『群青』②~日本の大恩人



前回のブログに続く
『群青』①~ヒーローになれなかった男

日本海軍の基礎を築いた男、矢田堀景蔵。勝海舟の影に隠れてヒーローになれなかった男、と書いたが、ヒーローになりたくもなかった男、なのだろう。自分にとっての大義を果たすことが重要で、それが世間に知られよう知られなかろうと、関係のないことだ。まさに「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」である。

海軍総裁まで務めた矢田堀だが、晩年は無関係な部署つぎつぎ配属され辛酸を舐めたようである。その頃名を変えた、矢田堀鴻と。

 燕や雀のような小さな鳥には、鴻鵠という大きな鳥の志など理解できない、という意味の故事成語だ。この言葉から、あえて鴻の一文字を取った。
 自分は、ただひたすら日本の海を守ろうと努めた。だらか内乱には反対した。ただ守りに徹する軍備という志を、どうしても周囲に理解してもらえない。そのいきどおりを、みずからの名前に込めたのだ。

と、植松さんは書いている。矢田堀は退職するまでなんと12か所もの部署を回されたが、いずれもきちんと勤め上げたという。

勝海舟と、昌平坂の同期で同じく海軍で活躍した木村摂津守が、先に逝った矢田堀のお墓の隣に石碑を建てた。この本は、この二人の墓参からストーリーが始まっている。

小説だから、多少の脚色はあるだろう。しかし、こういう人物がいて国防のために海軍を作ったというのは事実であり、こうした人の努力で私は今日本人として生きていられるのだ。私はその恩人への謝意と彼を讃えた石碑を見たいとの気持ちから、早稲田にある宗源寺に行ってみることにした。



地下鉄東西線早稲田で降りた。ケータイのナビが分かりにくくて、歩いていたら大きな鳥居があった。流鏑馬で有名な穴八幡宮だ。境内はどこも新しくなっている。平成のきょうびにこんな立派な普請がまだ行われているのに驚く。銅葺きの堂々とした本殿の柱も壁もコンクリートというのが現代風だが。氏子の力があるのだろう。地元民らしい人たちがひっきりなしに参拝に来ていた。

宗源寺はといえば、駅を挟んで反対方向にあった。穴八幡宮に比べるとずいぶんさびれてしまった感じがしなくもない。寺は今風と言えば今風だが、どちらかというと住職のプライベートな住居という感じで、道路を挟んだ反対側にコンクリートの高い塀に囲まれた墓地があったので、勝手に入ってみた。

本当にここに彼のお墓があるのかなあ・・・小さな墓石が何列にも連なって並んでいる。あれだけの歴史的人物のお墓がこんなところに・・・探してみたけれど見つからない。

仕方がないので寺のドアホンを押してみた。すると若い感じのよい住職さんが出てきて案内してくださった。先ほどの墓地の一番はじの列にあった。勝と木村が書いたという石碑は戦争で壊れて今はないのだという。

小さなお墓だった、かなしいくらいに。しかもあちこち苔むしていて、側面の文字がよく読めない。

以前は海軍関係者が墓参していたそうだが、その関係者もなくなり、ひ孫を名乗る人もいらしたそうだが、このところ来ていないらしい。

私はブラシを借りてそれを洗った。海の男に苔は似合わない。初夏を思わせるような日差しに乾ききった墓石をゴシゴシこすって苔を落とすと、そこにたっぷり水をかけた。あゝ願わくば太平洋の見える所に建ててあげたい、こんな都会のコンクリートの中ではなくて。

「おかげさまで、こんな平和な時代になりました、ありがとうございました、ありがとうございました」と唱えながら、線香をあげた。


宗源寺にある矢田堀の墓。戒名に「航」の字が入っている

明治二十年十二月十八日俗稱矢田堀鴻、とある



『群青』①~ヒーローになれなかった男



歴史小説家、植松三十里さんに興味を持った私は、彼女の作品を読むことにした。
『おばさん四十八歳小説家になりました』①~を私が読むきっかけになった満州国のこと
『おばさん四十八歳小説家になりました』②~歴史作家の自叙伝

まずは『群青』、新田次郎賞受賞作である。

一気に読んだ、面白かった。

軍備、留学、外交、貿易――現在当たり前のように行われているこれらが本格的に始まったのは幕末であるが、この本を読むと、それらのいわゆる「ことはじめ」が実に良くわかる。主人公の矢田堀景蔵は、一言で言えば、勝海舟の影のような男である。彼に手柄を全部持って行かれた日陰の人生・・・現在からみればそいういうことになるが、幕末の典型的なエリートの一人であった。幕臣の子弟として昌平坂学問所の神童だった彼は、当時黒船の来襲を畏れる幕府に抜擢され、長崎に様式海軍術の伝習所を開く。

西洋の列強に渡り合うためには同程度の軍事力が必要、いくら平和な通商条約が前提でも、丸腰では舐められてしまう、何しろ時代はまだ武士の時代。(といえば当然の論理であるが、ここでいう軍事力とはすなわち「軍艦」であり、この理論は北朝鮮の「核ミサイル」と何ら変わりはないような気が・・・)

背水の陣に立たされていた幕府は、唯一貿易をしていたオランダに軍艦を二艘発注し、その操船の人材育成のためにオランダ人から技術を習うのであるが、これがまたとんでもない苦労で・・・生徒監という、伝習所の先生のような立場にある矢田堀はまずオランダ語から学ばなければならない。ここに矢田堀と同僚格の蘭学者、かの勝海舟がオランダ語の通訳として登場するのだが、全然通じない・・・(だろうなあ)。しかも専門用語の応酬、そもそも見た事も聞いたこともない操船の機械や概念の訳語もなく、それを習得するために数学という新しい学問も必要となり・・・寝る間を惜しんでの「座学」とコミュニケーション障害の中での「実技」(当然ながら大砲の打ち方も含まれる!)、ここで体育会系の勝海舟はさっさと座学をあきらめたらしい。

