無題③~解放



前のブログの続き





うちの人がインフルエンザにかかってしまった。一昨日の夜から高熱に苦しめられている。一度解熱剤を飲んだが、熱が38度を下がることはないようだ。かわいそうに。私は昨日は午前中はずっとおかゆやらなんやら作り続け、午後はずっと隣で寝ながら本を読んでいたが、あまり近くにいないほうが良さそうなので今日はパソコンに向かっている。そして、つらつらと「私の不在」について考えている。



唯識論的に言えば、インフルエンザに苦しむ夫という存在はない。そもそも私の夫である〇〇〇男という人間はいない。そういう名前を付けられた存在はある、社会的な便宜上、彼の両親がそう彼を名付けたのだ。インフルエンザというものもない。ある身体の症状を、カテゴライズして人間が付けたものである。あえて言えば、あるウイルスが別の生命の身体の中に入って繁殖しようとしている現象である。「苦しい」と思っているのは、誰か?事実は、ある生命体の中で熱を出してウイルスをやっつけようとしている現象だ。



「苦しい」という感情ないしは感覚は、いったい誰の感覚なのだ?「苦しい」イコール「不快」の感覚は、どうやって生まれたのだろう。ある生命体が人間と呼ばれる形で誕生し、生き延びるために「快」と「不快」を覚えたのだろう、「快」は物理的に生存に有利で、「不快」は不利。単純にそれだけだったのだろう、しかしそもそも「快」「不快」というのも人間の後付けのレッテルであり、現象そのものではない。いってみれば、生存に不都合な現象が起こっている、ということか。それゆえ身体が戦っているが、戦う相手ウイルスもまた生命エネルギーの現象である。究極的には、どちらがいいわけでも悪いわけでもない、単なる現象なのだ。



もちろん苦しんでいる彼には、差し迫った事態なのだろうが、俯瞰してみれば、二つの生命エネルギーがせめぎ合っているということである。そしてその事態はやがて消滅する。万が一、彼としての身体が負けたとしても、宇宙的エネルギーとしては、何ら変わりはない。単に波が打ち寄せて引くようなもの・・・それを「人間」が一大事としてとらえている。もともと〇〇〇男などいないのに。



さて、目下苦しんでいる彼の身体には申し訳ないが、冷静に考えると、「自分=私」がいないということは、とてつもない解放なのではないか。自分がしていること、考えていること、同様に他者に見える人間がしていること、考えていること、あるいは人間社会らしきもので起こっていることすべてが、すべて誰にも関係なくて、単に起きるべきことが起きているだけだという認識に立てば、「私」がシャカリキに生きようとする必要などないからだ。



何が起きてもいいのである。だってそれを起こしている「私」などいないのだから。何かを考えて誰かに何かをしゃべっていると、自分では思いこんでいるけど、それは実は自分ではないとしたら・・・「自分」ではなくて、宇宙的エネルギーの表現が勝手に起こっているのだとしたら・・・それは「自分からの解放」でなくてなんであろう。



「私」はいない。「あなた」もいない。すべては解放され、すべては起こるべくして起こっている宇宙のエネルギー。生きているという感覚がもうすでに大いなる恵みなのだ。



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