『人生フルーツ』~人生は長いほど美しくなる




アントニン・レーモンドとノエミのような、素敵なカップル


私は長生きするということにずっと懐疑的であった。別に長く生きればいいってもんじゃないと。子供がいないので、うちの人を看取ったら、周辺をきれいにして、見苦しくないうちに、極端な話、城ケ崎の崖からでも飛び込んじゃおうとすら思っていたほどである。

しかし、この映画を見て考え方が変わった。素敵な老夫婦の、心温まるストーリー。ご主人の津端修一さんは、海軍で戦闘機を作っていた技術者だが、戦後の焼け跡に住宅の供給が高まると見込んで、アントニン・レーモンドの建築事務所に入った。その後、住宅公団の第一期社員として、たくさんの団地を造る。名古屋郊外の高蔵寺団地開発で、自然と一体感のある集合住宅を造ろうとしたが、質より数という方向転換にあって、自ら近くに敷地を買って、雑木林を植え、野菜や果樹を育てる暮らしを始めるのである。

そこには70種類の野菜と50種類の果物があるというから驚きだ。奥さんの英子さんもまたすぐれた人で、突飛なだんなの夢に寄り添い、一緒に畑を作り、そこで採れた食材を上手に料理して暮らしてる。

彼らの家はアントニン・レーモンドの家をまねたもの。たしかに、この前高崎で見てきた井上房一郎邸に似ている。30畳のダイニング兼リビングからは、緑の庭がよく見える。風通しもよさそうだ。

二人がこの家で、「コツコツ、ゆっくり」暮らしている、行ってみればただそれだけの映画である。若いうちはヨットを乗り回したり、大学で教えたり、いろいろなことがあったのだろうが、映画では90歳と87歳の老夫婦が、畑と家の中で、なにやらごちゃごちゃと働いたり(当然動きは緩慢)、食事をしたり、絵を描いたり、何気ない会話をしているだけなのだが、生活するということの、ただそれだけの持つ美しさに溢れていた。

ふたりの人間が出会って、いいところを引き出し合って、協力して、生きてきた。そうやって年を重ねた夫婦は、その存在そのものが芸術なのだ。そして普通の暮らしをおろそかにしない、それを可能にしているのが、彼らが尊敬する建築家の哲学。

「家は、暮らしの宝石箱でなくてはいけない」 コルビジェ 
「すべての答えは自然の中にある」 レーモンド 
「人生は長いほど美しくなる」 F.L.ライト

このドキュメンタリー撮影中に、ご主人の修一さんが亡くなった。草取りをして、昼寝をし、そのまま起きなかったという。あっぱれな最期。英子さんは、庭に満艦飾の旗を立てる、にぎやかに送りたいと。そして、彼の作った野菜や果物をたくさんの箱に少しづつ詰めて知人に送った。それから、気が抜けたと言いながらも、健気に一人で生きていく、相変わらず、毎日を丁寧に、こつこつ、ゆっくり。

何でも自分の手でやってみる、時間がかかるけど、そこから見えて来るものが絶対にあるから、という二人の言葉がずしんときた。すべてを人任せにしないから、自分の人生を自分でコントロールして、自分の責任で生きている。今の社会はともすれば、ベルトコンベアーにのっているように簡単に物事ができてしまう一方で、世の中が自分とは関係ない所で動いているような不安感がある。自分に根がなければ、マスコミにも踊らされる。

自分の手も、足も、頭も、目もしっかりと使いづづけていれば、最後の最後まで働いてくれる。人間の身体と精神とはそうできてるんだ。そうやって年を重ねれば、知性と美的センスに一層磨きがかかって、あんな素敵な暮らしを最後まで続けることができるのね。将来に希望が湧いてきて、いつになく明るい気分になって映画館を後にした。


『雪のつもりし朝:二・二六の人々』~主義主張を越えねば②



前のブログの続き


二・二六事件をめぐる天皇から一兵卒までの人間模様を描いた本書を読んで、戦争そのものについて考えてみたいと思う。なぜなら、この一部の陸軍将校が起こしたクーデターやテロが、現代世界中で起きているさまざまな紛争と無関係とは思えないからだ。見方を変えれば、ちょっと前の日本もまたテロ国家であり、北朝鮮のように追い詰められた軍事大国であり、罪なき若者を特攻隊という形で自爆させるような国だったのだ。

