フランク・ロイド・ライトを理解するために



1939年のライトの講演記録


フランク・ロイド・ライトの本や論文はかなり読み込んできたが、このたび、アマゾンからまた待望の一冊の本が届いた。それは1939年に 王立英国建築家協会で行われた4日間にわたるライトのスピーチをまとめた『An Organic Architecture』というタイトの本で、このたびライト生誕150周年を記念して復刻版が発売されたのである。邦訳は持っているが、とても大好きな本なので、原文が読みたかったのだ。

ところが、この本には再版特別企画として、アンドリュー・セイント教授という「高名な建築歴史家」による序文が載っていた。そして、それには本当に驚かされた。いったいこの本の出版の趣旨は何なのだろう!?

セイント教授は、ライトの講演が、集まった多くの聴衆にとって期待外れで、内容がなく、現実味もなく、矛盾だらけだと指摘する。そして当時その講演に参加してがっかりしたというとある建築家のコメントを長々引用している。以下はその引用文の最後。

Mr. Wright, who has a distinct gift of wisecracks, set himself to score off them and to raise a laugh at their expense, which he easily did. 
辛辣なジョークを飛ばす才能を持つライト氏は、観衆をバカにして笑いを取ることを簡単にやってのけた。

そして セイント氏は序文をこう締めくくる・・・

So, there was no mutual meeting of minds at the RIBA (the Royal Institute of British Architects). For the rest of his visit Wright stomped off to enjoy himself round London, which he was good at doing. After a short holiday in Dalmatia, he put the finishing touches to the text of the lectures back in Taliesin, unrepentant. They were promptly published that autumn in the handsome book that is here reprinted.
というわけで、 王立英国建築家協会でのスピーチにおいて、講演者が聴衆の心をつかむことはできなかった。イギリス訪問の最後にライトはロンドンを遊びまわったが、そういうことはお得意のようである。(クロマチアの)ダルマティアに寄った後、タリアセンに戻り、講演原稿に手を加えた---よくまあ懲りもせずに! その秋には立派な本として発行され、それがこのたび再販されたのである。


一体何なんだ、この皮肉たっぷりの序文の意図は?それに続いて、「くだらない」講演内容が、いかにも150年記念に相応しいハードカバーで 復刻されている意図は?じゃあ復刻しなければいいじゃないの、と言いたくなってくる。読んでいて腹立たしくなってしまった。

この腹立たしさは、ライトの研究者からよく受ける印象であるが。私は、彼らがライトを非難することに反対しているわけではない。非難するならなぜこういう企画に参加したり、あえて研究するのかと疑問に思うだけだ。ライトにたとえ非があったとしても、それを深堀したり貶したりすることに、研究者として何の意味があるのかが分からない。ライトの思想を素晴らしいと思う人をけん制しているのだろうか、だけど何のために?

帝国ホテルの末期にその建物の写真とエッセイを収めた、キャリー・ジェームス氏の本『Frank Lloyd Wright's Imperial Hotel』(1968)から引用して、この腹立たしさを収めよう。

Frank Lloyd Wright stood outside the mainstream of Western culture. It is the foreignness of his thought which is behind the strangeness of all his architecture. His idea of man and the world nearly opposite to ours; it is this we fail to grasp in our reaction to his art. To begin to understand Wright, it is necessary to put aside more of our traditional attitudes than may easily be done. It is necessary to see that his views of man and art were animated by the idea of unity, a sense of the singleness of all being and all life. This singleness, this inter-relatedness shaped his mind and his architecture in unusual and to us often incomprehensible ways. It is unity which ordered the being of the Imperial Hotel.  
フランク・ロイド・ライトは西洋文化の主流ではなかった。彼の思想の不可思議さが、彼のすべての建築に一風変わった作風を与えている。人間と世界に対する彼の考えは、我々とはほぼ正反対のものであり、我々が彼の作品を完全に理解できないのはそのためである。ライトを理解するには、思い切って既成概念を外すことから始める必要がある。彼の頭の中には、人とアートが一体感を持って生き生きとしている、あらゆる存在と生命が一体となって息づいているという感覚がある。この一体感、この相互の密接な関係性が、彼の思想と建築を並外れた、そして我々にとって不可解な形にしているのだ。帝国ホテルをつかさどっているのは、この一体感なのである。


と言って、ジェームス氏は、分析的思考で作られる従来の建築は固定の物質として存在するのであり、この物質と精神を分けて考える我々の思考の二重構造を指摘する。ライトの有機建築は、時間と場所と人間の命と一体であるがゆえに、二重構造思考では理解が難しい。そしてその二重構造が、人間から生き生きした暮らしを奪い、物質的・経済的至上主義的な世界に放り込んだのだと。

Unity deals with change and dynamism.
一体感の中には、変化と動的な流れがある。


私はこれを読んで、仏教の無常と因果を思う。あるいは、福岡伸一さんのいう「動的平衡」を。すべては流動している、この一瞬も宇宙も膨張し、生命は進化と淘汰を続け、私の細胞は分割し続け排出し続ける。あらゆる存在は相関関係の中に起きる、つまり因果よって一時的に生じている現象に過ぎない。

あるいはインドの元始哲学ーーすべては見るものと見られるものという相対から始まったという、本来は何もないのに、無であるのに、相対的な見方がこの世を作ったという二元論。

ところが従来の建築は、永続する固定的なものとしてとらえられる。さらに土地の選定、坪単価、強度計算、耐震構造、建材、工賃、流行――あらゆる側面が個別分析的に集積されて経済的に処理される。生命体として、またそこに暮らす人たちと一体感のあるものとしてとらえられることはない。

こういう既成概念がある限り、ライトを虚心坦懐に理解しようとは思えないし、そうなると彼の言葉がいちいち皮肉に聞こえるのかもしれない。彼の根本思想が分からない人にはたしかに彼の言葉は分かりにくい。彼の文章は、たとえ英語のネイティブでも難解に思えるだろう。しかし、理解している人には、ネイティブじゃなくてもよくわかるのである。

現実的に考えると、当時も今も、建築のプロには受け入れがたい思想なのだろう。そういう意味でライトは単なる理想家として見られているが、それでも根強い人気がある。彼の鮮烈なメッセージが色褪せないのは、真実だからだと思いたい。