この本を読んでいてつくづく感じ入ったのは、「知」が「武」の基礎を作ったという事実である。海軍という新しい分野を切り開き、軍艦を買って、人を訓練し、国を守る、このベースを作るために、当時矢田堀をはじめ多くの人たちがこれほどの勉強をしなければならなかったという事実だ。勉強とは、高給をくれる会社に入るためにいい学校に入るという個人的な目的ですることではなかったんだ、ということを思い知らされる。留学もしかり。個人の世界を広げるなんて言うことではなく、当時の留学はお国のためであり、エリートたちのプレッシャーは、ほとんど廃人寸前のレベルである。矢田堀のもう一人の同僚も、勉強についていけず鬱になっている。

ちなみに日米通商条約の批准のために、初めて日本人による航海を実施することになったのだが、当然のことながらアメリカの海軍に学ぶための留学も兼ねていた。艦長を任命されていた矢田堀であるが、実際に行ったのは、やはり体育会系の、ろくに操船もできない勝海舟であった、あの有名な咸臨丸の艦長として。

とはいえ、両者は必ずしも反目していたようではないらしい、これは小説なのでどこまでが真実かわからないが・・・真面目な矢田堀とおおらかな勝は、それぞれの特質を生かして果すべき役割があり、尊敬しあっていたようである。

遠州灘ですら難破したという時代に、よくあのいい加減な艦長をして太平洋を渡れたなと感心するが、この本にそのくだりは出てこない。しかし、矢田堀の片腕だった榎本釜次郎という男が実際の操艦に当たり、彼がのちに、軍艦を盗んで函館に逃走した榎本武揚で、その辺のエピソードはかなり面白い。

幕府と、薩長をはじめとする反体制派のち官軍の争い、とりわけ徳川慶喜の一貫性を欠くような行動に振り回されながらも、矢田堀は海軍総裁の地位に上り詰める。諸々のエピソードがあるが、彼の昌平坂の師であり、日米通商条約の交渉役だった岩佐忠震(ただなり)が、大老井伊直弼の明確な承認、つまりは天皇の詔勅を得ずにハリスとの調印をするというくだりは迫力があった。この調印なければ、つまりアメリカの後ろ盾を得なければ、イギリスが攻め込んでくるという切羽詰まった状態を、岩佐という一人の男が打開したのである、切腹覚悟で。幕府も、ましてや雲の上にいる天皇にも、分からない分かりようのない、命がけの外交・・・今も昔も外交とは協力とぎりぎりのラインでの騙し合いのようなもので、きれいごとではないのだと思う。当然ながら、岩佐はこのあと失脚し、失意の中で死んでゆく。

ここで一国がまとまらなければ、内乱は必至、それは中国に見るように亡国への道である、よって攘夷派の恨みを一身に引き受ければ本望だと、そういう先見の明と気転と度胸と犠牲的精神のある武士がいた。岩佐という恩人への供養にもなれと、海軍の基礎を整えていった矢田堀もまた武士らしい生き方を全うした。

当時蒸気船を動かすには、船の底で絶えず石炭を燃やし続けなければならなかった。その過酷な仕事を担った火夫、また最終的にはいつも頼りになった和船の水夫、こういう人たちとともに仕事をしてきた矢田堀は、歴史に名を残すことに執着しない。開国時代の日本の、平和のための軍備という「大義」に命を懸けた。

矢田堀が、甥の荒井郁之助(榎本について五稜郭へ行き、後に初代中央気象台長となった)に言った晩年の言葉は感動的だ。

「歴史に名を残すのは、戦争をした者ばかりだ。信長公しかり。家康公しかり。戦争に反対したものは、反対しながらも戦争を止められなかったのだから、評価はされない。戦争に反対したものは、歴史に名を刻むことはできないのだ」

「私は歴史に名を残さないことを、むしろ誇りに思う」



フランク・ロイド・ライトの予言④~明治から平成へ


前回のブログに続く、ライト関連の本を読んでとりとめなく考えるシリーズ
フランク・ロイド・ライトの予言③~環境との一体感


このところライトの理想と現在の東京の現実のギャップにやりきれない思いになる。ライトの見た日本は、今よりずっと文化的だったとは思うが西洋化を急ぐ様子を嘆かわしく思っていた。時代というのはおかしなもので、過去はおおむね良く見える。

私の住んでいる団地が建ったころ、つまり1960年代は、今ちょっとしたブームである、レトロ感がもてはやされている。しかし、当時の人たちはビルばかり建つ東京に不満があったかもしれないし、団地のような白い箱を風情がないと非難したかもしれない。昭和30年に書かれた木村荘八の『東京風俗帖』などはまさにその通りで、明治26年に生まれ両国界隈に育った彼は、古き良き時代を後世に伝えるべく、江戸情緒の消えてゆく明治、震災に見舞われた大正、そして戦争で焦土化しながらも急速に復旧した昭和にいたる東京風俗の変遷を事細かに記している。永井荷風による有名な新聞連載小説『墨東奇譚』の挿絵を描くなど、画家としても有名な彼の、江戸の空気を伝えるカットもたくさん載っている。そもそもこの本も新聞に読売新聞に連載して評判となった『東京繁昌記』がベースとなっている。

これを読むと、ライトが来日した当時の東京の様子も、今に至る無秩序無計画的都市の発展の原因も見えてくる。どうやらそもそもの発端は、明治5年に起きた大規模火災だったらしい。4月3日、今は銀座大火と呼ぶらしい。午後3時に和田倉門の内の旧会津藩邸から出火し10時に鎮火するまで、築地、銀座一帯の約29万坪、民家5千軒が焼け、罹災民は約2万人に上っている。「樹立早々の革命政府にとって、都市は木造家屋ではダメだ・旧江戸のやり方はだめだ、と烙印を押して実証を見せた程の、天災だった」とのこと。そこで「東京不燃焼化計画」の先駆けとして銀座のレンガ化構想が東京府知事の由利公正や大久保利通を中心に始まった。「巴里、倫敦」の街並みをめざし、銀座8丁目当たりの長屋の住人を追い出して、国費をつぎ込んでレンガの家並みを造ったが、日本の気候風土になじまなかったらしい(住めばみなゲジゲジに舐められて死ぬ、と言われたほど湿気たとか)。