暗殺された政府高官は、昔から先の戦争まで数知れない・・・井伊直弼、大久保利通、原敬、犬養毅、濱口幸雄・・・アメリカでもリンカーンや、戦後にはケネディ兄弟が殺された。IS国を批判するけれど、日米だってかなり野蛮な国だったのだ、ちょっと前まで。

そして日本では、そのようにして力を持った軍部を抑えることが出来ぬまま、中国各地で戦争を起こし、世界大戦に突入し、結果として敵味方含めて何千万人ものあらゆる犠牲者を出した。自爆テロなんていうもんじゃない、あれだけの特効兵を出した理性なき日本が、当時核兵器を持っていたら、使わなかった保証があるだろうか?

当時の日本を先の戦争に駆り立てたのは貧困である。徹底的な経済制裁によって日本は袋小路に追い込まれた。第一次世界大戦に負けて膨大な賠償金に苦しんだドイツの国民もまた、好戦的なヒットラー政権を生み出して次なる戦争に突入した。今の北朝鮮やISを戦闘状態に駆り立てているのもまた貧困に相違ない。このほかにもシリア、エジプト、イラク、トルコ、アフガニスタン・・・貧困にあえぐ多くの国で弱者の命が戦いに脅かされている。いずれもかつては世界最大の富と権力を誇った国々である。

一方で、今日の世界の富の大半がたった数パーセントの人間の手に握られているという。そして、このあからさまな不均衡は、不満分子を扇動する、これは基本的に二・二六事件の背景と同じであろう。現代は、それが国際規模で、ボーダーレスに起きているということだ。

数日前バルセロナでテロがあって13人の一般人が犠牲になった。そしてテロの犯人と思わしき4人が銃殺されたという。テロの犯人を何人殺したところで、全く解決になどならない。世界中の空港で大々的な取り締まりをしようと無駄であろう。バルセロナのケースは自爆テロではないが、9.11以来の自爆テロ実行犯の多くが誘拐された女性だそうである。女性なら怪しまれずに実行できるからだそうだ。彼女たちは悪者どころか、もっとも同情されるべき犠牲者である。二・二六事件に巻き込まれた一兵卒や特攻兵と同じである。

とはいえ、この小説にあるとおり、戦争の発端においてもその過程においても、誰かが決定的に悪者であるというわけでもない。IS国や北朝鮮を単なる暴力的な国家として、力ずくで抑えようとしても、さらなる紛争の火種になるだけだ。そこに至るまでには理由がある。だいたい金正恩政権にしたって、日本が朝鮮半島を植民地にしていなければ生まれなかっただろうし、そうかといって、一歩間違えば、日本そのものもロシアの統治下になる可能性もあったわけで、いまさら歴史を振り返ってもきりがないほど人類は有史以来戦争によって覇権を争い続けてきたのであり、すべてはそうした因縁であり、結果なのである。

そもそも誰も戦争など望まない、ましてや国民を守る立場にある天皇や首相が望むわけがない。アメリカの大統領や北朝鮮の将軍だって同じはずだ。それは今も昔もどこでも同じはずであり、この小説にある通り、悲劇の背景では、為政者も、そして人民も、それぞれ一生懸命に、自分がやらねばならないと思うことをやっているのだろう。

それは現在の日本においても同じであり、日本海側に配備された対朝鮮迎撃ミサイルの発射を、一般人が止めることもできないわけで、北朝鮮とアメリカの緊迫したにらみ合いを、全く文字通り指をくわえて見ているしかなく(命がかかっているかもしれないのに!)、安倍さんにしても、なんらかの断固とした態度をとってほしいと理想としては思うけれど、いったいどんな選択肢があるというのだろう。日米関係の積み重ねから見ても、少なくとも彼一人が背負える問題ではないという意味では、昭和天皇の戦争責任を問う難しさに似ていると思う。

広島・長崎に落ちた原爆が、その多大なる犠牲者をもって、もっともリアルな形で核の恐ろしさ、核戦争の愚かしさを伝え、戦争放棄という憲法9条が、おそらく世界で初めての理想的な解決法を提示したのだろうが、それもアメリカのバックアップがあってこそ可能なのであり、終戦後間もなく、その理想を不意にするような立場に日本を追い込んだのもまたアメリカなのであるからして、9条の理想は、事実上うたかたの空夢となった。