1968年帝国ホテル解体直前の写真集




ウディ・アレンの映画~ある種のブラック・ユーモア



先のブログに、ウディ・アレンは自然体だと書いたが、その後つらつらいろんなところで彼の映画のシーンやセリフを思い出すたびに、あの自然体の裏には、やっぱり一つの屈折したものがあるような気がしてくる。

『おいしい生活』(2000)にしても『マッチ・ポイント』(2005)にしても、『ブルー・ジャスミン』(2013)にしても、そこに描かれているセレブはいつも不安定なセレブである。ヨーロッパの権威あるセレブに憧れている似非セレブ、あるいは成金の世界。

祖父母がユダヤ人というヨーロッパの中で独特の運命を持つウディが、アメリカという成金セレブの世界で成功しても、しかも映画という人気稼業とも虚業ともいえる世界で成功したところで、何か根本的なことが充たされない・・・それが彼のいう、「子どもの頃の夢が全部かなったのに、なぜか『落伍者』の気分がぬぐえない」ということなのかもしれない。

ある種の諦念に似たという気持ち。社会的に評価されても、「所詮は」という気持ち。これが彼をして、どこかノンシャランというか投げやりというか、自然体な雰囲気を漂わせているのだと思う。そしてそのシニカルさが彼の作品全体に表現されている。成金セレブの虚を哂い、正当セレブの欺瞞を嗤い、それでもセレブになりたい人たちを笑い、似非セレブである自分をわらう、ある種のブラック・ユーモア。

古代エジプト時代に迫害され流浪の民となったユダヤ人。国を持たない民族は知の力で世界を席巻した。ビジネス、アカデミック、アート、いずれの世界でもトップに立つ人が多い。世界の人口の0.2%というユダヤ人が、ノーベル賞受賞者の22%を占めている。こんなに国際的に成功しても、故郷が欲しい、しかし1948年に建国したイスラエルはいまだ紛争状態だ。

2000年近い歴史と国土を共有し、基本的には誰もが同じ日本人で階級も意識されることなく(戦後からとくに)、同じ言語で話し、まったく同じ時間に同じ内容のテレビを見ることができる私たち。政府に不満があったところで、選挙に行かなくても済むくらいの程度の私たち。ここではお笑いが全盛のようだが、ウディの根深いブラック・ユーモアとはだいぶ濃度がちがうみたいだ。




『恋と映画とウデイ・アレン』~好きなことを自然体で



私はウディ・アレンの映画が大好き。

2011年に発表された本作は、彼の長年にわたるコメディアン・映画監督としてのキャリアをドキュメンタリーに仕立てたものだが、これ自体がすでに一篇の物語になっている。彼の幼いころから現在までのエピソードが妹やともに作品を作ってきたプロデューサーや俳優たちによって語られ、また本人のインタビューや作品の名シーンが、彼の人生の軌跡をくっきりと浮かび上らせる。

それにしても、こういう華やかな業界にいて、ウディ・アレンはという人は、なんと自然体なのだろう。若い時からコメディの才能に恵まれて、はやくからマスコミの人気者になったが、その後どんなに映画が売れても、売れなくても、誰と一緒になっても別れても、様々なスキャンダルに見舞われても、一貫して彼の姿勢は変わらない。「好きなことをしたい」、ただそれだけである。

ミア・ファローと暮らしていた時に、養女と恋愛関係になり、ほかの子供たちの親権を争うに至ると、彼の評判は地に落ちたがーー

「好きなように考える自由をだれもが持っているからね。同情してもしなくてもいい。僕を嫌っても好きでいてもいい。僕の映画を見続けてもいい、二度と見てくれなくてもいい、そう思っていた。」

ーーのだそうだ。このセリフに彼の強さと本質を見る気がする。この徹底的に自分に正直でいること、そしてそれを他者の権利としても認めること――これはなかなかできないことだと思う。

監督としても、役者に役作りを強いないのだそうだ。それでいて役者はベストを尽くそうと頑張って、コメディなのにアカデミー賞を取る俳優も少なくない――ペネロペ・クルスやケイト・ブランシェットなど。「満足したらもう一度取り直そうとは思わない、それより早く家に帰りたいんだ」「偉大な芸術家が持つような集中力や熱意は持ち合わせていない。自宅でスポーツを見ているほうがいい」、こんな監督の姿勢が、かえって役者をリラックスさせて、いい結果を生むのであろう。

実際、ダイアン・キートンによると、ウディは「好きに演じてくれ、セリフも変えてもいい。さっさと撮ろう」とよく言っていたそうで、「プレッシャーも何もない、あんな監督は他にいない」ということである。

普通の監督は自分の前作を超えた作品を作ろうと思い詰めるが、ウディは自分で興味があるかどうかが一番の問題で、それに全力を尽くすのだという。前作が売れたから同じものを作ろうとは思わない、むしろ違うものを作ってみたい、それがたとえ観客を裏切ることになっても。当然ながら失敗作はある、しかし彼のスタンスは好きな映画を撮っていれば「数打ちゃあたる」というわけだ。

「40本ほど作品を取ってきたが、価値のあるものはほとんどない。簡単に名作が生まれたらやりがいも価値もない」

このフラットな自己評価と前向きな姿勢がすごい。自虐でも謙遜でもない。80歳を前にして、彼は言う。

「恵まれた人生だと思う。子どもの頃の夢をすべて実現したのだから。憧れていた映画監督にも役者にもコメディアンにもなった。ミュージシャンとして世界中のホールで演奏もした。夢見たことでかなわなかったことは一つもない・・・こんなにも運がよかったのに、人生の落後者のような気分なのはなんなのだろう・・・」


この、彼にまつわる「人生の落後者」観、これが愛される秘密でもある。体も小さいし、ハンサムでもないし、髪はぼさぼさで野暮ったい服を着ているのに、ジュリア・ロバーツのような美女と恋に落ちる役を演じても全然おかしくない、こんな俳優がいるだろうか。神経質で知的でセクシーでシニカルで、こんな役者はほかにはいない。そして彼が演じる役はいつも同じキャラクターなのに飽きることがない。っていうか、役というより、現実の、自然体の彼がそのままそこにいて、それを素直に観客は楽しんでいるのである。

