『雪のつもりし朝:二・二六の人々』~主義主張を越えねば②



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二・二六事件をめぐる天皇から一兵卒までの人間模様を描いた本書を読んで、戦争そのものについて考えてみたいと思う。なぜなら、この一部の陸軍将校が起こしたクーデターやテロが、現代世界中で起きているさまざまな紛争と無関係とは思えないからだ。見方を変えれば、ちょっと前の日本もまたテロ国家であり、北朝鮮のように追い詰められた軍事大国であり、罪なき若者を特攻隊という形で自爆させるような国だったのだ。

暗殺された政府高官は、昔から先の戦争まで数知れない・・・井伊直弼、大久保利通、原敬、犬養毅、濱口幸雄・・・アメリカでもリンカーンや、戦後にはケネディ兄弟が殺された。IS国を批判するけれど、日米だってかなり野蛮な国だったのだ、ちょっと前まで。

そして日本では、そのようにして力を持った軍部を抑えることが出来ぬまま、中国各地で戦争を起こし、世界大戦に突入し、結果として敵味方含めて何千万人ものあらゆる犠牲者を出した。自爆テロなんていうもんじゃない、あれだけの特効兵を出した理性なき日本が、当時核兵器を持っていたら、使わなかった保証があるだろうか?

当時の日本を先の戦争に駆り立てたのは貧困である。徹底的な経済制裁によって日本は袋小路に追い込まれた。第一次世界大戦に負けて膨大な賠償金に苦しんだドイツの国民もまた、好戦的なヒットラー政権を生み出して次なる戦争に突入した。今の北朝鮮やISを戦闘状態に駆り立てているのもまた貧困に相違ない。このほかにもシリア、エジプト、イラク、トルコ、アフガニスタン・・・貧困にあえぐ多くの国で弱者の命が戦いに脅かされている。いずれもかつては世界最大の富と権力を誇った国々である。

一方で、今日の世界の富の大半がたった数パーセントの人間の手に握られているという。そして、このあからさまな不均衡は、不満分子を扇動する、これは基本的に二・二六事件の背景と同じであろう。現代は、それが国際規模で、ボーダーレスに起きているということだ。

数日前バルセロナでテロがあって13人の一般人が犠牲になった。そしてテロの犯人と思わしき4人が銃殺されたという。テロの犯人を何人殺したところで、全く解決になどならない。世界中の空港で大々的な取り締まりをしようと無駄であろう。バルセロナのケースは自爆テロではないが、9.11以来の自爆テロ実行犯の多くが誘拐された女性だそうである。女性なら怪しまれずに実行できるからだそうだ。彼女たちは悪者どころか、もっとも同情されるべき犠牲者である。二・二六事件に巻き込まれた一兵卒や特攻兵と同じである。

とはいえ、この小説にあるとおり、戦争の発端においてもその過程においても、誰かが決定的に悪者であるというわけでもない。IS国や北朝鮮を単なる暴力的な国家として、力ずくで抑えようとしても、さらなる紛争の火種になるだけだ。そこに至るまでには理由がある。だいたい金正恩政権にしたって、日本が朝鮮半島を植民地にしていなければ生まれなかっただろうし、そうかといって、一歩間違えば、日本そのものもロシアの統治下になる可能性もあったわけで、いまさら歴史を振り返ってもきりがないほど人類は有史以来戦争によって覇権を争い続けてきたのであり、すべてはそうした因縁であり、結果なのである。

そもそも誰も戦争など望まない、ましてや国民を守る立場にある天皇や首相が望むわけがない。アメリカの大統領や北朝鮮の将軍だって同じはずだ。それは今も昔もどこでも同じはずであり、この小説にある通り、悲劇の背景では、為政者も、そして人民も、それぞれ一生懸命に、自分がやらねばならないと思うことをやっているのだろう。

それは現在の日本においても同じであり、日本海側に配備された対朝鮮迎撃ミサイルの発射を、一般人が止めることもできないわけで、北朝鮮とアメリカの緊迫したにらみ合いを、全く文字通り指をくわえて見ているしかなく(命がかかっているかもしれないのに!)、安倍さんにしても、なんらかの断固とした態度をとってほしいと理想としては思うけれど、いったいどんな選択肢があるというのだろう。日米関係の積み重ねから見ても、少なくとも彼一人が背負える問題ではないという意味では、昭和天皇の戦争責任を問う難しさに似ていると思う。

広島・長崎に落ちた原爆が、その多大なる犠牲者をもって、もっともリアルな形で核の恐ろしさ、核戦争の愚かしさを伝え、戦争放棄という憲法9条が、おそらく世界で初めての理想的な解決法を提示したのだろうが、それもアメリカのバックアップがあってこそ可能なのであり、終戦後間もなく、その理想を不意にするような立場に日本を追い込んだのもまたアメリカなのであるからして、9条の理想は、事実上うたかたの空夢となった。

歴史は繰り返すどころか、人間は何も変わらない。国は興亡を繰り返し、歴史に学ぶこともない。歴史に学ぶには知性が必要だ。知性とは、正論を貫くことではなく、自分の正論が本当に正論なのか疑うこと、あるいは自分の正義が必ずしも他者の正義ではないと知り、相手を認め、紛争の背景と原因を究明し、暴力ではなくて対話によって解決をする力だと思うが、知性を裏付ける知識と経験を積む前に、多くの人は貧困と戦わなくてはならず、あるいはその場限りの享楽や商業的なマスコミに踊らされてしまう。

これは国家間の争いに限ることではない。夫婦間、親子間であっても同じである。すべては自分が正しいと思い込むことから争いがはじまっている。

少なくとも、誰かを悪人と決めつけたり、自分だけが正しいと思ったり、あるいは、自分には責任がないと思っている限り、この世からあらゆる争いというものはなくならないのだろう・・・

一言で戦争というけれど、実際に戊辰戦争で戦った祖父を持ち、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、その生涯になんども戦争を見た羽仁もと子(私の敬愛する教育者)が、晩年に言った、「平和の道を歩むことは戦争をするよりもずっと難しい」と。「善によって悪に打ち勝とうとするには、悪をもって悪に勝つよりももっと大きな力がいる」と。

主義主張は人間の一部です。全部ではありません。人間から主義主張を取り除いて、なお残るその重要な部分において、どこまでも人と人は好意と同情と尊敬を示し合い信じあっていけるはずです。    『羽仁もと子著作集20巻』

国を強く憂う言動と種々の平和運動から、左からはナショナリスト、右からはコミュニストと非難された羽仁もと子。しかし実はそのどちらでもなく、彼女の主張は戦前戦後を通じて一貫してぶれていない。戦争といえば「先の戦争」だけを取り上げ、自分の主義主張から善悪を唱えている限り、日本人にとっても戦争は終わらないのである。

二・二六事件を人情ドラマとして描いた『雪のつもりし朝:二・二六の人々』は、戦争は、単純に背景に悪者がいるから起きるわけではなく、今も昔も人間同志の、複雑で哀しい因縁であること、そして生身の人間が殺し合わなければならない虚しさと、それを乗り越えて平和的解決を考える知性の大切さを再確認させてくれた。




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