歴史は繰り返すどころか、人間は何も変わらない。国は興亡を繰り返し、歴史に学ぶこともない。歴史に学ぶには知性が必要だ。知性とは、正論を貫くことではなく、自分の正論が本当に正論なのか疑うこと、あるいは自分の正義が必ずしも他者の正義ではないと知り、相手を認め、紛争の背景と原因を究明し、暴力ではなくて対話によって解決をする力だと思うが、知性を裏付ける知識と経験を積む前に、多くの人は貧困と戦わなくてはならず、あるいはその場限りの享楽や商業的なマスコミに踊らされてしまう。

これは国家間の争いに限ることではない。夫婦間、親子間であっても同じである。すべては自分が正しいと思い込むことから争いがはじまっている。

少なくとも、誰かを悪人と決めつけたり、自分だけが正しいと思ったり、あるいは、自分には責任がないと思っている限り、この世からあらゆる争いというものはなくならないのだろう・・・

一言で戦争というけれど、実際に戊辰戦争で戦った祖父を持ち、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、その生涯になんども戦争を見た羽仁もと子(私の敬愛する教育者)が、晩年に言った、「平和の道を歩むことは戦争をするよりもずっと難しい」と。「善によって悪に打ち勝とうとするには、悪をもって悪に勝つよりももっと大きな力がいる」と。

主義主張は人間の一部です。全部ではありません。人間から主義主張を取り除いて、なお残るその重要な部分において、どこまでも人と人は好意と同情と尊敬を示し合い信じあっていけるはずです。    『羽仁もと子著作集20巻』

国を強く憂う言動と種々の平和運動から、左からはナショナリスト、右からはコミュニストと非難された羽仁もと子。しかし実はそのどちらでもなく、彼女の主張は戦前戦後を通じて一貫してぶれていない。戦争といえば「先の戦争」だけを取り上げ、自分の主義主張から善悪を唱えている限り、日本人にとっても戦争は終わらないのである。

二・二六事件を人情ドラマとして描いた『雪のつもりし朝:二・二六の人々』は、戦争は、単純に背景に悪者がいるから起きるわけではなく、今も昔も人間同志の、複雑で哀しい因縁であること、そして生身の人間が殺し合わなければならない虚しさと、それを乗り越えて平和的解決を考える知性の大切さを再確認させてくれた。




『雪のつもりし朝:二・二六の人々』~天皇から一兵卒までの人間ドラマ①







暑い夏は、逆にこういうタイトルの本がいい。(習い始めたギターで目下、山下達郎の『クリスマス・イブ』を練習しているのだが、こっちはかなり違和感がある・・・それでもクリスマスまでにうまくなりたい!)

やはり8月は戦争と平和を考える月だし、この本は、先の戦争につながった二・二六事件のことであり、作者の植松三十里さん自身も、「戦争はダメだと伝えるのが自分の仕事」とあとがきの中で書いている。

それにしても、終戦日が新たな開戦日になりかねない今年の8月なのである。一体この世に戦争をしたい人などいるのだろうか。あるいは、過去の戦争や現代の戦争を考えても、これだけ多数の罪なき人を巻き込んで、命を犠牲にする価値のある戦争など、この世に存在するのであろうか。未開の地を奪い合ったり、国盗り合戦に明け暮れた戦国時代ではないのである。原爆の恐ろしさは知っているはずである。たった一発で人類の多くが消えてしまうような兵器を作って威嚇し合わねばならぬのは、なぜだろう。自爆テロの大半が、誘拐された女性によるものだという。戦争とは人間を兵器にする、究極の悪であるはずなのだが・・・

この本を初めて読んだときは、そのオムニバス形式に現れる登場人物をめぐる、切迫したストーリー展開を夢中になって追っていたが、再読してみて思ったのは、二・二六事件という、昭和の象徴的なクーデターにおいて、攻撃された政府高官も、攻撃した陸軍上層部も、彼らに引きずられた兵士たちも、誰かが決定的かつ一方的に悪いわけでもないということである。