自然体の力はすごい。無理に演じなくてもいい。美人でなくてもスタイルがよくなくても頭がよくなくても要領が悪くても、そのまま好きなことを好きだと言って続けていれば、人はみな魅力的なのかもしれない・・・

そんなことを思わせてくれたドキュメンタリーだった。






『阿修羅の戦い、菩薩のこころ』~小池百合子さんの挑戦



先のノンシャランなブログがちょっと恥ずかしくなるような本を読んだ。

作者は溝口禎三さん、豊島区で会計事務所を経営している、わりと古い知人だ。兄貴肌で自然にみんなが集まってくるような、しかし熱血漢というのともちょっとちがう・・・青森県三戸育ちらしい東北の純情さを持った、豊島区は池袋というどこか下町的な大都市の、すごくスマートでもないけど、東京人らしい・・・う~ん、書けば書くほど彼の独特のキャラクターが伝わらなくなってきた・・・とにかく、とっても明るくてユニークな人である。私は奥さんとも親しいが、彼女もまた不思議な魅力のある女性で、二人ともべったりじゃないのに、なぜか二人がセットのような、全然違うキャラクターなのだけど、禎三さんの活躍の陰には、必ず奥さんの存在が感じられる――内助の功といった窮屈なものではないが――とにかく面白い夫婦なのである。

で、溝口さんの旦那さんの方が、標記の本を出版した。これが三冊目。いずれも豊島区の高野之夫区長さんを通じて、彼が外野から間接的に関わることになった区政や都政に関するものなのだが、素人目線でありながら、綿密な調査と取材に基づいた、読みやすくて面白い本である。

豊島区を選挙区にもつ自民党国会議員だった小池百合子さんの都知事選を応援することになった溝口さん。魑魅魍魎の選挙の世界を、素直で素朴な視点から読み解いていく。知りたいけど、知りなくない、あの(うちのマンションからも見える)近未来的な都庁の建物の中で起きている、コメディアンとか作家とか評論家をトップに据えた、がちがちの官僚世界・・・私も都庁に勤める知人からいろいろ聞いてはいたが・・・そしてそれらのトップや官僚を陰で動かしているらしいドンの存在!(業務というより予算取りについてだと思うが)。

ここの暗~く恐ろしい世界に、果敢にも切り込んできた小池百合子! 去年の知事選で、291万票という、党員である彼女を推薦しなかった自民党が推した元官僚・元岩手県知事の増田寛也氏をなんと100万票以上も上回る、圧倒的な投票数を獲得して都知事の座を射止めた。彼女の徹底した戦略がマスコミを動員し、選挙への関心を高めて選挙率を上げ、浮動票を取り込んだのだ。町内会とか商店街というベタな「地上戦」に対して、小池陣営はインターネット、SNSなどを効果的に使う「空中戦」を展開したのだそうだ。

この彼女の策士ぶりは、もちろん今回に始まったことではない。溝口さんはこれについて、小池さんの、独立精神を重んじる実業家の両親からの影響や、好きだった英語プラスアルファを学ぼうとカイロ大学に進学したことなど、かなり若いころからの、凡人とは違う、有能な戦略家的エピソードを掘り起こしている。やっぱり偉大な人は子どもの頃から違う、親からして違う、という、これだけはどうも古今東西不変の法則のようである。同じように子どもの頃から英語が好きだった私も一応アメリカへ短期留学したが、なんというか、最初のボタンのかけ方が・・・いってみれば、私は100円ショップで売っているような小さなプラスチックのボタンを二つくらい掛け違えて生きてきた気がしてしまう、ここに書かれた彼女の半生記を読むと。小池さんのボタンは真鍮の立派なもので、着ている服は詰襟のしっかりした軍服みたいである。まるで無駄のない、目標一直線のような生き方・・・

自虐に陥っても仕方がない。とにかく彼女は才色兼備で明るくて勇敢で、男性の潔さと女性の美しさを併せ持った、まさに「選ばれた人」であろう。エジプト留学中は第4次中東戦争(1973年)の戦火も体験した。西洋一辺倒の価値観をはやくから抜け出し、若くして真の国際人となった彼女の行く手に人生のレールは切り開かれてゆく。アラビア語の通訳、個性的なジャーナリスト竹村健一氏のTV番組のアシスタントを経て、人気ニュースキャスターに。

キャスターとして、毎日のニュースを伝える中で、世界の激動をひしひしと感じました。日本の動きを見ていてイライラしていましたからね。ましてや(だんだん業界がデジタル化してきたから)シミもシワも、ますますはっきり写るようになるとなったら、舞台を変えよう、と思った瞬間は確かにありました。

別にシミやシワが画面にはっきり写るのがいやで政治の世界に飛び込んだわけではないと思うが(笑)。きっかけは、細川護熙氏の日本新党立ち上げだった。「責任ある改革」をうたった、この元熊本知事の理念に共感した小池さんは、この新党から立候補し国会議員となった。1992年のことである。

そう、あの細川さんの登場はたしかに鮮烈だった。私もうちの人も一生懸命応援したっけ(投票しただけだけど)、日本が変わると思った・・・が細川内閣は一年足らずで終了・・・盛り上がっただけに、裏切られたというか、失望感が大きくて、以来うちの人は(かつて某県会議員の事務所で働いた経験からも)もう政治には一切関心を持たないことに決めてしまったほどである。私もつられて、次第に選挙には行かなくなった。「税金は払っているから国民的義務は果している。選挙に行かない代わりに政治に文句を言わない」と決め込んで。

しかし、さすがは小池さん。細川さんからは政治の理想を学び、次に小沢一郎さんのもとで政治の現実を学ぶ。そして小泉純一郎政権下では、地元の兵庫から「刺客」の落下傘候補として東京10区(豊島・練馬区)に降り立つことで、衆院解散選挙における与党の大勝を先導し、首相が苦闘していた郵政民営化を実現のものとした。

その後は環境大臣としてクールビズを考案、国内のみならず世界中に広め、さらには女性初の防衛大臣となる。

しかし大臣になったとはいえ官僚世界は動かしがたい。そこでこのたび、「崖から飛び降りるつもりで」、党からは孤立無援の状態で、舛添要一氏のスキャンダル辞任による東京都知事選に打って出たわけである。

