井上論天句集 『家洗ふ』~瞬間の心象を切り取る俳句の力


井上論天さんから句集が届いた。なんとお懐かしい、そして、あの水害に遭われても、句集を編むほどに立ち直られたということがとてもうれしかった。と同時に微妙な気持ちに襲われた。私はすでに俳句をやめてしまっていたから。

所属結社を去って以来、親の介護や自身の更年期、引っ越しなどに追われ、ここ何年かは俳句のない生活に慣れてしまった。桜を見ても、ああきれいだな、とただ感心するだけの気楽さが、なんとも嬉しかった。…しかし、去年の桜も今年の桜も同じに見えるというのはちょっとさみしい。その時々の心情が意識的にも無意識にも詠み込まれて、毎年違う気持ちで桜を見ていたということが、一句の中に如実に表れているからだ。それは俳句を作らなくなって初めて分かったことである。

『家洗ふ』を開いてみる。「墓洗ふ」という言葉はあるが、「家洗ふ」は水害に遭った作者ならではの造語であろう、「あとがき」にもあるが、それをタイトルにしたことに凄まじさを感じる。宇多喜代子氏が跋文で書かれたように、吉田町のニュースが報じられたとき、私も論天さんのことをおもった。しばらくしてお電話したら、「一階が全滅して二階に住みながら、土砂を取り除いている、炎天下で体力も限界に近い」とおっしゃっていた。本当にお気の毒なことであった。

そのような中で詠まれた句、そうでなければ詠めなかった句。いずれも酷い内容で、万の言葉を尽くして被害の状況を述べるより、あるいはテレビの映像より鮮明に自然災害の恐ろしさと被災者の苦悩を物語っている。


未曾有なる水・雨・泪そして汗

嗚呼山が嗚呼家が南無七月よ

水無月の山が動きて人を吞む

悪夢より醒めて悪夢のごとき夏

七月の眉間の皺が塩を噴く

夜の底で愚痴れば火蛾の世に迷ふ

炎帝に仕へる古稀の身の軋み

窮すれば神仏めきし羽抜鶏

羽抜鶏泪こらへる力まだ


水、雨、泪、汗、同質感のある言葉の羅列。嗚呼山が嗚呼家が、というリフレイン。俳人とはいかなる時も詩心を持ち続けられるのかと感心させられる。塩を噴く眉間の皺、古稀の身の軋み、泪こらへる力…被災者の自身を客観視できることは救いともいえる。先に述べたように、こうした句群がある限り、作者にも読者にも、あの水害の恐ろしさがありありと蘇る。その時々の心象風景を閉じ込めるのが俳句の力だ。

この悪夢のような現実以前の作品も含め、私の好きな句、まずはご家族を詠まれたものを選んでみる。


乳飲児を胸にまるめて涅槃図へ

母の手を引いて乗り込む寶船

心棒の外れた母と野に遊ぶ

水打つて妻との距離を取り戻す

短日の施設に母を捨てにゆく

妻にまづ御慶の膝をたたみけり

黴臭きものに親父の鉄拳も

父が死に我も死ぬ家柿熟るる

母の日の母の泪を見にゆかむ

秋惜しむすなはち母を惜しむなり

餅搗いて仏の母に会ひにゆく


乳飲児はお孫さんだろうか。「胸にまるめて」が巧く、生まれて日の浅い赤ん坊と仏陀臨終の涅槃図との取り合わせが面白い。男性作家による母恋の句は定番だが、論天さんの母想いは格別だ。施設に母を「捨てにゆく」という強烈な措辞を、「短日」という季語が一層際立たせている。捨ててなんかはいないのに、なんという自虐。奥様を詠んだ句も多い。「御慶の膝」とはなかなか出てこない、素敵な一句。「鉄拳」など今は一歩間違えば虐待と言われかねないから、過去の産物というか、たしかに黴臭い感はあるけれど、それはお父様の愛情だったに違いない。


自画像の鼻の歪みも酷暑なる

鶏頭の雨に擡げる負の思考

梅二月孤高の月を海に追ふ

滴りに地球の軋む音を聴く

累代の貧乏神と屠蘇かはす

蛍降る自縄自爆といふどん底

色鳥や老いてことさら好む赤

荒星や地酒で流す鎮痛剤

さくらさくら想定内に孤独死も

山焼いて酒で宥める野生の血

ラ・フランス私の魂いびつです


俳句とは、その時々の自画像でもある。歪み、負の思考、どん底、いびつな魂…己のネガティブな気持ちと向き合っている。論天さんらしからぬと思いきや、どっこい、そこには赤を好むしゃれっ気も、野生の血も流れている。荒星や山焼の句の男気が魅力的だ。


小鳥来る等圧線の隙間より

大阪が事の始めや絵双六

初夢の涙袋を齧る獏

菜の花や残んの月に魔女の顔

象哭いてレースの日傘重くなる

マニキュアの指の饒舌シクラメン

脱稿し朝のトマトに接吻す

人待ちの日傘に跳ねる六六魚

イヴの日のワインに不覚取られけり


これらの洒脱な句も好きだ。日傘を持ったマニュキアの女性が気になる。

そして、激動の時代を生きてきた作者の、骨太の句も忘れ難い。


凌霄花の登り詰めたる訣れかな

昭和には辿りつけない遠泳子

瘡蓋に血の滲みたる原爆忌

人を焼く夜を覆ひたる鰯雲

雪の夜の青鉛筆で画く自画像

死と向かふ男の矜持梅一分

含みたる水に芯ある原爆忌

かつと炎天モノクロの昭和人

生と死のやじろべゑなり年詰まる


この他にも、もし句会で出会っていたら、きっと採ってしまいそうな句を以下に挙げる。


目刺にもいごつそうなる面構へ

畦径を風のごとくに亥の子連

耳底にオルガンの鳴る麦の秋

墓守の隠れ呑みする蝮酒

補聴器をつけて蚯蚓の鳴くを待つ

薄紙を剝いでは春の山となる

略奪婚めくや蜥蜴の風起こし

大根の穴に滅びといふ時間

鷹鳩と化して許せる嘘となり

サイレンの音が弧を描く今朝の秋

余命告ぐ北病棟のさくらかな

鬼やんまつつと消えたる毛越寺

熱帯夜仏起こして遊ばうか

容赦なき死や雪蛍ほつと来て

夕焼に手を入れ記憶の糸たぐる


この度、このような句集をいただいて、私もまた俳句を作ろうかな、という気持ちと、もう無理だわ~という気持ちが錯綜している。論天さんのような素晴らしい句は作れないけれど、自分の人生を俳句で表現し続けたいような…「おまえの句を作れよ」と論天さんに励まされているような…いずれにしても、俳句を通じてこそ、論天さんに出会えたのであって、そのことに心底感謝しつつ、すべてを丸洗いしてしまった後のような、爽やかで美しい水色の扉を閉じることとする。


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