郎の唱える「自我没却」ではないが、人間は不必要に自我を強調しすぎることに、あらゆる不幸が始まっているような感じがする。



そもそも地球上の生物の数パーセントにしか過ぎない人間の「常識」が、人類史上のほとんどの人間の生き方、見方を限定していることは、考えてみたら自然ではない。社会的動物である以前に、私たちもまた自然の動物である。動物に生存のための本能以外の自我があるだろうか?不幸なライオンとか、悲しいキリンとか、苦しい熊はいるのだろうか?苦々しい思いをしている蟷螂とか、悩んでいる蟻とか、自己嫌悪に陥ちいっているウサギとか、反省ばかりしているウナギとか、集団行動が嫌いなイワシとか、自信がない孔雀とか、さみしがり屋のトンボとか、狡猾なエビとか、義憤を抱くカモメとか、横恋慕したい鷺とか、仲間を蹴落としたい白鳥とか、戦争好きな鶴とか、平和を訴えるカバとか、太りたくないサザエとか、うつ病のフジツボとか・・・そんなものはいないのである。そもそも、不幸も哀しいも苦しいも苦々しいも・・・狡猾も義憤も横恋慕も・・・戦争も平和もうつ病も、人間が作り出した「概念」である、どれも存在すらしない、たんなる「思考」である。



人間はすごく愚かだ。存在すらしない「概念」にひたすらひたすら振り回されて生きている。来る日も来る日も、死ぬ日まで。そんな生物も動物もほかにはいない。集団的動物なら多少社会的な要素は持っているかもしれない。虚勢を張りたい虎とか狐とか、脅したい水牛とか、怖がる鹿とかネズミとか。でもそれは本能の範疇であろう。人間は本能の範疇を大いに超えて、概念を作り出し、概念に振り回される・・・



もちろん、巨視的に見たら、社会的動物として生きる人間というのが、すでに「自然」なのだろう。二人に一人はがんになるという統計をはじき出し、がん保険を考案し、不安を掻き立てて月々2,500円の掛け金で、がんと診断されたら100万円出します、一日の入院料は1万円、このプランは90歳まで10年ごとに更新できます―――などというあらゆる概念を駆使した経済社会的「ストーリー」を作り出し、それを聞かされてもっともだと思いこまされるのも人間らしさであり、それは、冬眠する前に何かを食べておこうというクマや蛇と何ら変わりない「自然の摂理」なのだろう。



しかし、両者の隔たりのなんと大きいこと。生命の98%が後者であり、じつに単純に生きているのに、どうして人間は不必要に(!?)複雑なのだ!?



なんでこんなことを書いているかと言うと、これも冒頭のネットサーフィンといえるのだが、私は60-70年代の車が好きで、『日本の名車』というAmazonの映像を見て、鈴木亜久里らが運転するホンダS600とかトヨタの2000GTとかにうっとりしていたのはよかったのだけど、その後、団地のおばさんから電話があって、当初のよもやま話から、建て替え反対に関する彼女の意見がしつこく繰り返され、一時間以上もしゃべって切ったら、気がくさくさして、何となくタイトルの可愛い『ストロベリーショートケイクス』という映画が同じAmazonのサイトで目に留まって、クリックしてしまった・・・そしてその映画を観てからずっと、すごく妙な感覚にとらわれ続けている私なのである。



この映画を観るにいたるまでの、異常に長いイントロ的説明自体が、自分の数時間という人生をいかにコントロールできないかを物語っている。そもそも名車の映像も、そこ(ネット上)にあったから観たにすぎず、ものすごく観たかったわけでもない。それでも好みの世界なので楽しく観たのはよかったが、そのあとの団地のおばさんの電話もその内容のそれによる私の感情の不愉快さから、思わずクリックしてしまった変な映画の世界に引きずり込まれたことも、どれも私が選んだものでもないし、想定出来たものではない。



で、肝心な『ストロベリーショートケイクス』という映画だが、冒頭に池脇千鶴が男の足に縋りつきながら、どこかの商店街を引きずられていき、そのまま男に捨てられるという、衝撃的な出だしから始まり、突如場面が変わると、狭いアパートの一室に棺桶が置かれてあって、その上で目覚ましのベルが鳴り、棺桶の顔の部分の窓が開いてきれいな腕が出て目覚ましを留め、そのまま煙草の箱をとって箱の中から、煙が吐き出されるという、風俗嬢らしき女性の一コマ・・・このイントロが巧みすぎて全部見せられてしまったというわけなのだ。



こうやって物事は「私」の意図に関係なく、「私」というものの経験に基づく好みとか興味という過去の蓄積データから生じた「感情」に、「私」が突き動かされて進んでいくようである。



さて、その映画はかわいらしいタイトルとは正反対に、4人の「崩れた女」のストーリーである。誰もが一生懸命生きているのに、その一生懸命さのために男に捨てられ、社会に適合できず、落ちていく・・・けれど、映画的にはそれ自体が愛おしい人生ではないか、というようにまとめられているというか、ありがちなエンディングなのだが・・・とりわけ池脇千鶴は、社会の底辺にいて周りに翻弄されながら、芯があるのにつかみどころのない魅力的な女性をうまく演じている・・・『そこのみにて光り輝く』という映画の中でも、痴ほう症で性欲の強い父親に悩まされる極貧の女性を生々しく演じていた。本作では男に捨てられて、デリヘル(という商売がすごいな)会社の電話受付しながら恋に憧れるという現実離れした女の子(里子)役である。