溝口さんは、地元の有志とともに小池さんを応援する「勝手連」に参加して、彼女の戦いぶりを間近に見る機会を得る。そして「ものすごい人がいるものだと、小池さんの能力とパワーに圧倒されました」という。

この都知事選の本を書いた一番の動機は、なぜ自民都連(自民党都議による連合会)は、小池さんではダメだったのだろうかという疑問でした。・・・自民都連の小池候補拒否の論理を追ってゆくと、図らずも現在の既存政党の大きな問題点が現れてきました。

と、この本の送り状に書いてある。結局、これまでの歴代知事も、この自民都連、つまりはそれを牛耳るドンの力に負けたようである。都知事の権力は、米国大統領のそれに匹敵する、というような話も聞くが、そう単純ではないようだ。この本では、都知事選をめぐって繰り広げられる、この自民都連による矛盾だらけの対立候補選びが如実に描かれているのだが、それはまるでイエス・キリストと、無実の彼を裁判にかけるパリサイ人ぐらいに明確な善と悪のストーリーである。

さて、キリストないしはジャンヌダルクの生まれ変わりのような(?)小池さん、これからどうなるのだろう。すでに2020年オリンピックの開催費用の削減や豊洲市場移転問題を巡って、窮地に立たされているといった報道が目立っている。また、7月に実施される都議選では、彼女が率いる「都民ファーストの会」から過半数の議席(127人中64人)を目指しているが、この動きに対して、いまや自民都連どころか、国を敵に回してしまった感がなくはない。安倍首相が、党内の都議選の決起大会で「急に誕生した政党に都政を支える力はありません、私たちは、まなじりを決して戦い抜く決意だ」と勇ましく語ったのは一昨日のことだ。

例のドンは高齢のために都議会を去ったと言うが、今度は自民都連会長の国会議員下村博文氏やオリンピック大会組織委員会の森喜朗会長、そして首相までが攻撃を仕掛けてくる・・・

作者の溝口さんは、女性に優しい彼だからこそまた指摘できると思ったのだが、彼女の成功のカギは女性ならではの視点や立ち回り方があるという。基本的にはピラミッド構造の男性社会はどうしたって矛盾と行き詰まりに直面する。さらに男性は嫉妬深い・・・下村議員や森会長、あるいは菅義偉官房長官などの、非生産的な小池さん攻撃を見ると本当にそういう気がする。言葉の暴力に近い。攻撃するより上手に話し合いができないものか。都民も国民もどっちの味方というより、まともな大人の協力体制を望む。議会は揚げ足取りやスキャンダルをめぐって勝ち負けを競うショーではない。こうした対立をあおるマスコミのレベルもひどすぎる。(一体議会に一日どれだけの予算が使われていると思っているのか。森友学園とか首相夫人とかの話は、別のところで関係筋が論理的に処理してほしいよ、もう)

浮動票を空中戦で掴んで勝利した小池都知事だが、空中戦だけに支持者は浮動であり、この先支持し続けてくれるのかどうかかわからない。インターネットの情報はプロの発言も素人のコメントもめちゃくちゃで、信用が置けない、掴みづらいし、どう発展するかわかないし、どう影響するかもわからない魔物である。この際だから、小池さんには、国民の知性を信じて、稚拙で余計な情報や男どもの横やりに振り回されず、信じる道を行ってほしいものだが、直面する問題はどれも根が深そうで、予想外の困難があるのだろう。

理想を貫く難しさという点では、同じく細川政権誕生の頃、政界に登場した俳優の中村敦夫氏を思い出す。彼もまた若くして世界に飛び出して国際感覚を身に着け、俳優として成功したのちに、ニュースキャスター・ジャーナリストとしてTV番組を担当、その後参議院議員として独自路線で活躍し、理想を掲げた新政党も作っている。しかし結局は選挙に負けて政界を去る羽目になった。

たまたま昨年の夏に、ある俳句の会の集まりで、山頭火の朗読劇をしている彼に会い、仏教僧として得度したことを知った。「(この世の矛盾を解決するのは)仏教しかないと思っている」と言っていた。名文家としても知られる彼の著作(『国会物語―たった一人の正規軍』他)をいくつも読み、思想を理解している私にとって、中村氏の得度が、政治に失敗した厭世観から来たものなどではないことを分かっている。人一倍才能に恵まれていた彼は、若いころから人の何倍も世界を見て、体験することことができた。その人が最後にたどり着いた境地であり、それまでの経験がすべて元になっている。華やかな芸能界はもちろん、貧困による餓死の現場から政界の裏側まで、普通の人はとても経験できない世界を見て生きてきた人だ。

あら~、なんだかまたノンシャランな世界に戻りそうな私・・・だけど、同じ女性として、男性社会の矛盾を見せつけられてきた私も、小池さんが彼女のブレーンたる未来の議員とともに、新しい価値観とやり方でオジサンどもを骨抜きにしてほしいと願っている。オジサンたちだって男のピラミッド社会のあほらしさは身に染みているはずなのだ。というか、だからこそ前都知事達も頂点に立つ前に自ら降りてしまうしかなかったのだろう。まただからこそ、アメリカのトランプのような、超型破りな人しか頂点に立てなかったのだ。

とにかくずっと選挙に行っていなかったけど、溝口さんのおかげで、都議会選だけは小池さんを応援するために行こうと思う気になった。25年前に政治に失望したうちの人もそう言っている。


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『釈迦の教えは「感謝」だった』②~当たり前すぎて見えないこと


前のブログの続き


小林正観さんの本にハマったきっかけは何だったかしら・・・表記の本は般若心経についての解説本でもある。

ここ数年、いろいろなことがきっかけで(更年期障害もある)不眠症になってしまった私は、病院に行ったり専門書を読んだり、瞑想音楽を聴いたりといろいろしてみたが、起きてしまって瞑想するのが一番いい方法のようだった。しかし瞑想するつもりが、雑念が湧いてしまい妄想になってかえって眠れなくなることも多かった。そこで般若心経をひたすら唱えていれば雑念は起こらないのではないかと、暗記してみることにした。