日本画も仏頭も堂塔も破壊したほどの旧時代の否定、江戸の破壊が、明治新政府のやり方だったと思えば、そもそも近代日本は最初から文化より経済優先社会だったのであり、当時もその後も戦中戦後を通じて、家が焼かれて明日の生活も知れない状態もあり、生きることに必死、稼ぐことに必死、国民全体の住環境がある程度満足したのは近年のことなのだろう。そしてバブル崩壊、リーマンショック。毎度長続きしない政権、既得権益の確保以外は思考停止の官僚主義・・・

明治以来現在に至るまで、世界大戦や通商拡大を含む怒涛の国際化にさらされて、激しい経済変動の中、私たち国民が日本古来の文化の意味を問うゆとりなんてなかったのだ。震災や戦災の度に作られた都市計画もあったし、これまでに幕張副都心計画などいくどか東京の一極集中化の緩和策があったが、政権が変わればまたそれは白紙に戻り、民間も目先の経済的効果を優先するため、長期的な計画の実施は不可能だった。

今の限りなく劣化する(と私には映り、またライトの思想とは真逆の)東京も、長い目で見ればこうなるしかなかった、ということになる。そしてこれから先も劣化し続け、今の時代が、あとの時代から見れば、あこがれの対象にすらなりうる・・・信じられないが!

私は子供のころ、トタンとブリキとプラスチックとスチールが発明されなければどんなに町や暮らしが美しかったであろうと思っていた。おばあさんになったら、純和風の家に住み、台所には竹の笊や木製の調理器具だけ置いて暮らそう、と決めていたヘンな子供だった。でも今は自分が生まれたころの60年代のレトロなオレンジ色のタッパーが好きだし、トタンの錆びた感じに萌えたりする。だから、いまの安っぽいサイディングの建売住宅だって、未来の人から見たら素敵に見えるのかもしれない。

昨日神楽坂を歩いていたら、レトロな建材を使った大きな建物があった。まさに60年代の体育館みたいなつくりで外装は合成樹脂っぽいトタン風な壁、その名も「la kagu」というトレンディなセレクトショップだ。カフェやワークショップスペースもあり、Tシャツが1万円近いブランドの服や、3万円以上の眼鏡や、国産にこだわった調味料や、明治時代っぽい食器などが、すっきりと優雅に並べられ、流行っぽい音楽がかかり、店員もファッション誌から出てきたような人ばかり・・・ちょっと前の私ならワクワクした空間だったが。スタイリストなどが自分のこだわりの食器や古着を見せびらかす、よくある雑誌の特集が三次元になったような世界――私はもう「卒業」したかな。自分は自分のスタイルでいいから。それになんだかんだ言って、たまたまそうしたスタイリッシュなすっきりした空間が流行っているだけで――置いてあるものは例によって籠とか革のスリッパとか、どこでも同じ――そんな価値観にどこか空々しいものを感じてしまう、つまりは、しょせん商売である、伝統文化をレスペクトしているように見せながらも。

脱線したが、トタンというかつては安普請の間に合わせの建材が、トレンディだという話である。

そんなこんなで、時代は変わるし価値観は変わるので、昔の人たちが過去に引き比べて自分たちの時代を憂いたことをぶり返しても仕方ないのだけど、一度こういう作業はしておいてもいいかもしれないし、ライトが見た当時の日本を考えるうえでも参考になると思う。なぜなら今の価値観や尺度で歴史を見ると、勝手な解釈になり、見失うものが多いから。というわけで、江戸から東京になったころの日本について、しばらく考えてみたいと思う。


フランク・ロイド・ライトの予言③~失われた景観

ライトの予言シリーズ第三弾
フランク・ロイド・ライトの予言①~理解されなかった建築家
フランク・ロイド・ライトの予言②~日本人の住環境を考える


ライトが自由学園明日館を作った時、設計図にはたくさんの樹木を描き込んでいる、かなり具体的な描写で。当時雑司ケ谷と呼ばれたあの一帯は、江戸時代は将軍のお鷹狩の場所であり、学園ができた大正時代は麦畑があったという。池袋のビル群を後ろに控えた現代の様相とはまるっきり違っている。自由学園は「草原住宅様式」とよばれる、自然の景観と一体感のある、高さを抑えた、軒の長い、まさに大地から生えてきたような建物である。「校舎が木なら生徒は花、木も花も本来はひとつ」とライトは書き、当時の新聞記事には、「十二単衣を着た様な女子学習院や兵営を見る様な日本の一般の学校建築を見なれた眼にはそれこそ自由学園の名に相照子供の学びの園だという感じを一層強く与える」とある。

重要文化財自由学園明日館。一度でも行ったことのある人は、あのいかにも田園的な建物が一面の麦畑に建っている様子を想像してみてほしい。なんと平和な美しい景色であろう。広々とした芝生の庭を持つ建物をライトはさらに多くの樹木で囲んだ。建物を決して単独でそこに置いたのではなく、建物と周辺の平面的な土地を、大小の植え込みによってつなぐことで、全体的な一体感をより強調したのだと思う。校舎の前面はすべて作り付けの花壇として設計している。植物と建物は切っても切り離せない関係なのである。学園の前には創立者の羽仁夫妻の家があった。ライトはそこから植物を移植している。予算ぎりぎりだった羽仁夫妻はよろこんで自宅の庭の樹木を提供した。

ところが、である。1997年に明日館が重要文化財に指定され、ライトが建てた時よりお金も時間もはるかにかけて大がかりな修復がなされたのだが、その際に建物周辺の樹は消えてしまった。税金をつぎ込んで復元された文化財は未来永劫保護しなければならず木の葉が散ると屋根が傷むから、という理由であった。手入れも楽になっていいと、たしか関係者の誰かも言っていた(私も関係者のはしくれだったが)。