この本によれば、岡田啓介首相も、その身代わりになって死んだ義弟の松尾伝蔵も、九死に一生を得た鈴木貫太郎侍従長も、実に立派な人間である。反乱軍に国賊呼ばわりされるいわれなどない、国のために身をささげてきた人たちだ。一方で、鈴木侍従長宅を襲撃した安藤輝三隊長も、この事件がきっかけでのちに映画『ゴジラ』を監督することになる本多猪四郎一兵卒もなかなかの人格者である。そして、天皇のために決起したはずの陸軍将校を厳しく粛清しようとした昭和天皇も、陸軍から信頼の厚かった弟の秩父宮も、それぞれの立場でやるべきことを全うしてきたにすぎず、非があるというわけでもない。

背景には貧困という哀しい事実があり、それを悪化させたのは、軍備拡張という事態であり、ゆえに政府高官は軍縮に取り組んでいたのであるが、この事件から、むしろ事態は悪化してついに世界大戦に突入してしまうという皮肉。

この小説では、二・二六事件に始まって、終戦、戦後の日米安保条約の提携までの紆余曲折にそれぞれの立場でかかわった人々の、公式文書にはあらわれないであろう裏話を描き出している。天皇と秩父宮の乳母を勤めた鈴木侍従長の妻のタカや、講和条約締結に尽力した吉田茂の娘の麻生和子など、平和への道を開くにあたり女性の果した役割も小さくなかったことも分かる。それにしても、天皇をこれほどヒューマンに描いた作品も珍しいと思う。ここに出てくる昭和天皇は、映画などでよく見る硬直した君主ではなくて、矛盾に満ちた立場にあって喜怒哀楽のある人間らしい天皇であり、この辺は女性作家らしい描き方だと思われる。

植松さんは、昭和史は評価が難しいからまだ書き手が少ないというようなことをおっしゃっていたが、それでなくても私たちの世代にとって、学校の近代日本史の授業はあっさり流されて、二・二六事件は大雪の中で起きた怖い事件だったという印象しかなかったし、財閥のトップや首相が次々暗殺されたあの時代も、今のIS国を見るがごとく、まるで別の国の出来事のように思わされてきた。こうした重要な事件を、無味乾燥の年表上の出来事としてではなく、生身の人間を登場させて再現できるのも小説という力なのだろう。

この本に描かれた「二・二六の人々」を通じて、戦争とはだれもが否応なく加担しうるし、巻き込まれることが見えて来る。そしてその背景に必ずある貧困という問題。これについて、もう少し考えてみたいと思う。

つづく

『ひとつぶの宇宙:俳句と西洋芸術』~俳句は日本の宝だ!



本阿弥書店より出版


作者の毬矢まりえさんは、若くして海外で学ばれた国際派で、西洋文学の研究家であると同時に俳人として、俳句の世界遺産登録申請運動にも携わる活躍ぶり。この本は、究極の芸術表現ともいえる俳句を、西洋芸術と比較して論じたものである。

正岡子規が、友人の画家中村不折を通じて西洋絵画の「写生」の概念を知り、それを句作に適用して近代俳句の基礎を作った一方で、フランスの批評家ロラン・バルトや詩人のポール=ルイ・クシューが、芭蕉や蕪村に影響されていたーー。こうした国際間の相互作用が、たくさんの例句を引いて、詳しく書かれている。

私たちが何気なくやっている俳句だが、たしかに宗祇がいて、芭蕉がいて、蕪村がいて、子規がいて、虚子がいて、そうやって時代とともに俳句という表現形式に息を吹き込んできてくれたからこそ、いまここに歳時記もあり、さまざまな結社や俳誌があって、俳句という文化も存在するのだろう。その過程には、子規のように新たな表現方法を探して西洋の概念を取り入れる人もいたし、同様に西洋にもまた日本の俳句から、表現の神髄を学ぼうとした人たちがいる。

ジャポニズムがあれだけ印象派に影響を与えたように、あるいは、フランク・ロイド・ライトやアントニン・レーモンドが日本建築からインスパイアされたように、俳句もまた多くの西洋の表現者にとっては、魅力のあるものらしい。「俳句は羨望を起こさせる。その簡潔さが完璧さの保証となり、その単純さが深遠さの確認となる」とはロラン・バルトの言葉。