暇さえあれば写経をしたり、YouTubeで流れる読経に合わせて唱えたりして、だいたい1週間で暗誦できるようになった。ところが、眠れないときのおまじないのはずなのに、意味を考えると分からないことが多くて、余計に眠れなくなってしまった。そこで、解説本を読みだした。

まずは高神覚昇氏の『般若心経講義』から始まり、家になぜかあった中村元とか瀬戸内寂聴とか、その他いろいろ10人くらいの解説本を読んでみた。そうこうするうちに、般若心経の世界観は、仏教徒でなくても悟っている偉人は誰でも同じようなことを言っているし、その他インド哲学も、さらには最新物理学もどうやら同じコンセプトに基づいているということが分かってきた。

そのなかで一番わかりやすいのが表記の、小林正観さんの本だろう。般若心経について、とてもシンプルでズバリと解説している。小林さんは、子どもの頃自分と同じ名前の小林少年に興味を持った、あの怪人二十面相シリーズに出てくる明智小五郎の弟子である。(私もハマったなあ!)それからシャーロック・ホームズにハマった彼は人間観察のプロとなる。大学浪人中からあちこちを旅して人間を見続けるうちに、人から相談を受けるようになり、旅行作家として、40年間も手相見人相見をすることになったのだそうだ。面白い!

この間、人から受ける相談の内容が変わってきたという。自分の病気とか自分自身に向き合って生じてくる悩みというより、他者に関するものの相談が増えたのだそうだ。例えば「夫が働いてくれない」、「姑が意地悪をする」、「子供が学校に行かない」など。

彼は言う、これらの悩みは結局、人が自分の思い通りにならないことから派生するものだと。彼のもとに相談に来る人たちだけではない、そもそも釈迦の悩みもそうだった。
この悩み・苦しみの根元は、「思い通りにならないこと」と見抜いた。だから「思い通りにしようとしないで受け入れよ」と言った。その最高の形は「ありがとう」と感謝することだったのです。

だからとにかくなんでも「ありがとう、ありがとう」と何千回も何万回も唱えると幸せになるとか、トイレを掃除するとお金がたまる・・・と言ったことも書かれているので、これが人によっては、小林正観は胡散臭いとかインチキだとか言うかもしれないけど、結局、彼は文字の読めない一般庶民に「南無阿弥陀仏」と唱えるよう布教した親鸞と同じことなんじゃないだろうか。

もっとも簡単な言葉ともっとも簡単な行為。

私みたいに小難しく考える必要もない、難解な本も読まなくていいし、瞑想なんて厄介なことをしなくてもいい。幸せになるのは本当は簡単なのだ。世の中は単純なのに、人間が難しくしているだけ・・・一見深刻に思える問題も、人を思い通りにしたい自分が、自分の問題だと思っているだけで、実はそれは人の問題だ、それがたとえ我が子でも。
「なぜ不登校なの、なぜ学校へ行かなくなったの」
と(子供に)いくら問いただしても、もうたぶん、真相や真実を話してはくれないのでしょう。この子は最善の方法として、学校に行かないことを自分の判断で選んだということです。
 親は自分に、
「この子を学校に行かせる、行かせなくてはいけない」
という思いがあるものだから、不登校が悩み・苦しみになってくるのですが、その子が不登校という結論を選んだことを丸ごと受け入れてあげたならば、そこに悩み・苦しみは生じません。・・・不登校である間、親がずっと見方であるのだということを示し続ければ、子供はほんとうに安心して信頼して、心を開いてくれるかもしれません。

毎年お正月に必ず見るようにしている『青空娘』という映画がある。増村保造監督、若尾文子主演。この両者のコンビで『刺青』のようなかなりエロくてグロい作品も撮っているが、前者は文部省奨励作品ともいうべき、明るく健康的な映画である。メッセージは明確だ、どんな境遇でもこの主人公なら絶対に不幸になりっこない、と。とても暗い生い立ちの不幸なはずの娘だが、どうしたって幸せしかやってこない生き方なのだ。あまりに当たり前すぎて、かえって忘れてしまう・・・というわけでお正月に観るようにしている。私の周りの人を見ても幸せな人とそうでない人には、このパターンが100%当てはまっていると思う。

しかし正観さんの言っている幸福論はもっとずっと簡単だし、核心をついている。人間は悟るためには3秒あればいいという。

一秒目、過去のすべてを受け入れること。
二秒目、現在のすべてを受け入れること。
三秒目、未来のすべてを受け入れること。

今回再読してみて特に心を惹かれたのは、以下の部分だ。このところライトや羽仁もと子という偉人を研究したり、植松三十里さんの書かれる歴史上の立派な人たちに感心しているが、そして、彼らは確かに人類の平和や文化に貢献すべく犠牲になった人たちではあるが、では現状はどうであろう。ライト建築のような豊かな住環境も、羽仁もと子の目指した人間教育も実現されていない。重光葵たちが頑張ってくれて日本の平和が達成されたが、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない今日である。

もちろん彼らがいてくれたから、今の平和な時代の私がいる、こうした恩人には今の私の実存という個人的な因縁という意味では感謝している。しかし、結局人間も世界はなるようにしかならない・・・??

あるいは本当に幸福や平和を達成したいなら、これからは努力を積み重ねた人間による経済活動や国際外交や、ましてや抑止力としての軍備ではなくて、もっとも基本的な、人間の欲望の抑制という方向にしかないのかもしれない。

正観さんの幸福論、ちょっと長いが、この本を手放すこともあって、引用してみることにする。ほかでもこういう話は読んだことがある。また人は自分が意識する前に自分の言動がすでに決定されているという最新の「脳科学的常識(養老猛)」にも、ある意味で合致するようである。

すべてを淡々と受け容れる 
 今、生きている自分の人生が、生まれる前に全部、自分の書いたシナリオであったということを認めることができると、達成目標や、努力目標はいらない。喜ばれる存在であればいい。それはイコール、頼まれごとがあればそれでよし、ということと同じ結論になってきます。生きることに力を入れる必要がありません。生きることに気迫を持って臨む必要はないみたいです。
 夢や希望をたくさんもってそこに努力邁進しなければいけないという人生は、もしかしたら、そのように洗脳された結果なのかもしれません。生きることにそんなに力を入れなくてもよいみたいだ。頼まれごとをするだけで、努力目標や達成目標は必ずしも立てなくてもいい。
 楽しい人は立ててもかわまないのですが、必ずそれを打ち立てて、そこへ向かって歩まなければならないということはないように思います。
 しかも、生まれる前に、全部、自分でシナリオを決めてきた、その書いたシナリオのとおりいろいろなことが起きてくるので、そこで起きたことに対して、とやかく不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句、否定的な言葉を並べて、論評・評価するよりは、それを淡々と受け容れて、「ああ、そうなりましたか」と生きていくことの方が、はるかに楽な生き方でしょう。