ライトにとって建物は単体で存在するのではない。ライトの本を読めばすぐにわかるが、その場の材料を使い、景観にもっとふさわしい形で建てたときに初めて、建物もまたそこに住む人の暮らしも豊かなものになるはずなのである。

住宅やビルに囲まれそこだけぽつんと建っている現在の明日館はかなりかわいそうだ。見学者はそこだけ異空間であることに感嘆の声を上げるが、それはライトの本意ではない。ライトは都市集中化による問題を解決するべく、郊外にひとりが1エーカーの土地を持ち、ある程度の自給が可能なライフスタイルを提案した。このブロードエーカーシティ構想は、自動車や高速道路があって初めて可能になるという点で、当時の先端技術を取り入れたアメリカ人らしい理想の生活環境だと考えたのだ。1エーカーは約1200坪。ちょっと想像できない規模である。しかしライトは言った、当時のアメリカ人全員に1エーカーを与えてもテキサス州の大きさにも満たないと。それに対して、そうはいっても住みやすいところとそうでないところがあるじゃないかと反論した人たちがいた。するとライトは、どんなところでも快適な生活空間を作ることができると。寒冷地のウィスコンシン州と砂漠のアリゾナ州の両方を拠点にしたライトらしい答えであるが、たしかにいずれも土地のよさを生かし切った美しく豊かな住居である(写真で見る限り)。

日本も同様である。沖縄には台風に強い石やコンクリート造りの家があり、雪深い谷間の白川郷には合掌造りがある。養蚕の盛んな土地には繭を作るのにふさわしい家があり、海辺には海辺にふさわしい軽やかな家がある、瓦ひとつとっても因州瓦、能登瓦などその土地で取れる土で作ったものがあり、同様に様々な素材の石垣があり、蔵がある。そしてそれらに暮らす人たちの生活、それらの環境を作る職人――こうしたことが日本の豊かな文化を形成していた。

ライトはこうした文化を否定することなく、帝国ホテルを造るべく日本の石を探した。それが栃木県宇都宮あたりの大谷石。柔らかく彫刻がしやすい石である。建設現場には何百人もの石工が来て、ろくに言葉も通じないなかであれだけの彫刻をさせたのだから、ライトと職人双方の努力は大変なものだったと思う。ライトは彼らの職人技と新しいことに対する習得の速さに感銘を受けている。帝国ホテルはまさに日本の文化の表出であった。

『新帝国ホテルと建築家の使命』(フランク・ロイド・ライト著・遠藤新訳)より

新帝国ホテルは単に日本の建築という意味で設計してはいない。これは芸術家が日本に対する、しかもその特質に於いて現代的であり、かつ世界的なる寄与であるという意味で設計されている。
建築について観れば、細部には、何かしら日本らしいもの、あるいは、何処ぞ古代の建築らしいところがある。しかし、その形式も、模様も、工夫も一つだって、何処かから借りて来たというようなものは見当たらない。
要するに、古き日本に敬意を表しているという一事に尽きる。

フランク・ロイド・ライトの予言②~日本人の住環境を考える



建築家フランク・ロイド・ライト関連の本を読んでとりとめなく考えるシリーズである。フランク・ロイド・ライトの予言①~理解されなかった建築家


ライトの建築哲学を読むようになって、東京の街を歩くと、私はとても悲しい気持ちに襲われる。現代の東京に、立派な和風建築はほぼない。あるとしても昔の大名庭園跡にある茶室ぐらいだ。ときどき街の中に戦争で焼け残った感じの木造建築も見かけるが、周りとはあまりに調和しないため、窮屈でかわいそうに見える。私が東京に来た25年前には、まだ見るべき「お屋敷」もあったが、それもほぼなくなってしまった。

ライトの目指した理想的な住環境と、今の日本は真逆すぎる。

もともと和風建築あこがれを抱いていたライトが、自然との共生を実現している日本の、新しく生まれ変わらんとする首都東京に、既存の洋風の建物ではなく、真に日本に合った洋風建築を提示しようと造ったのが帝国ホテルであった。

日本は、いわゆる洋館をちょっと手際よく作ることを覚えて来た―否、かなり旨くもやってきた。例えば、かの三菱銀行のような―棺桶―・・・これが日本と何の関係があるというのか、―屈辱―むしろ笑い草だ。現代日本が、いかに、自分の姿を見失っているかを明白に示しているに過ぎない。
これまで見る所では自分は、日本人は模倣の空疎、無意義を発見しているとは思われない。彼等は、むしろその無意義を溺愛している・・・思うに日本は急激な変革を経た惑乱の間に、おぞくも、善悪軽重のけじめを見失ったのだろう。そして、しかも自ら気づかないのであろう。(『新帝国ホテルと建築家の使命』遠藤新訳)

現在私たちが文化財として自慢したい辰野金吾の東京駅も、コンドルの三菱何号館も、ライトから見たら中途半端に西洋風の滑稽な建物と写っていた。ああ、ましてや、今の東京を見たら…きっと日本人は正気の沙汰ではないと思うであろう。

ライトによれば明治時代にすでに日本人は自分の姿を見失い、模倣や無意義を溺愛しているという・・・そのなれの果てが現在なのであろう。

私の住む団地を例にとろう。かつて団地は文化住宅と呼ばれ、最初に入居した人たちは多数の応募者の中の、籤引きによって選ばれた大変にラッキーな家族であった。が、ライトが見たら、この白い箱の集団は風情がなさすぎると非難するに違いない。コンドルの三菱銀行が「棺桶」なら、団地はさしずめ「養鶏所」か。

