無題④~あるがままを見る





前のブログの続き



先に「解放」と副題を付けたブログを書いたが、それは、自分の存在がないところから見える世界なのだが、それでも「見る」行為は発生するようだ。「見る」のは眼の複雑な機能だが、ただモノを映すだけでなく、そこには対象物を瞬時に「判断」してしまうという脳の機能も働いている。それはそれで「起きていること」として構わないのだが、できれば、対象物をまっさらに見ることが出来たら、そう、あるがままに見ることができたなら、それはさらなる解放につながるだろう。



例えば、先週実家からスキー場へ行く途中、視界に広がる山々について、私と彼は絶えず父に質問し続けていた、あの山はなに、と。あれは妙義の荒船山、あれは赤城の黒檜山、後方に見えるのは日光の男体山・・・と父が答えるたびに納得する私たち。でも待って、私は思った、山の名前を知って納得するってどういうことだろう?それで何が分かったっていうのだろう?



そもそも山ってなに?陸の一番高いところ。陸ってなに?海に浮かぶ部分ではない。海から出ている部分である。つまり陸自体が海底から見ればすでに一万メートルを超すような高い山であり、通常、山と呼ばれる部分はその陸の中で少し高く盛り上がったところに過ぎない。そしてその少し盛り上がった部分は自然にランダムに生じたもので、それが中には火山が噴火したものもあるし、陸と陸がぶつかって盛り上がったところもあるし、その形成はいろいろだが、もともと「〇〇山」という存在があったわけではない。「〇〇〇子」という人間が初めからあったわけでもないし、今だってそういう人間があるわけでもない、単に他の人間と混乱させないように便宜上名前を付けられている、ある生命エネルギーに過ぎない。



なので、あれは榛名の〇〇山だと聞かされて、ふうんと納得するということ自体の意味が分からない。誰かがつけた名前は山そのものではないからだ。そもそも山と山じゃないところの境目も不明だし、宇宙人の眼から見たら山と空の境目も分からないかもしれない。山も空も概念だ。ましてや高い山ってなに?低い山があって初めて高い山があり、青くない空があって初めて青空がある。青という色は青以外のすべての色と違う色を差しているにすぎず、青といった瞬間に、私はなにを見ているのだろう?ある一定の波長の長さを人間が青と決めただけのことで、青という色が元々あるわけではないのだ。それが証拠に、人間以外の動物に青い色は見えない。



形容詞も名詞もすべてそうである。きれいは汚いものがあって存在し、美人は不美人がいて存在し、賢いは愚かがあって存在する概念。痛いは痛くない、面白いは面白くない、まずいは美味しい、酸っぱいは酸っぱくない・・・あらゆる形容詞はそれ単体では意味が成り立たず、必ず反意語が無意識化に立ち上ることで機能する言葉である。



名詞もしかり。薔薇という花はない。桜という木もない。桜は梅との違いを知らない。桜は自分が木であることも花をつけることも知らずに、そのままに存在する。そのままに芽を出し日の光を浴びて成長し、水を吸って二酸化炭素を吸って酸素を吐き出して、夜はその逆、そして花を咲かせ散らし、実をつけて、紅葉し散る・・・しかしこうした行為そのものに意味付けし名前を付けたのも人間である。桜は芽も葉も空気も水も太陽も知らない。ただ在ってただ享受する。ただ生きて死ぬ、それだけ。あるがまま。



そのあるがままの生命の姿を私たちはそのままに見ることができず、先述のように、あらゆる変化と機能に名前を付けカテゴリーしたがる。そして名前がないものを「発見」などと、もともとあったのに(しかも人間より先に存在していたのにもかかわらず!)おこがましくも名前を付け、〇〇科などと分類する。桜という名前にすでにいくつもの既成概念が織り込まれているので、私たちはもうそれをそのままに見ることができないのである。



人に対しても同じで、私、〇〇〇子という存在にはいくつものストーリーがまとわりついている。年齢、性別、職業、住所、性格といった情報が共有されている。レッテルが貼られている。背が高いとか、顔がはっきりしているとか、のんびりしているとか、趣味が多いとか、交友関係が広いというのは、すべて誰かとの比較において語られている。その比較のうえでしか私が存在しないかのようだ。誰とも比較しないである人を見たら、そこには何の形容詞もないはずだ。



なんの形容詞も、あるいは名詞すらないもの、それはカテゴライズもされず、ただそのまま。人間でもなく、生物でもなく、単なる宇宙的なエネルギー。



長年蓄積されたデータをゼロにすることはできないから、この机の上にいろいろなものがあり、それがアイマスクだったり、ケータイだったり、スピーカーだったり、目薬、イヤリング、コースター、さまざまな書類であるように見えてしまうけれど、そしてそれらがいかにも乱雑に存在しているように見えるけれども、たしかに人間がそれらを名付けカテゴライズしたからこそ生じた物質であるけれども、それでも、できるだけ、概念を外し、単にそこにあるものとして、そう、宇宙開闢以来の進化の中で必然として生じたエネルギーの塊として見たら、乱雑に置かれているというより、なにかどれも懐かしいような、ありがたいような、近しいような存在に思えてくるから不思議である。



いずれも今この瞬間を共有し合っているエネルギー同士として、ここに在る。たがいに何の概念も持たず、たただた許されて、恵まれて、存在しているのだ。







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