作者は、本の冒頭でマルセル・プルーストの散文を挙げ、彼の試みた、丹念な写生や描写の積み重ねによって到達しうる自然の深遠な境地を、俳句という形式がたったの17文字で成し遂げる可能性について論じている。そして虚子の晩年の句――明易や花鳥諷詠南無阿弥陀――を引いて、感動が深遠なものへと、物から心へ、より高きものへ向かうのだと説く。

さらに、彼女は俳句をなんとダークマター(おお、私の大好きな暗黒物質!)になぞらえる。

ダークマターは宇宙に確かに存在し、この宇宙に大きな影響を与え続けている物質である。俳句もまた文学という宇宙空間に確かに存在し影響を与えるものとはいえないだろうか。俳句の一句一句は小さいものかもしれない。太陽のように巨大な発行体として君臨しているのではないだろう。けれど俳句は多様な国々に革新的な影響を与えてきたのである。多くの文学者、芸術家にインスピレーションを与えているのだ。 
繊細かつ簡潔、イメージ力に溢れ、大胆でありつつ洗練された俳句。伝統と革新が両立し、小景も遠景をも包含してしまう俳句。クーシューはそのような俳句を「一瞬の驚き」とも評している。一瞬一瞬を切り取り表現してしまう日本人の感性に、ヨーロッパ人は感嘆したのである。

「俳句とはポエジーのダークマターではないか」、と作者は言うのだが、まあこの飛躍が俳句的ともいえるのかもしれないが、ずいぶんと大仰な(笑)。しかし、俳句が一瞬一瞬を切り取って表現する、日本人独自の感性だと言われれば、たしかにそれは面白い。

作者は俳句をカンディンスキーのコンポジションにもなぞらえる。コンポジションとは、画家が視覚的に獲得したものをいったん内面的に沈潜させ、検討し練り上げてから組み立てる(コンポーズ)するもので、自然や事物をありのままにリアリスティックに表現するのとは違うという。「内面的視力」を持つことで、吸い殻のような小さき命のないものも、「魂」を打ち明け、「心の秘奥」を体得できる・・・いわゆる「心の目」でみるということ。一方で、心を空しくして見なければ、自然の本来の姿は見えてこないともいえるのだが。

このほか季語についてもさまざまに考察されている。何気なく使っている季語だが、これもまた、日本人独特の感性が長年をかけて編んできた文化遺産だと言われれば、すんなり納得できる。

ニュージーランドの知人宅にいたときのことである。外では蝉が鳴いていた。「うるさいわね」と顔をしかめる彼女に私は言った。「日本では蝉の声を蝉の雨(蝉時雨)といって、夏の風物詩として愛でるのよ、そればかりじゃなくて、蝉の抜け殻や落ちて死ぬ蝉までも。蝉の抜け殻って英語でなんて言うの?」「a cicada’s case?」「うわ、そのまま。日本では蝉の抜け殻が、千年以上も前に書かれた長編小説の主人公の恋人の名前になるくらい風情のあるものなのよ!」

英語の辞書で引くと、空蝉は「cicada’s shell」となっているが、shell (殻)だろうがcase(入れ物)だろうが、ニュージーランド人(あるいは英語のネイティブ)にとってはどう呼んでもかまわないくらい、取るに足りない、風情など全く感じ得ない、たんなる抜け殻なのだ。といっても、日本人だって俳句をやらない人にとっては、どうでもいいものなのかもしれない。昔から季語として愛されているがゆえに、風情を感じる・・・という逆説も成り立つ。

桜だって、朝咲こうと夜咲こうと、俳句をやらない人には同じだが、歳時記に、朝桜、夕桜、夜桜とあれば、それぞれの違いを感じようとするし、花の雨、花曇り、などといわれれば、せっかくの桜の時期なのに残念だなどと思わずに、しっとりした情緒を味わえたりもする。そう考えると、季語は日本人ならではの感性の結晶であり、日本人にうまれたのなら俳句をやらなければ損だという気もしてくる。

一方で、作者は、こうした季語の持つ一定のイメージないしは虚構性が、俳人の足かせにもなり得ると警告する。例えば、「蝉時雨」という季語によりかかり、実際の蝉の声を自分の耳でしっかりと聴かなければ、季語が死んでしまうという。