しかし、しかしである。

昭和43年に造られた5階建て6棟からなる250世帯の分譲団は、いずれの家も南向きで明るく風通しがよく、夕方まで電気をつける必要もないし、冬は奥まで日が差し込むように設計されている。ベランダからはたくさんの桜の木に囲まれた公園が見える。団地の敷地全体もまた大きな欅、樅などに囲まれ、あちこちに多種多様な梅、椿、杏、夏みかん、木蓮、辛夷、鈴懸のなどの樹があって、その下には八つ手、紫陽花、薔薇、チューリップなどが植えられており、各棟の下の花壇には、菊、つわぶき、牡丹、萩、躑躅、杜鵑・・・等々いちいちあげていたらきりがないほどの花があり、広い駐車場は高い紅かなめの垣根によって、視界から見えない設計になっている。

ところがいつのまにか団地の価値は下がった。類語辞典で見ると、「団地住まい」は「わび住まい」とか「あずまや」などと一緒に出てくる。「私、団地に住んでるの」というのは決して自慢には聞こえない。マンションや一戸建てのほうがステータスが高いようだ。

しかし、どんな高級で高層のマンションの周りに人工的な植え込みがあっても、団地の有志の人たちによる花壇のあたたかさはない。大木が広々と枝葉を伸ばし、落葉するようなスペースもない。鶯も盛りの猫の声も蟬しぐれも聞こえない。ベランダに差し込む太陽に堂々と洗濯物も干せない。

一戸建てもしかり。そもそも庭がない。駐車場は狭い。どうやってあの狭い路地を車で通り、あのスペースに駐車するのか不思議なくらいだ。その狭いスペースに、家に収まりきれないのか様々なものが置かれている。家と家はくっついて窓から見える景色もない。それでも一戸建てはステータス、一生をかけてローンを返済するに値するのだろう。経済的価値は高い。

うちの団地は60平米にも満たないが解放感があり狭さが気にならないのは、大きな窓から見える空と公園が壁であり床であるからだ。窓から見える景色が重視されていた時代があった。ガラスを壁代わりに多用したライトの自伝にこう書いてあった。

The dawning sense of the Within as reality when it is clearly seen as Nature will by way of glass make the garden be the building as much as the building will be the garden: the sky as treasured a feature of daily indoor life as the ground itself.  
 You may see that walls are vanishing. The cave for human dwelling purposes is at last disappearing.  (An Autobiography)
現実的に「室内」にいるということの新しい感覚、それはガラスの存在によって自然が庭そのものを建物とし、建物もまた庭になるということである。空も地面と同じく、日々の室内における生活の大切な一部となる。 
壁は消え、人間の穴倉生活が、ついに終わったのである。

東京の住まいは穴倉時代に逆戻りしつつあるのか。

一方で、わが団地にも経済の魔手は伸びている。某有名不動産会社がディベッロパーという肩書でやってきて、容積率を今の20%から100%にするという。5階建てを11階建てにするという。11階建ての後ろの建物の下の階には日が届かない。部屋の大きさも一様ではない。そして私たち住人は、お金を足さない限り狭くて日の届かない部屋を割り当てられる。もちろん、お金を出せば、高層の広い、日の当たる部屋を与えられる・・・当然のことのようにディベロッパーもコンサルタント会社もそう説明する。「こんなぼろい、狭い、耐震構造もない団地なんかによく住んでいられますね、さっさと建て替えに賛成してください」と言わんばかりに。公園の桜も伐るのですか、と聞くとこう言った。「そうですね、でもまた植えればいいでしょう」 50年間木々を愛して守ってきた人の気持ちには経済的価値がない。少なくともそうした気持ちを理解できる神経は持っていない。せめて理解しているふりだけでもしてほしかったが。

周辺の団地は都営の賃貸住宅だったので、建て替えを巡る住民の紛争もなく、ここ数年であっさり建て替えられた。目の前の二つの大きな団地群は目下新築中である。その団地の側面である駅へ続く道に何十本もの古い桜や梅や銀杏、カリンなどの樹が植えられていたが、ある日突然、たった一日でほぼ全部伐採された。住人が何十年も大切にしてきた樹、そこを通る人たちの目を楽しませてきた木。工事現場を覆うシートの隙間から中を見ると、倒された太い幹が山のように積み上げられてあった。私はあまりに突然さにショックを受けて涙が出た。が、もっとショックだったのは、それが当然のことのように受け止めている今の世間である。あれらの大木がなければ、敷地いっぱいに新しいマンションを建てることができるから仕方ないでしょう・・・これが普通のこととして受け止められている、この現代の感覚に、私はめまいがする。

日本人の住環境に対する意識の低さ、というか倒錯した価値観はすでにライトの時代にもあったようだが、どう考えてもベクトルが間違っているとしか思えない。


『おばさん四十八歳小説家になりました』②~歴史作家の自叙伝



この本を読むきっかけを書きすぎたので(『おばさん四十八歳小説家になりました』~を私が読むきっかけになった満州国のこと①)、仕切り直し。

著者は植松三十里(みどり)さん。幕末を中心とした歴史小説家で、日本海軍の基礎を築いた矢田堀景蔵を描いた『群青』で第28回新田次郎文学賞、『開国兵談』の著者の林子平の人生をつづった『彫残二人』で第15回中山義秀文学賞を受賞。その他にもたくさんの本を書かれている。

とは言いながらも――私は彼女の本を読んだことがなかった。新田次郎は知っているが、中山義秀という作家も知らない。というか、大昔、司馬遼太郎にハマって彼の本はほぼすべて読んでいた時代もあるが、今は歴史小説というのがちょっと苦手で・・・史料を読んで自分で考えるのは好きだが、小説になるとフィクションも入るのが微妙で・・・藤沢周平もなんだか甘ったるくて・・・というひねくれものの私は、時代劇も市川雷蔵シリーズ(そこまで古くなくても、高倉健の昭和残侠シリーズぐらいまでの)は好きだが、現在作られるドラマはいろいろなものがハリボテな感じがして・・・

だけど植松さんの小説は、目の付け所というか、主人公がとても立派なのにマイナーなところがすごく面白そう。彼らを顕彰しようという心意気とエネルギーに感心させられる。早速アマゾンで注文したり、近くの図書館で借りてきてみたが、とりあえず、小説の前に、彼女の自叙伝らしきものを読んでみることにした次第である。