最近科学の一分野として「幸福学」というのがあるそうだが、それによると幸せな人(数値による定義あり)の近くにいる人は自分の幸せが40%アップするらしい。間接的な知り合いにも、40%より数値は減るが、幸せが「伝染」するのだそうだ。なんだかちょっとあいまいだが・・・正観さんの話と考え合わせるに、おそらく、幸せな人は受け入れる力の高い人であり、その人の傍にいるとそのままの自分が受け容れてもらえるから幸せを感じ、その幸せ感をまた自分も人に与えられるということなのだと思う。

大きな夢や目標をもって努力しなくても、人は幸せになれるし、人を幸せにできる・・・ということである。というより、むしろそっちの方が、これからの生き方なのではないだろうか。

私の愚痴ばかり言っている知人に関して言えば、彼女はそうなるべくしてそうなっている、だから私がどうこう思う必要はない。ただ彼女をそのまま受け容れて、たまたま私が感動した読みやすい本を送ってみる。それを読むかどうか、読んで彼女が少しでも幸せになれるかどうかは、もう私の考えることではない、ということであろう。

正観さんは2011年に62歳で亡くなった。早すぎる死のように思えるが、頼まれて年に300回もの講演をし続けた結果疲労しきったといわれている。何もかも悟りきっての、平和な臨終だったそうだ。長生きが必ずしも幸せを意味することではないと私も常に思っている。実に素晴らしい死に方だと思う。

この本のラストに書いてある言葉を挙げておく。

神のプレゼントの意味 
 「感謝」ということの本質は、どうもラテン語という古いヨーロッパの言語を考えた人が、次のように気が付いたようです。pastが過去、present―プレゼントが現在、未来がfuture。
 神の立場からすると、今あなたにあげているもの全部が、神のプレゼント。要求をぶつけて、「何が欲しい、寄こせ」と言っている人がいたら、神はそういう人間にさらなるプレゼントはしない。
 いま目が見えること、耳が聞こえること、食べられること、話せること、歩けること――そういうことの一つひとつ、いま自分が一身に受け浴びているものが、実は全部、神からの、宇宙からのすでにいただいているプレゼントです。
 いま受けて、浴びているものがプレゼントなのであって、今手に入っていないものを「寄こせ、寄こせ」と言い、それが手に入った場合だけ「プレゼント」だ、というのは失礼です。


あるべき社会なんて、分かるはずはないのに、不平不満ばかり述べている私。


 目の前の現象についていちいち論評・評価をしない。否定的な感想を言わない。
 タ行「淡々と」
 ナ行「にこにこと」
 ハ行「飄々と」
 マ行「黙々と」
 そのように淡々と笑顔で受け入れながら生きていくこと。
 そして頼まれごとを淡々とやり、頼まれごとをし、頼まれやすい人になって喜ばれる存在として生きていくこと。目の前に起こる現象についていちいち過剰に反応しないで、一喜一憂しないで生きていくこと――これがほんとうに楽な生き方なのです。


今年50歳になる私、残りの人生はこの「タナハマ」精神で生きていこうと思っている。



『釈迦の教えは「感謝」だった』①~愚痴を繰り返す知人へ






私には、夜中でも早朝でも電話をかけてきて、何時間でも愚痴をこぼし続ける知人がいる。去年、3年間にわたる闘病を続けた年下のご主人を68歳で亡くし、寂しいやら、親族や友達との付き合いがうまくいかないやらで、お酒を飲んで身体を壊し、一度は入院までしてしまった。

私は彼女とそう深い付き合いではない。もう5年も前にたまたま旅先で彼女のご主人とも出会ってちょっとお世話になっただけの縁である。しかしその後細々とした電話による交流が続き、ご主人のお葬式は行けなかったが、四十九日に行ってきた。遠くの島に住んでいる。

彼女の愚痴は同情に値する。小さな田舎のコミュニティには珍しく国際的な活躍をしたご主人だけに、対外的な交流も親戚づきあいも、凡人にはない面倒な側面があり、四十九日とはいえ法要は大掛かりなものだった。私は第三者として、この法事を滞りなく取り仕切らなくてはならないというプレッシャーに押しつぶされそうだった彼女を、少しでも支えてあげようと思ったのだ。英雄色を好むというのか知らないが、ご主人には女性関係もいろいろあったみたいで、彼の遺言をめぐり前妻やその子供が絡んだりして、短期間の滞在で私が見聞きしたものは、そのまま小説になりそうな濃い世界だった。(いつか書いてみようかな)

が、あれから約1年、恨みつらみの同じ愚痴を言い続けている彼女の話を聞くのは、こちらとしても耐え難い。聞いてあげて気が楽になるならと、先方が酔いつぶれて眠るまで3時間近く電話を繋いでいたこともあるが、しかも愚痴をこぼすのが私だけならいいが、だれかれ構わず同じように(前妻の子供にまで)愚痴っているのだから、いやになってくる。ご主人の遺言を巡っても、知人の弁護士や彼女の地元の弁護士に相談をして、いろいろアドバイスをしたのだが、どんなに親身になったところで、こちらの話には聞く耳を持たず、ひたすら愚痴る。それを聴いてあげたり励ましたりしたところで、まったく効果がない。元々彼女を私に紹介した、同じ島に住んでいる知人は、「旦那も居なくなったんだし、好きなだけ酒を飲んでも誰にも文句言われないし、それで死んでも幸せだよ」とあきれ返って放り出してしまった。