俳句をとても英語にはできないと思っているので、俳句の国際化というものがピンとこなかった私だが、この独特の形式が、他国の人に影響を与えることは、この本で納得がいった。しかし、風土というものを考えると、やはり日本のこの四季があっての俳句であり季語であると思う。それは、一般に言われているように、日本が自然というものに親和性があるからというのは、あくまでも西洋との比較であり、インドや台湾に暮らしたことのある私からしてみれば、熱帯性の国の方がもっと生活と自然が密な気がする。特にインドでは、地べたに座って裸足で歩き、箸やフォークを使わずに手で食べたりもしたし、自分自身がもっと自然と一体化している感覚になれる。スラム街では、周りにある素材――場所によっては、石、土、粘土、段ボール、ビニールシートなど――を使い、隣家の壁を自分の家の壁として、まるで細胞が分裂していくような形で増殖していく暮らしぶりも目の当たりにした。という意味からいって、日本人は自然と一体というより、自然を身近に感じつつも間接的に捉え、信仰の対象として、また心象の表出手段として扱ってきたと思われる。そうした客観性がなければ、ただ落ちただけの椿、枯れた蓮などを愛でる文化は生まれまい。

それにしても、落椿や枯蓮・破蓮など、日本人は自然を愛でるといいつつも、意外とネガティブというか、生命賛歌とは言えない季語が多いことに驚く。蛇の衣とか、凍滝とか、枯野とか、生命感の乏しいものに思いをはせるのも、カンディンスキーの言う「心眼」のなせる業か。

英語には形容詞が多く、たとえば日本語の「おいしい」を表現しようと思ったら、いくつもの言い方が思いつく。日本人がよく使うdeliciousだとかtastyだけでなく、yummy, wonderful, super, fabulous, beautiful, great, amazing・・・とキリがないくらいに。逆にネガティブな形容詞も多い。つまり、ポジティブとネガティブを表現するには、とても豊富な言い回しがあるのだが、その間の微妙なニュアンスの言葉が少ないような気がする。「風情がある」「味がある」などという言葉は、とても一言では英語で言えない。

蚯蚓鳴く、亀鳴く、紙魚走る、蟭螟(蚊のまつ毛に棲むと言われる架空の虫)などの滑稽味のある表現や虚構の季語も面白い。そして、この高度に洗練された独特の感覚から生まれた季語を使って、作者ならではの見立てで、心眼を持って、卑近な人事はもちろん、蟻の穴を覗いて宇宙の果てまで見てしまえるような闊達さというか、スケールの大きさがある、それが俳句の面白さだろう。

ところで歳時記には現代の私たちにはもはやなじみの薄い季語も多いが、日本人である以上、祖先から受け継いだ記憶から、見た事がなくても、あるいは使ったことがなくても共感できるとして、作者は、蚊帳、火鉢、竈猫などの句を挙げている。一方で限界もあり、若い世代の俳人に季重なりの句があるのはその表れだともいう。ほのぼのと餅は黴つつ春を待つ(大谷弘至)・・・たしかに餅、黴、春を待つ、と三つの季語がある。

この本では、このほか、山口誓子、沢木欣一、小池文子という三人の俳人を取り上げ、俳句の中に受け継がれる芭蕉以来の漂白の精神についても論じている。そこには日本人特有の無常観があり、季語の中にも移ろいを表すもの―――初霜、冴え返る、春動くなど、季節の微妙な動きを示すものが多いと指摘する。


私は、20年ほどやってきた俳句の壁にぶつかってもがいているところなので、参考までにこの本を読んでみたのだが、いろいろな示唆に富んでいて、たしかに俳句は日本の宝であること、しかも俳句をやるやらないにかかわらず私たちの祖先が築き上げてきた、生活に根差した美意識、あるいは滑稽・おかしみ・達観(つまり俳諧味)や無常観のなかから生まれてきたという事実に気が付いた次第である。

日本人としてこんな魅力的な俳句を、やっぱりやめられそうにない。よって、自分の心眼をどう磨くか、それが目下の課題であろう。


『私と日本建築』~アントニン・レーモンドの見た日本



ライトに続いて、彼の帝国ホテル時代の弟子であったアメリカの建築家アントニン・レーモンドについて読み始めた。ライトが日本の文化や建築にインスパイアされて、美術品や浮世絵を収集したり、自分の設計に何らかの影響を与えたというが、レーモンドは、ホテル建築の来日以来、戦争中と最晩年を除いてずっと日本に暮らして仕事をした人だから、ライトよりいっそう日本とその建築に対する造詣が深かった。