すると、歴史上の人物の立派な、あるいは時に人間くさいストーリーを読むより、現代の人の半生記のほうが面白いんじゃないだろうか、と思うくらい、彼女の自伝は面白かった。この本のタイトルにある通り、作家としてデビューするまでの苦労話を中心として書かれているのだが、それは植松さんと同じ世代の母親を持つ若い編集者に、子育てを終えた女性たちにも、やろうと思えばまだいろいろなことができる、プロの作家にだってなれるという話を書いてほしいと言われたのがきっかけだそうだ。なので、作家志望の人には参考になるだろう、と植松さんは書いている。

しかし、それは真逆だと私は思った。私は子どもの頃から文章を書くのが好きで、できればそういう仕事がしたいと思ってきたが、まあ、翻訳の仕事は長くやってきたものの、文章を書いてお金を稼ぐというのは、絶対に無理だと、この本を読んで理解した。作家になるまでも大変だし、作家として売れ続けるのもたいへんそうだ。複数の小説教室に通い、何十本もの賞に応募して、鬼のような編集者にしごかれて・・・怠け者で面倒くさがりの私にはとてもできそうにない。そもそもそんな才能もないし! なので、この本の作者と編集者の意図は失敗なんじゃないだろうか・・・少なくとも私にとっては。

だけど、彼女の生い立ちから現代にいたるまでのストーリーはとても興味深かった。人ひとりが小説家を志すまでの道程、そして実際の作家の生活はこういうものなのかと、もちろんプロの文章だから説得力があるし、背景がよくわかる。

そういえば、司馬遼太郎にしても、自分の兵役経験に照らして、なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう、 いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう、昔の日本人はもっとましだったにちがいないという心境から小説を書き始め、でも最後は結局そのことは小説にできなかった、そんなエピソードに心を惹かれる私である。

川口という、妾を持つことがステイタスといった男くさい工場町に育った少女は人生の裏表を知らず知らずのうちに見て暮らし、小学4年で引越しした駿府城下の静岡市で歴史に開眼する――まったく人は環境によって育てられるのだ。

植松さんは自分が本物の作家になれたのは、次女が不登校になったからだと書いている。そのことをきっかけに順風満帆だった人生が暗転し、苦しみや悲しみを味わったことが、歴史上の人物の様々な葛藤を理解する糧になった、また娘のために家にいる時間があったから、小説が書けたのだと。

人生には本人が望むと望むまいとたくさんの選択肢や岐路があり、どちらに行っても得るものがあり、その分だけ失うものもある。植松さんが娘さんを通して自分の思うようにならないことの苦しみを経験されたことも貴重であるし、逆に自分の思うようにならないこともまた楽しみでもあるという境地に達したとき、さらに作家として、歴史の中の人々の人生を、強く共感しつつも達観できるようになったのだろう。

私には子供はいないが、妹に二人の息子がいてどちらも不登校になった。私の母はすごく心配していたが、ちょっと変わっている妹はあまりに気にかけているように見えなかった。彼女はたまたま見つけたフリースクールに息子たちを通わせていたが、そこではほとんど勉強させていないようだったので、母や私は外野から「勉強すべき時代にさせないと後で大変よ~」などと、肉親だからこそ言えるといわんばかりに苦言を呈していた。

が、植松さんの赤裸々な話のなかの、最終的には子供を信じて見守ろうという境地になったというくだりで、私ははっとさせられたのである。確かに妹も同じようなことを言っていたから。そして「子供を信じることが実は一番難しい」とも話していた。

家族だからと言って、心境をつづられたものを読むわけでもないし、ましてや離れて暮らしている妹のことを私はまったくわかってはいなかったのだ。植松さんの本を読んで、おそらく不登校の子供を持つ親ならだれでも抱えるであろう葛藤や苦しみを、私は初めて想像することができた。そして、学歴はないがちゃんと頑張っている甥たちを見て、わが妹の偉さを思う次第である。

「どんな立派な小説も、ひとりの人の生涯にはかなわない」というようなことを作家で俳人の齋藤愼爾さんがある時おっしゃったが、このことを言っていたのかもしれない。

歴史上の顕彰すべき人間から学ぶことはたしかにある。しかし、日本人が朝から理想的なヒロイン――清く正しく美しいーーのドラマを一年中見ているわりには、愚痴をやめたり勇気が湧いたりするわけではないので、普通の、いろいろな葛藤を抱えている、身近な人たちの話っていうのが、むしろ他人への理解や自分への反省材料として役に立つのではないだろうか。植松さんは、自分は親として失格だから子育て関連の講演は受けないと書いているが、逆にその葛藤が、多くの人の共感を呼び、勇気づけるのではないかと思う。

歴史小説家による、小説家になるための人に向けた自伝を読んだにしては、はなはだ矛盾した感想だが、植松さんの正直で気取らないご自分の物語は、たしかに私の中の何かを動かしている。怠け者で、何も長続きせず何ものにもなれず、四十八歳も過ぎてしまったけれど、自分なりに一生懸命生きてきた道程は、それでもう一遍の小説なんだろう。

それでは、これから彼女の小説を読んでみることにする。





『おばさん四十八歳小説家になりました』①~を私が読むきっかけになった満州国のこと




先日、松岡將さん(『松岡ニ十世とその時代』の著者)が、長春その他旧満州各地を訪ねて作ったスライドを見せてくださった。満州国は戦前日本の一大プロジェクトであるが、みんな忘れている。私たちの世代だと、満鉄とか甘粕大佐とか満蒙開拓団なら聞いたことがあるかもしれないが、実情はよく知らない。言ってみれば我が国の「黒歴史」あつかいである。

しかしその地に生まれ、ソ連(当時)に攻め込まれ、父親をシベリアで亡くした松岡さんからしてみれば、右翼とか左翼ということに関係なく、近代日本史における満州国というもの実態を若い世代に伝えるべきでないかというのは、まったく同感である。

関東軍の暴走や残留孤児、あるいはそもそも建国の正当性などといった影の部分は数多あるが、それはそれとして、単純に、当時の日本があれだけのプロジェクトを短期間に成し遂げたという事実は瞠目に値する。なぜなら、その頃の日本は今の日本よりずっと大きかったのである、まったく信じられないほど!

