『群青』②~日本の大恩人



前回のブログに続く
『群青』①~ヒーローになれなかった男

日本海軍の基礎を築いた男、矢田堀景蔵。勝海舟の影に隠れてヒーローになれなかった男、と書いたが、ヒーローになりたくもなかった男、なのだろう。自分にとっての大義を果たすことが重要で、それが世間に知られよう知られなかろうと、関係のないことだ。まさに「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」である。

海軍総裁まで務めた矢田堀だが、晩年は無関係な部署つぎつぎ配属され辛酸を舐めたようである。その頃名を変えた、矢田堀鴻と。

 燕や雀のような小さな鳥には、鴻鵠という大きな鳥の志など理解できない、という意味の故事成語だ。この言葉から、あえて鴻の一文字を取った。
 自分は、ただひたすら日本の海を守ろうと努めた。だらか内乱には反対した。ただ守りに徹する軍備という志を、どうしても周囲に理解してもらえない。そのいきどおりを、みずからの名前に込めたのだ。

と、植松さんは書いている。矢田堀は退職するまでなんと12か所もの部署を回されたが、いずれもきちんと勤め上げたという。

勝海舟と、昌平坂の同期で同じく海軍で活躍した木村摂津守が、先に逝った矢田堀のお墓の隣に石碑を建てた。この本は、この二人の墓参からストーリーが始まっている。

小説だから、多少の脚色はあるだろう。しかし、こういう人物がいて国防のために海軍を作ったというのは事実であり、こうした人の努力で私は今日本人として生きていられるのだ。私はその恩人への謝意と彼を讃えた石碑を見たいとの気持ちから、早稲田にある宗源寺に行ってみることにした。



地下鉄東西線早稲田で降りた。ケータイのナビが分かりにくくて、歩いていたら大きな鳥居があった。流鏑馬で有名な穴八幡宮だ。境内はどこも新しくなっている。平成のきょうびにこんな立派な普請がまだ行われているのに驚く。銅葺きの堂々とした本殿の柱も壁もコンクリートというのが現代風だが。氏子の力があるのだろう。地元民らしい人たちがひっきりなしに参拝に来ていた。

宗源寺はといえば、駅を挟んで反対方向にあった。穴八幡宮に比べるとずいぶんさびれてしまった感じがしなくもない。寺は今風と言えば今風だが、どちらかというと住職のプライベートな住居という感じで、道路を挟んだ反対側にコンクリートの高い塀に囲まれた墓地があったので、勝手に入ってみた。

本当にここに彼のお墓があるのかなあ・・・小さな墓石が何列にも連なって並んでいる。あれだけの歴史的人物のお墓がこんなところに・・・探してみたけれど見つからない。

仕方がないので寺のドアホンを押してみた。すると若い感じのよい住職さんが出てきて案内してくださった。先ほどの墓地の一番はじの列にあった。勝と木村が書いたという石碑は戦争で壊れて今はないのだという。

小さなお墓だった、かなしいくらいに。しかもあちこち苔むしていて、側面の文字がよく読めない。

以前は海軍関係者が墓参していたそうだが、その関係者もなくなり、ひ孫を名乗る人もいらしたそうだが、このところ来ていないらしい。

私はブラシを借りてそれを洗った。海の男に苔は似合わない。初夏を思わせるような日差しに乾ききった墓石をゴシゴシこすって苔を落とすと、そこにたっぷり水をかけた。あゝ願わくば太平洋の見える所に建ててあげたい、こんな都会のコンクリートの中ではなくて。

「おかげさまで、こんな平和な時代になりました、ありがとうございました、ありがとうございました」と唱えながら、線香をあげた。


宗源寺にある矢田堀の墓。戒名に「航」の字が入っている

明治二十年十二月十八日俗稱矢田堀鴻、とある



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