無題②「私」という妄想の世界



前のブログの続き





非現実な映画や小説のストーリーを観る自分自身が、自分の創ったストーリーに過ぎない非現実なのではないかという問いがある。



自分、というか、この身体があるのは現実である。しかしこの身体が自分、あるいは私そのものかと言うと、どうやらそうではないらしい(唯識論的に言うと)。



とうか、そもそも「私」ってなんだ?身体が私ではなく、思想も私ではないとしたら、「私」とは単なる概念?



ではその「概念」を認識して、「私」と思い込むのはどこにあるのか?



まずは身体から考えよう。この身体は自然の産物だ。身体を構成する要素は宇宙開闢以来生成され続けてきた原子からできている。この身体は宇宙のあらゆる物質と同じ原子からできていて、つねに変化し、消滅し、また再生することを繰り返している。この身体が死ねば、死体の原子は何らかの化学反応で、この宇宙の何かほかの物質を形成する。いや死ぬまでもない、肺を息を吐くだけでも、その二酸化炭素が、周辺の何かに影響して、何らかのものを生じさせる。少なくとも同じ部屋にある観葉植物の光合成に役立つかもしれない。



この身体がリンゴを食べれば、膨大な神経細胞が動く、膨大な細菌が動く、膨大な電気信号と酵素が分泌される。リンゴと身体は一体になる。この時点でこの身体とリンゴは不可分な存在だといえる。リンゴは「私」であり、「私」はリンゴであるといえるかもしれない。そしてその分の老廃物が身体から排出される。トイレに流された老廃物は何らかの形で分解され処理されるが、けっして消滅してしまうわけではない。



リンゴだって、どこからか突然にやって来たものではない。リンゴがこの身体に入るまでに、膨大な人的エネルギーと物質的エネルギーが実存する。リンゴを向くための包丁も、リンゴを盛るための皿も、リンゴの皮を捨てるための三角コーナーも、リンゴを洗う水道水も蛇口も水道管も、そして、その包丁や皿や三角コーナーをデザインした人も売った人もいるし、それらすべてを「私」が買うためのお金を稼いだ人、紙幣を印刷した人、財布を作った人、財布の材料の革になった牛、牛を育てた人、牛の餌となった草・・・



ああ、もうバカみたいで数えることも不可能なくらい、単にただひとつのことがなされるまでに起きたことは数えきれない、単に脈々と連綿とエネルギーが変化して、今この瞬間が起こっている。



一体全体なにを言いたいかというと、自分の身体だとか自分が食べているとか信じている行為が、まったくもってなにかものすごく計り知れないエネルギーがあって実現しているということである。それは神秘的な奇跡、実にありがたい一瞬一瞬の恵みなのだ。



もう午後4時近いのに、電気もつけないで部屋にいてパソコンを見ることができるのは、太陽があるからだ。朝から晩までこの地表を温かくしているのも太陽のおかげだ。花が咲くのも、植物が育つのも、牛や豚がいるのも、太陽のおかげだ。太陽のおかげで、「私」の身体はいかされている。しかし、人間は太陽をコントロールできない。



太陽ほどでなくても、大気も、月も、海底潮流も、海底プレートの移動も、「私」の存在を可能にするエネルギーである。地震は怖いが、地震というエネルギーの発散がなければ地球は爆発してしまうだろう。すべては「私」が存在するために不可欠な恵みである。



痛いとも言わずに伐られる木、踏まれる草や虫、掘り起こされる地面があって、この身体が快適な家に暮らすことができる。「私」を温めてくれるセーターの原料となる羊毛は、いったいどこの国の草原に住む羊なのか、「私」の足を守る靴の革はどこの国の牛なのか、頭痛を治してくれる薬のために犠牲になったモルモット、あるいはその薬を開発するために苦学した研究者・・・すべてはいまここに「私」が存在するための恵みである。



「私」ではない、「この身体」といったほうがいい。私とは、そうした恵みに感謝して生きていることの神秘や奇跡を味わうというよりも、むしろ膨大な無駄な思考・感情にとらわれる装置のようなものだ。あらゆる恵みの中に自分も存在すると考えるよりむしろ、あらゆるものから分離して個を保ち、孤を悲しむほうにいそしんでいる装置ではないか。



自分は「〇〇〇子」である。1967年〇〇県〇〇市に〇〇と〇〇の長女として生まれ、祖母と妹と5人家族。背が高くやせており泣き虫でいじめられ、幼稚園から小学校まで比較的暗い子供時代を過ごし、中学ではバレー部に入り万年補欠、英語が得意で海外に憧れ、進学校に進むが勉強は不真面目、でもアメリカに行きたくて留学の出来る大学へ行き、通訳の勉強をして、いくつかの会社で通訳と翻訳と広報の仕事をし、しかし組織が向かず会社を辞め、フリーでいろいろな仕事をするがボランティア程度で、趣味は広くヨーガに俳句にギターにスキーなどなど、どれも適当に続けたりやめたり。結婚生活は順調で、交友関係は広く浅く、家族には恵まれ、貧乏でも裕福でもなく、子供はいないがその分自由で、健康で前向きで明るい性格。



―――などと、たったの半ページ足らずで、おおむね「私」を紹介してしまえるのだ。本当にこんなのが「私」なのか?



いや違うだろう、こんなのが「私」じゃない。こんなふうに狭く限定してしまえるほど「私」という存在エネルギーは小さくない。さっきからかいているように、「私」の身体が50年間、この地球上にあることの背景には、少なくとも宇宙の開闢以来の137億年間のすべての進化、というかエネルギーの変化が関係しているし、50年間やって来たことも天文学的な外的エネルギーの助けがあるのだし、今この一瞬ですら、太陽や空気がなかったら存在できないのだ。



「私」は決して、「〇〇〇子50歳」などとくくれるような矮小な個別の分離したものではない。ただただこの一瞬に起きている宇宙的エネルギーの表出なのだ。そしてそれは、一瞬で消えるはかないものではあるかもしれないけど、ものすごく多くの恵み、あるいは愛に支えられてこそ存在可能なものの表出である。



このリアリティーに対して、たとえばとある一人の漫画家の妄想から生まれたストーリーを映画化したものが、いったい何だというのだろう。それもまた宇宙的エネルギーの、ほんの小さなあぶくに過ぎない。



今この瞬間に起きていることしかない―――と「悟った人たち」が言っているのは、おそらくそういうことなのだろう。リアリティは、まさに今この瞬間に起きていることだけ。過去も未来も、エネルギーの矮小化された架空の「〇〇〇子」が捉えられるような単純なものではない。過去に本当に何が起きて、今ここにこの身体があるのかもわからないし、わずか3秒後に何が起きるのかも本当の意味では分からないのだから。



いま、ここに、この身体がある、それだけがリアリティだ。



そしてその「身体」が体験しているように思えることは、「私」とは何の関係もなく、ただ「起きている」だけなのだ。私のお腹がすいたのではなくて、「身体」があって、「空腹を感じる神経が作動している」。私の頭が痛いのではなくて、ここに「身体」があって、「その中の何かの神経が何らかの理由で圧迫されている信号が生じている」ということである。



今私が考えて文章を書いているのではなくて、この「身体」が(身体というのも概念かもしれない、なぜなら、そこには無数の生命体があり電気信号が内外から作動しているから)、なにか得体のしれないものに反応して、パソコンの前に座って、文字を打っている、だけのことである。ほんとうに、ただそれだけのことなのである。





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