学習院大学キャンパス内に乃木大将(10代学院長)が自費で建てた石碑がある。彼が指揮をして勝ち取ったリャオトン半島をはじめ、台湾、朝鮮半島、樺太等千島列島、その他小笠原諸島など、当時の日本の領土の境界地から集めてきた80個を含む147個の石でできている。(それぞれの土地の個性的な石の出所も説明されていてとても面白いし、ほかにもたくさんの歴史的建造物があるので、おすすめの散策スポットです!)

その碑の上に、乃木大将は、決して枯れることのないと言われる(と言っても今は二代目)の榊を植え、新国土の安泰を祈ったのかもしれないが、戦後は大半を失った。いずれにせよ、そのように拡大された日本が満州国を創っている時代は、今より人口が少なかったにもかかわらず、多くの日本人がすでに北米や南米に移民していたし、台湾や朝鮮における統治・移住・開拓、中国奥地や南方諸島への出兵(さらに多くのエリートが治安維持法で投獄さえされていた)であちこちに散らばっていたわけで、にもかかわらず、それぞれの場所で、ものすごいことを成し遂げた(善悪は別として)という事実には驚かされる。

多くの人が大学を出て、当時より人口もずっと多くて、物質的に豊かになったはずなのに、今の日本のエネルギー、というか国民のエネルギーは各段に落ちている気がする・・・くだらない40インチの画面によって均質化され、吸い取られてしまったのかしらん。

それはともかく、その当時のエネルギーのすごさをまざまざと感じさせるものの一つが、今まだ残る旧満州国の堂々たる建造物である。関東軍司令本部も満鉄のビルも、たくさんの学校も、名だたる駅舎もホテルも、ほぼ当時の日本人が設計したものである。(もちろん苦力=クーリーと呼ばれた現地の貧しい中国人の労働力があってのことではあるが。)建物は残っているだけでなく、各地の共産党の主要施設などに普通に利用されている。

松岡さんは母校の桜木小学校をはじめ、そうした建物の写真をたくさん撮っていらした。そしてその中に、満州中央銀行倶楽部という、満州の帝国ホテルと称された建物があり、それがフランク・ロイド・ライトの弟子の遠藤新の作品で、しかもその建築家を知っていて、ホテルもよく利用したという人も現れ、ぜひ、遠藤新の孫で私の知人の現(げん)さんにそのスライドショーを見せしようということになり・・・そしていよいよ、ようやくこれからが今回のブログの本題なのだが、現さんのお知り合いで、今『歴史街道』という雑誌に帝国ホテルについて連載中の歴史作家、植松三十里さんもお呼びする、という運びになった。ふ~っ。

長すぎる前置き。で、植松さんの本を読みだした次第であり、有名な作家なのでご存知の方が多いと思うが・・・

あまり長すぎる前置きなので、サブタイトルをつけて、とても面白かった表題の本の感想は②に書くことする。




宗教を考える④『マハーボ―ディ寺』~ブッダ悟りの現場



前々回から続いているシリーズの追加である。

『マハーボ―ディ寺』アレキサンダー・カニンガム著、松本榮一・恭訳

インドのブッダガヤにある「マハーボディ寺」。お釈迦様が悟りを開いて仏陀になった場所であり、ゆえに仏教最高の巡礼地である。私は行ったことがないが。

インド大陸を最初に統一したアショーカ王(マウリア朝第三代)が、仏陀の成道を顕彰するために紀元前3世紀ごろに建立したと言われている。釈迦が生まれたのが紀元前5世紀だから、仏跡としては最も古いものだそうだ。アショーカ王はインド統一にあたって多くの人を殺したため、深く反省し仏教に帰依したという。

現在のマーハボディ寺

その後長い間、アジア各国に広まった仏教の、信徒たちの巡礼先として大切にされてきたが、イスラムの統治によって破壊され、また時代の風化によって形跡がなくなっていった。それを復元したのがイギリス人の考古学者アレキサンダー・カニンガムである。ときは大英帝国の植民地時代。仏教が廃れてしまったインドでは、仏陀がインド人であることすら忘れられていたらしい。というか、カニングハムによって、仏教はもともとインドから生まれたことが分かったというのであるから驚きだ。日本では仏教は盛んになった。それは中国から入ってきたのだが、もとは天竺から来たという事実は、三蔵法師の逸話などを通じて知られていたと思うのだが。この三蔵法師こと玄奘が書き残したものを最大の資料としてカニングハムは、マハ―ボディ寺を発掘・復元したのだという。

そういうわけで、この本は考古学的な見地から、寺を巡る歴史的背景、敷地内外の建物、構造、仏塔、レリーフ、埋蔵物などを説明したもので、詳細な図や写真も載っている。

ところで、そもそもなぜ私がこの本を読んだかというと、インド考古学の父であるカニングハムが1892年(!)に出版したこの本の訳者と知り合いだからである。しかも知り合ったのはインドであった。東北大震災の直前だからもう6年も前になる。インドのプネーというところにある、ウルリカンチャンという(ガンジーが創設した)自然療養施設に滞在中のことであった。知り合ったといってもわずか20分くらいしかお話ししなかったと思う、私が来た時に、彼らは滞在を終えて出て行ったから。

縁は奇なものである。松本榮一氏は有名なカメラマン、その奥様の恭さんはフリーランスの編集者であり翻訳者、この二人を私につないでくれたのが、同じくその療養施設で知り合った橋本清澄さんという、対馬で天日塩を作っている人なのだが、この話はここでは省く。

とにかく松本夫妻は、一年のうちかなりの時間をインドに過ごしていて、この本の出版も、もともとブッダガヤに住んでいたり、地元の考古学者であるラムスループ教授との交流があって実現したのである。訳本のほかに、もう一冊解説本があり、それは同教授による解説を訳して編集したもので、カニングハムの書いたものの理解を助ける補助本となっている。