私は夜は携帯をナイトモードにし、日中かかってきてもほとんど取らないことにした。が執拗に鳴り続けるコールが彼女の悲鳴に聞こえて、時々取ってしまう・・・が、また同じ愚痴。私だってそれなりに問題を抱えているし、何より忙しいのだ。「ご主人がなくなったのはお気の毒だけど、子供を亡くしてしまった人もいるんだし・・・」とか「そんなに大好きな人と一緒にいられてよかったじゃない。嫌いな人と別れられずに一緒にいる人もいるんだから」と、とんちんかんな返事をしてみたり。

ところが、そういう意見を言うと、彼女は逆上する。そして「どうせ私なんか誰にもわかってもらえない、もう死ぬ」と電話を切ってしまう。最初は私もこりゃ大変だと思って慌てたが、このごろはその「死ぬ」にも動じなくなった。だいたい本当に死ぬ人は、こういうタイプではないと思う。

もう匙を投げたいし、電話にも出たくはないが、最後に、表記の本を送ってみることにした。ちょっと前にハマった小林正観さんの本である。小難しい本は敬遠されそうだから、こういうやさしい文章の本なら読んでくれるかもしれない。

副題は「悩み・苦しみをゼロにする方法」である。彼女に送る前にもう一度読み返した。1時間で読み終わる。最近、ライト関連の論文とか宗教関連の本を読んでいるので、いまさらこんな軽口の本なんて、って思っていたが、どうしてなかなか、これは頭でっかちの人にはむしろ理解できないかもしれない、実にシンプルかつ当たり前の「幸せへの最短距離」を説く本だと思った。


つづく


『調印の階段』②~ジェームス・ボンドより面白い重光葵の冒険



前回のブログに続く

重光葵・・・う~ん、聞いたことある、ポツダム宣言に調印した外務大臣?・・・それくらいしか知らなった私である。第一、葵を「あおい」と読んでいたが、実は「まもる」である。ほかの植物を守って堂々と咲く「向日葵=ひまわり」から取られた名前だそうだ。

外交官としてドイツ、イギリスに駐在、第一次世界大戦後のパリ講和条約日本代表、中国、ソ連、イギリス大使、そしてゴールは外務大臣――すごい経歴!ザ・外交官だ。

植松さんの小説では、重光の必死な努力にもかかわらず開戦を避けることも、終わらせることもできなかった苦闘の記録がリアリティをもって迫ってくる。そして彼は、疎開先の日光で、もう一度重要な任務の要請を受ける――重要だが、不名誉な。無条件降伏文書の調印だ。

横浜沖に浮かぶ巨大戦艦のアメリカ海軍ミズーリ号。読者はここで息をのむようにして、階段を登る主人公の緊張と屈辱を見守ることになる。シルクハットをかぶった重光が、眼下は海という、梯子段のようなタラップを義足で登りつめたところへ、普段着のマッカーサー元帥が登場するのだ、見下すように。しかし続く交渉の場で、天皇の戦争責任を追求するという元帥を押しとどめることができたのは、重光の力量に他ならない。

――世界でもっとも古い王家を、あなたは今、ここで潰そうというのかーー
 アメリカ人は自国の歴史が短いだけに、長い歴史には弱い。その点を突いたのだ。そして、すぐさまマッカーサーを持ち上げた。
――あなたは合衆国政府のみならず、連合軍の意志を変えさせるだけの力を、持っているはずだ。GHQが楽に役目を果たせて、日本人も喜んで従う方法を選んで頂きたいーー

マッカーサーの態度が変わる、「こんな切れ者の外務大臣がいるとは」。重光が国体を守り、GHQの軍政を回避したというわけか。まるで火花が散るような緊迫シーン、外交って戦いなのね。彼の右腕であり後に日本初の国連大使になる加瀬俊一が言う。

「戦争には負けたけれど、外交で勝った。日本の外交が勝ったんです。」

しかし、終戦後に移った鎌倉の平和な日々は続かなかった。マッカーサーの信頼を得た重光だが、駐ソ時代の因縁から巣鴨プリズンにA級戦犯として収監されることになる。先に判決ありきの戦勝国による戦勝国のための国際ショーであり、正当な根拠があって裁かれるわけではない。獄中で松岡洋祐が「国際連合に加盟してくれ」と重光に託して病死。東条英機は「戦争のかたりべになってくれ、あの戦争を止めることなんか、誰にもできなかったことを、書き残して後世に残してくれ」と遺言し処刑された。重光は禁錮7年(後に減刑)、そこで歴史に残る手記を書き上げた。

そして最後の階段は、1965年12月、ニューヨークの国際連合会場の演壇だ。(とはいえこの調印にこぎつけるまでにも、アジア諸国からの支持を集めたり、フルシチョフと会って日ソの国交回復を図るなど、重光の苦闘は続いた。)当日、演壇で英語でスピーチする重光。外交官人生最後の栄光の瞬間である。

――今日の日本の政治、経済、文化は、過去一世紀にわたる東洋と西洋、両文明の融合の産物です。そういった意味で、日本は東西の架け橋になり得る。このような立場にある日本は、その大きな責任を、十分に自覚していますーー

苦学して外交官になり、テロによって脚を失い、係争中の国々の公使大使として政府や軍に捨て石にされ、反戦の努力を続けて来たのにGHQに投獄され、それでも日本の国際社会復帰をあきらめなかった男。

歴史の教科書には一行ぐらいしか出てこないような人物だが、こんな外交官がいたなんて。戦前から戦後まで、これほど長期にわって国際舞台に立ち、昭和天皇、チャーチル、マッカーサー、フルシチョフといった大物に持論を説き――まさに波乱万丈である。戦争は哀しい事実だが、こんな有能で度胸ある外交官がいなかったら、もっと大変なことになっていたのかもしれない。現在の在日米軍や北方領土問題も、当時の日本が九死に一生を得るための、ぎりぎりの外交交渉の副産物、というか取引条件だったのかもしれないが、今の時代に、これらの条約を改正したり、彼の国連スピーチの意志を継いで、アジアのリーダーたる国を目指すような外交官や政治家は出てこないものだろうか・・・

それにしても、こんなたいへんな重光の人生を、彼の暮らした地名と、彼の登った階段をモチーフにして、一冊の本に書ききった作者の手腕もまたすごい。ザ・外交官重光の、世界を舞台にした歴史的人物との駆け引きは、つねに時間との戦いであり、時に碧眼の美女たちも登場するし(!)、この上質なスリルとサスペンスは、007より面白いんじゃないかな~。いやあ、植松さん、すごいなあ。


文庫本も出ています。アマゾンで発売中



『調印の階段』①~こんな外交官がいたのか!