他の3人のキャラクターも「痛い」女たちである・・・里子の勤めるデリヘル会社で風俗嬢をしながらお金を貯めている秋代(中村優子)、人気作家の装丁をするなど、そこそこ稼いでいる美人イラストレーターの塔子(岩瀬塔子)、そして塔子の幼馴染みで、よい条件の男と結婚したがっている、やはり美人OLのちひろ(中越典子)。



誰がみな美人でスタイルもいいのに、幸せではない。里子はデリヘル会社の、妻子持ちの社長に告白されてたじろいで仕事を辞めて、場末のラーメン屋に勤めるフーテンぶり。



風俗嬢の秋代はあんなにセクシーなのに、普段は棺桶の中に寝ている虚無な女で、専門学校時代の同級生の菊池(安藤政信)といるときだけが生きているようであるが、彼に告白もできない。



塔子は魂をささげてイラストを描くものの、その作品を生み出すまでの苦闘を理解されず拒食症になっていて、ルームメイトのOLのちひろがいかにもお気楽で憎らしい。半年前に別れたばかりの元カレから結婚したという葉書と、かつて彼に貸していたお金が返送されるーー社会的に成功しているばっかりに、他者からは同情されない孤独な女・・・これはこの映画の原作者の魚喃キリコ像らしい。



そしてちひろはフツーのOLである。仕事も友人関係も恋愛も、常にそつなく振舞っているのにもかかわらず、なにかが不自然で計算高く感じられ、男にも女友だちにも嫌われてしまう。そして塔子のように自分の能力で社会的に成功している女には、自分のような平凡な女の悩みは分からないと思っている。



さっき書いたように、開き直ったフーテンのリスもいなければ、セクシーで弱気なカラスもいないし、自尊心の高さに苦しめられているカブトムシもいないし、自分は平凡だから結婚するしかないと思い込んでいる雀はいない。



これらはみな魚喃キリコさんの頭の中にある妄想人間である。実際の人間よりさらに質が悪い、というか実際にはあんな変な人たちはめったにいないだろう。



ところが、私たちはこうした映画を一種の芸術だと考える---魚喃キリコさんも、映画監督の矢崎仁氏も、池脇千鶴をはじめとする役者たちも、社会的に尊敬に値する憧れの職業である。そしてこの映画の製作や配給には何百、何千という人たちと彼らの才能が使われ、さらに何十万という人たちが映画を見る―――一大産業なのである、がはじまりは、魚喃キリコさんという漫画家の妄想だ。



実際にはいない人たち、あり得ない感情を、映像化し、音楽をアレンジし、一編の切ないストーリーに作り上げる、なんという膨大な努力、そしてそれを観る私たち、なんという膨大なエネルギー。



それを観て何かを感じることが私の人生の、いったい何になるというのだろう。「ああ、誰もが切なさを抱えて生きていて、それがそのまま人生の美しさなのだ」と思えるだろうか?



いやそこまでは達観できない。そもそもそんな風に自分の人生を投げだしたい人などいないのだ。デリヘル会社の電話受付とか場末のラーメン屋に勤める女性など私の周りにはいないし、デリヘル嬢自体も知らないし、拒食症のイラストレーターも知らないし、フツーのOLとかフツーの結婚なんていうのも絵に描いた餅のようなものである。私たちはもっと現実的な世界を生きている。そう、がん保険に入るとか、子供を塾に入れるとか、週末のスキー旅行を計画するとか・・・



たいていの小説や漫画の原作というものは、底辺のストーリーである。底辺にいる人たちが、そうでない世界に憧れて、妄想を描き、抗い、挫折し、受け入れる、あるいは破滅への道をたどる人々のストーリー。社会的に底辺でなくても、殺人とか復讐とか、たいていの人の人生にまずは起こりっこない、現実離れしたテーマをもとにしたストーリーがほとんどである。



こうした非現実的な人間模様を描くストーリーを多くの労力と才能で「芸術」にして、それを観る、決して楽しい気分になるわけでもないし、観たら数日後には忘れてしまうものばかり、それなのに一大産業。



いったいこのブログはどこへ行きつくのだろう・・・誰も読まない前提で書いているのだが、実はここからが肝心だ。



つまり、こうした妄想から生じた現実味のない、映画や小説や漫画に出てくる人間の物語と、今「現実的」だと「私」が思い込んでいる「私の人生」は、もしかして同じではないのかということである。



だって、映画を観ていろいろ思い悩む鷹がいるだろうか?他者の妄想に振り回されるミツバチがいるだろうか?こんな文章をだらだら書きたいと思っている山猿がいるだろうか?



本当の私なんてあるのだろうか。本当の私がいると思っている私って、いったいなんだろうか?



つづく・・・



(副題に、「映画」という妄想の世界、とつけてみた)