ライト以上に具体的に日本建築の素晴らしさを理解し、またそれを自身の作品に反映させたし、また劣化してゆく価値への危惧を強く抱いていた。

レーモンドが日本とその建築をどうとらえたかは、実際に彼の文章を読んだ方がよくわかるので、引用してみる。

40年前(1919年)、私が来た頃の日本の民家は、物質的にも、精神的にも、必要なものを統合した一つの驚異であった。おそらく、世界のどこにも見出すことのできないたぐいのものであった。民家は、茸か、木のように大地に生えたものであり、自然であり真実であった。その内部の機能が、自由に、しかも完全に表現されていた。その内部の機能が、自由に、しかも完全に表現されていた。あらゆる構造材は、積極的に外部に露出し、構造そのものが仕上げであり、それが唯一の装飾であった。あらゆる材料は自然材であったし、選別され、職人によって仕事がなされた。すべてにわたり、また周囲においても単純で、率直で、機能的で、経済的なものがあった。人々、その着物、その調度、その陶器、絵画、庭園のすべてが、自然の中のあらゆるもののように、自然の家庭により年月を経てはっきりした進歩を示し、すばらしい目的統一を表現していた。大自然の比類ない愛を、明瞭に示していたのである。
爾来、私は基本的な日本建築の原型を学ぼうとするよりも、常にその存在に感謝し、絶対原則が含まれていることを意識してきた。原則は、おそらく常に同じであり、不変であり、また将来もそうであろうが、真の美をつかまえようとするわれわれを、導いてくれるに違いない。
私は、本当の日本の伝統が、今世紀の初頭、現代建築の設立者たちによって形成された、よいデザインの原則と、正確に一致するのを見出したのである。真の伝統は、知識と経験の宝庫であり、何世紀もの自然発展の結果である。
日本人の堅実さ、仕事に対する情熱、その紀律、忍耐力。人間の尊厳の維持と、酷い環境の中での気品の維持、みじめさからの脱却を、私は尊敬している。日本人の大自然への密接さ、彼らは大自然とひとつになり、共に生きる気分を持っている。日本人は、気持ちよりもむしろ心を信頼し、考えよりも感覚を信頼して、その安全装置としてきた。私は殆ど、他のどこの世界よりも、真に人間的尺度を湛える、日本の大自然を尊敬し、くつろぎを感ずる。その人間的尺度は、日本の絵画、彫刻、建築に証拠だてられたように、日本の芸術家や職人の中に、何世紀もの間を通じ、成功のうちに伝えられてきた。エジプトや、ローマ、ファシストたちが到達したモニュメントの類いのように、巨大なものになったり、記念碑的寸法には決してならなかった。言い換えれば、自然と人間との統合と、適切な環境にするための人間の努力とが、日本にあっては充分に達せられていたのである。


レーモンドの事務所に長くいた建築家三沢浩氏による翻訳も素晴らしい。彼はレーモンド研究家の第一人者で、ライトに関する書物もある。かつて私は、明日館の三沢氏の連続講座を受けたことがある。あの時のテーマはライトだった。

研究者によると、ライトは自分が日本建築の影響を受けたことを認めたがらないと言われる(ホントかなあ、研究者特有の穿った見方のような気もするが・・・ライトは日本建築を見て自分が考えて来たことが正しかったと確認したというようになっている)。その点、レーモンドは諸手を挙げて日本建築をほめたたえ、その特徴を積極的に自分の設計にも取り入れたのだと主張する。ライトは、仏像や浮世絵など日本の骨董品に興味を持ったが、庶民の暮らしはあまり評価していなかった。ところが、レーモンドは、日本人の普通の暮らしに興味を持った。