この頃ハマっている歴史小説家、植松三十里さんが2012年に書かれた『調印の階段』。

この連休中、滞在していた伊豆高原の家から用事で逗子に行く電車の中から読み始め、夢中になり、乗り換えの駅を何度も乗り越しそうになった。

熱海までの伊東線も、そのあとの東海道線も横須賀線も、観光客で溢れて騒々しいはずだったのにまったく気にならず、あるいは、車窓から見える新緑にあふれた山やキラキラした海さえも見ずに、没頭した。ーーそれほどにスリルとサスペンスに満ちた小説なのだ。

その日の往復約6時間、私はこの主人公の重光葵と上海に行き、大分へ行き、ロンドンへ行った、しかも戦時中の…そして、伊豆高原に戻った私はひと眠りした後夜中に起きて、再び重光葵とともに東京へ行き、日光・横浜・鎌倉・巣鴨、そしてニューヨークへ…

ああ、たった一日で、私はこの素晴らしい外交官とともに、ハラハラドキドキ、時に涙を流しながら、テロや空襲におびえ、昭和天皇やチャーチル首相に謁見し、囚人としての日々を過ごし、最後は国際連合の大舞台に立った――

と、そこまで主人公に感情移入できたわけではないが、小説の素晴らしさは、自分が絶対に体験できない世界を、絶対会えない人たちとの出会いを、主人公を通して、垣間見ることができることだ。自分の人生には起こりえないとんでもない苦労や栄光のドラマを、一日で凝縮して味わうことができること。そのためには主役のヒーローが魅力的に描かれていなくてはならないだろう、この小説のように。

先にあげた地名は、実は本作の目次である。外交官重光葵のストーリーが戦前の上海における爆撃テロに始まり、戦後のニューヨークにおける国際連合の加盟調印に終わる、という展開になっている。

そして本のタイトルにある通り、各所で重光が重要な階段(ステップ)を文字通り上がることになる。

そう、最初の階段は、昭和7年、駐華日本公使として天長節に臨んだ上海の公園に設置された雛壇の階段。壇上の重光は国歌斉唱中に朝鮮人のテロに炸裂弾を投げつけられる。前年には上海事変が起きている。満州国との境界で緊迫状態になった日中間が戦争にならず、「事変」でなんとか収まったのは、松岡洋祐(当時代議士)とともに、重光が現地の陸海軍トップ(野村吉三郎海軍中将、白川義則海軍大将)を瀬戸際外交で説き伏せて停戦に持ち込んだからなのだが、この三人が壇上でテロの犠牲になったのだ。白川大将は間もなく亡くなり、野村中将は片目失明、そして重光は右脚を失う。ーーと、小説は初めから緊迫シーンの連続で読者を引き込んでいく。

次なる階段は、帰国後に福岡から故郷の大分行きの列車に乗り込む際のステップ。大衆に見守られるなか、不自由な義足と松葉杖で、傷ついた郷土の英雄を演じきった。別府温泉でのきついリハビリを、自分の栄達のために犠牲になって働いた母や、急激な西洋化の動きについていけなかった誇り高い漢学者の父を思い出しながら乗り越えてゆく。重光の挫けそうな心を、山菜取りの婆に身を替えた亡き母の幻影に励まされる、という下りを読んだときは、涙が出てしまって困った(何しろ私は電車の中だったので)。

彼の外交努力もむなしく、日中戦争がはじまってしまう。国際協調路線で志を同じくしていたはずの松岡洋祐(この時外務大臣)が、満州国の是非をめぐって国際連盟を脱退し(TVのドキュメンタリーでよく出てくるあの有名なシーン!)日本が国際的に孤立し始めるという難しい時期を、重光は駐ソ大使、駐英大使という、まさに外交の瀬戸際、あるいはほぼ捨石的な立場に置かされる。ロンドンでは国王謁見のためバッキンガム宮殿行きの馬車のステップを昇り切り、後に首相となるチャーチルとは腹を割って語り合えるほどの外交手腕を発揮したが、日本の同盟国であるドイツとイギリスの戦争が始まってしまう。単身赴任の公邸暮らし、そしてその公邸をも爆破する空襲のなかでギリギリの折衝を一身に引き受ける彼の努力は次々と水泡に帰してゆく…

東京に戻った重光は、天皇や近衛文麿首相に戦争回避を直言し、彼等の意志も固かったが、陸軍を抑えることは、陸軍大臣の東條英機が首相になったところで難しかった。本書では、この辺りの複雑な、日本がどうしようもなく大戦に突っ込んでゆく、責任者不在のあたふたしたくだりが、重光の立場から、なかなか巧みに表現されている。対米開戦後でも彼は最善策を模索し、「対支新政策」を作る。

とりあえず開拓の進んだ満州だけは手放せないなら、「ほかの都市を中国人に返してしまえば、日本は泥沼から抜け出せる・・・そのためには外交交渉を進めるしかない。まず中国側が歓迎する施策を実現し(対中不平等条約の改正)・・・租界を中国人の統治下に戻すのだ。」

そして「正義は外交の最大の武器」として、欧米の植民地からアジア諸国の独立を日本が手助けするという手段を思いつく。これが紆余曲折を経て「大東亜共栄圏構想」へとつながるわけである。なるほど・・・こういう解釈というか背景があったのか、大東亜共栄圏って。

重光は、東條に代わる小磯國昭内閣で外相に任命されたが、小磯首相は独断で、アメリカ寄りの蒋介石と接触しようとして、大東亜共栄宣言によって集まったアジア諸国の期待を裏切ろうとする。ここまでくると、政権は閣僚の意思統一も何もない、まさに破れかぶれの様相だ。重光は、最後の切り札として、「鶴の一声」、つまり天皇のご聖断に期待をかけて働きかけるのだが・・・

東京での階段は、息子とともに間一髪で飛び込んだ防空壕の梯子段である。東京大空襲で自宅は全焼した。

外務大臣の地位に上り詰めても戦争を終わらせることができない。しかし、重光にはまだ重大な任務が残る・・・

(つづく)