恭さんによれば、この本は仏陀によって書かされたような気がするということである。本当に魂を込めて訳したのだろう。130年前のカニングハムの英語にも、ラムスプール教授のインドなまりの英語にもたいへんな苦労をされたことと思うが、じつに流暢で読みやすい和訳になっている。ブッダガヤに巡礼ないしは観光に行く人たちはもちろん、古代の仏教建築に興味のある人には、ぜひ手に取っていただきたいものだ。

ここで釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた、そのときに少女が乳粥を運んできた、その程度しか知らなかった私は、それらが実際に事実であることがこの本で確認できたわけだが、それにしても長い長い歴史の中で、ビルマやスリランカ、中国などのアジアの仏教徒たちが、この寺にやってきて建物を増築したり、修復したり、いろいろなものを寄進したり、片や一方でヒンズー教やイスラム教の王様たちが破壊したりと、その形跡をたどるのはなかなか興味深いことであった。

私は考古学には疎いし、現地に行ったことがないので、実感としてつかめなかった部分が多くあるが、宗教の持つ力のすごさを感じることができた。マハ―ボーディ寺は確かに人類の宗教史に欠かせないものであり、その原型をイギリス人のカニングハムが発掘したというのが面白い。アショーカ王や玄奘三蔵といった仏教史の偉人がからむ仏教の世界を、訳者はワクワクしながら読み解いたそうである。

これが原型になって、中国を経由して日本各地に寺ができたと考えたら、それは確かに興味深いことである。ここで最後の苦行をした釈迦が悟りを開いた、それは確かに聖地である。世界最高のパワースポットである。その霊力は、今も衰えることない、なぜなら仏陀の教えは真実だから・・・そう私は思っている。だからこそ時代と国境を超えてあちこちに広まり、またここが多くの人をひきつけてやまないのだ。

だいぶ前に福井県の吉崎御坊という寺に行ったことがある。自動車で旅行中にたまたまその駐車場で眠って、起きて何やら騒々しいと思っていたら、その日は「蓮如忌」であった。蓮如(1173-1263)は親鸞の築いた浄土真宗の中興の祖であり、福井を中心に信仰を広めていった人である。その寺は港に近く、当時は栄えていたようであるが、往時の面影は失われていた。それでも地元の人は蓮如忌に集まってくる。ましてや当時の漁民や農民にとって、蓮如の存在ほど神々しいものはなかったであろうと、つくづく思わされた。蓮如はそこに4年ほどしかいなかったわけだが、人々はそれをずっと語り継いでいったのである。

吉崎御坊のHPによると――

吉崎に上人が到着して僅か三ヶ月後のことでした。ここに、日本の歴史上一大奇跡とも言える「蓮如ブーム」がほんの三ヶ月の間に沸き起こったのです。お念佛の大合唱が、北陸の津々浦々に地鳴りの如く、響き渡ったことでしょう。どの村でも上人の話題で持ちきりだったに違いありません。吉崎へ参詣する若嫁を、姑が鬼の面を付けて脅かしたという話で、人形浄瑠璃にもなった「嫁脅し肉付きの面」、地元で今も語り継がれる民話「吉崎七不思議」などもこうした「蓮如ブーム」が背景にあったのです。雲霞の如くの群参に御山は、かつてない繁栄を誇ります。御坊の周辺は参詣者の宿泊施設となった「多屋」と呼ばれる宿坊が建ち並び、その中央に馬場大路というメーンストリート、南大門から七曲がりを降りたところには、船による参詣の船着き場ができました。こうして、無人だった山が一気に大都市、寺院を中核とした寺内町に変貌したのでした。

蓮如の霊力、あるいはその背景にある仏陀の霊力はものすごい。蓮如が布教したのは、一般の人たちである。考えてみると、漁民や農民にとって、日々の労働や暮らしの中で、共同体のおきてや生活の知恵のほかに、心の中の規範となるような考え方を、それまで聞いたことがあったであろうか。戦国時代の不安定な圧政のもと、自主的に世の中の道理や自分たちの置かれた立場について考える機会と、日常の思考の範囲を超えた「救い」の概念を初めて与えられたのものと思う。

しかし人々を惹きつけたのは浄土真宗の念仏の教えだけではないだろう。そんな霊的・精神的なことよりなにより、寺の存在があって、初めて人は集うことができたのではないか。そこへ行けば、人に会える、一緒に念仏を唱えたり歌をうたったり、教養を得たり、ご飯を食べたり踊ったり・・・さながら、現在の娯楽や文化施設のすべて――コンサートホール、野球場、パチンコ、デパート、図書館、公民館、学校、道場――だったのだろう。それは精神的、物理的にものすごい求心力をもった存在であったにちがいない。そして、年に数回の祭り――これは非日常的なエネルギー爆発の機会であった。

江戸時代の伊勢参りにしても、信仰と同時にその道中の物見遊山が大きな目的であったという。宿場町には見るべき名所がたくさんあった(今もそうであるが)。

マハ―ボーディ寺はまさにそうした点で、世界中の仏教徒(あるいは物見遊山、観光客)にとって、最大の求心力を持っている。仏教を巡るあらゆる歴史的経緯が刻まれているのである。当然ながら、権力者は宗教の持つ求心力と伝播力を利用して統治しようとする。寺や寺院を建てたり、増築したり、壊したりするのは、まさにそうした為政者の歴史そのものである。

世界最古の宗教と政治のシンボル、マハーボーディ寺。仏陀の霊力の宿る寺。その始まりを記録したこの本を読んだら、ぜひとも行きたくなってしまった!!

これを書いている今日は、たまたま仏陀の誕生日である。(そして私事だが祖母の命日)


訳本と解説本の二冊セット。サブタイトルは「ブッダの大いなる悟り」
マハーボ―ディ寺の歴史、建物の構造、伽藍の配置、仏塔、レリーフなど時代別に詳しく書かれている。