当時、帝国ホテルに住んだ後、私達(ホテルの内装を手掛けた妻のノミエとふたり)は郊外に小住宅を借りた。全くの村で、鉄道によって都市に接しているだけのことであった。日本の住宅は畳の上に座り、眠ることで、広く世界に知られている。私たちの住まいもその類いの純日本式で、暖房も湯もない生活であった。しかし、この小さな、見栄を持たぬ典型的な住まいは、少しばかりではあるが、ぜいたくな庭がついて、丘の上にあり、豊富な経験のセンターであった。私はその体験を、高く現代化された世界の国々に、分かち合いたいと考えている。
村の中に誰かが新しくやってきたかをみるために、村の長老が訪れる。商店からは使いの小僧がやってくる。土地の食堂は、一枚の大きな板にかかれた、達筆の当日のメニューをもって毎日たずねてくる。通りからは行商の売り声が聞こえる。豆腐屋のラッパ、そばやの笛が聞こえる。夜ともなれば、夜廻りが拍子木の調子を合わせて打ちならし、通りを駈けおりながら、寝しずまった住民たちに、火と泥棒の用心をよびかける。蒸気の笛を鳴らすキセル直しのラオ屋。頃は春、中でも嬉しいのは、どこかの片田舎にあって、農夫が天秤棒を肩に、調子をとって種蒔きするとき。やや足早に畝を上り、あるいは下りながら、鳥がさえずるように歌う。歌は胸にあこがれを呼び、その後いつまでも、心にその歌をうたう時、焼きついてはなれない。
神社の祭りに、人々は着飾り、戸ごとに提灯をさげる。人々は社に詣で、柏手をうち、賽銭を箱に投げ入れ、銅鑼を鳴らして祈る。そして、派手な色の飾りでうめつくされた、店や屋台を訪れる。
灯火のともる夕方ともなれば、巨木の下では、相撲大会がひらかれる。皆は、茶屋の番頭が、魚屋と必死の闘いを演ずるのをみる。やぐらにすえられた大太鼓の、ときめく胸の鼓動のような音が、静かな夕空に向かって、村の広場から立ち上がる。それこそ、日本の情景の持つ意味を、すべて盛りこんだものであろう。創造における人間の人間たるゆえんを、簡単にくりひろげたものなのである。

なんとまあ、上手に日本の、ある時代の情景を描き出したものだろう。豆腐屋のラッパ、火の用心の拍子木、農夫の鼻歌、神社詣での柏手と銅鑼とお賽銭・・・日本の日常やハレの日の音が、彼にとってとてもすてきだったのだろう。何気ない近所の人々との交流がうれしかったのだろう。「創造における人間の人間たるゆえん」か・・・この風情、この詩情、当時のレーモンドでなくても、私ですらもはや異邦人の目つきで当時を眺めてしまう。きっと彼の見た日本は、こんなかんじじゃなかったかしら。

当時の写真集より(よくありがちな写真だけど、今とは全く違う世界)


東京郊外のお花見

車がない、看板がない、柵がない、色は花と着物だけ 


農家も農民も美しい・・・ 

こんな宝石のような日本人もいたのか!



亀戸天神(今は周りはビルだらけ)

昔の葬式は特別な雰囲気があった。今は葬儀場でベルトコンベアー式に


レーモンドの暮らした麻布の家のほぼ同じものが高崎にある。地元の文化活動に尽力した井上房一郎が、レーモンドから設計図をもらって戦後にたてた家だ(文化財として公開されている)。麻布の家は戦災で消滅したが、母屋に続いて設計事務所があった。そこに三沢氏や前川國男が勤めていたのである。ここでのレーモンド夫妻の暮らしぶりは、三沢氏の著作『おしゃれな住まい方~レーモンド夫妻のシンプルライフ』に詳しい。

この三沢氏の本を読んで、高崎の井上邸に行ってみると、レーモンド夫妻が日本でどのような暮らしをしたかがおぼろげに分かってくる。たしかに質素な、というか簡素な家である。足場丸太といわれる柱がそのまま露出していて、家の中にいるのに、半分くらい外にいるような開放感のある家だった。壁は薄いべニアで、部屋と部屋の区切りは障子と襖で、和風とも洋風ともつかない、まさにレーモンド風。インテリアデザイナーだった妻のノエミの、主張のない、それでいてシックな家具が、室内を上品に仕上げている。

食事は玄関のパーゴラの下で、雨が降ればそのまま寝室へテーブルを動かして、そんなふつうの彼らの日常・・・ぐっと来たなあ!