『私と日本建築』~アントニン・レーモンドの見た日本



ライトに続いて、彼の帝国ホテル時代の弟子であったアメリカの建築家アントニン・レーモンドについて読み始めた。ライトが日本の文化や建築にインスパイアされて、美術品や浮世絵を収集したり、自分の設計に何らかの影響を与えたというが、レーモンドは、ホテル建築の来日以来、戦争中と最晩年を除いてずっと日本に暮らして仕事をした人だから、ライトよりいっそう日本とその建築に対する造詣が深かった。

ライト以上に具体的に日本建築の素晴らしさを理解し、またそれを自身の作品に反映させたし、また劣化してゆく価値への危惧を強く抱いていた。

レーモンドが日本とその建築をどうとらえたかは、実際に彼の文章を読んだ方がよくわかるので、引用してみる。

40年前(1919年)、私が来た頃の日本の民家は、物質的にも、精神的にも、必要なものを統合した一つの驚異であった。おそらく、世界のどこにも見出すことのできないたぐいのものであった。民家は、茸か、木のように大地に生えたものであり、自然であり真実であった。その内部の機能が、自由に、しかも完全に表現されていた。その内部の機能が、自由に、しかも完全に表現されていた。あらゆる構造材は、積極的に外部に露出し、構造そのものが仕上げであり、それが唯一の装飾であった。あらゆる材料は自然材であったし、選別され、職人によって仕事がなされた。すべてにわたり、また周囲においても単純で、率直で、機能的で、経済的なものがあった。人々、その着物、その調度、その陶器、絵画、庭園のすべてが、自然の中のあらゆるもののように、自然の家庭により年月を経てはっきりした進歩を示し、すばらしい目的統一を表現していた。大自然の比類ない愛を、明瞭に示していたのである。
爾来、私は基本的な日本建築の原型を学ぼうとするよりも、常にその存在に感謝し、絶対原則が含まれていることを意識してきた。原則は、おそらく常に同じであり、不変であり、また将来もそうであろうが、真の美をつかまえようとするわれわれを、導いてくれるに違いない。
私は、本当の日本の伝統が、今世紀の初頭、現代建築の設立者たちによって形成された、よいデザインの原則と、正確に一致するのを見出したのである。真の伝統は、知識と経験の宝庫であり、何世紀もの自然発展の結果である。
日本人の堅実さ、仕事に対する情熱、その紀律、忍耐力。人間の尊厳の維持と、酷い環境の中での気品の維持、みじめさからの脱却を、私は尊敬している。日本人の大自然への密接さ、彼らは大自然とひとつになり、共に生きる気分を持っている。日本人は、気持ちよりもむしろ心を信頼し、考えよりも感覚を信頼して、その安全装置としてきた。私は殆ど、他のどこの世界よりも、真に人間的尺度を湛える、日本の大自然を尊敬し、くつろぎを感ずる。その人間的尺度は、日本の絵画、彫刻、建築に証拠だてられたように、日本の芸術家や職人の中に、何世紀もの間を通じ、成功のうちに伝えられてきた。エジプトや、ローマ、ファシストたちが到達したモニュメントの類いのように、巨大なものになったり、記念碑的寸法には決してならなかった。言い換えれば、自然と人間との統合と、適切な環境にするための人間の努力とが、日本にあっては充分に達せられていたのである。


レーモンドの事務所に長くいた建築家三沢浩氏による翻訳も素晴らしい。彼はレーモンド研究家の第一人者で、ライトに関する書物もある。かつて私は、明日館の三沢氏の連続講座を受けたことがある。あの時のテーマはライトだった。

研究者によると、ライトは自分が日本建築の影響を受けたことを認めたがらないと言われる(ホントかなあ、研究者特有の穿った見方のような気もするが・・・ライトは日本建築を見て自分が考えて来たことが正しかったと確認したというようになっている)。その点、レーモンドは諸手を挙げて日本建築をほめたたえ、その特徴を積極的に自分の設計にも取り入れたのだと主張する。ライトは、仏像や浮世絵など日本の骨董品に興味を持ったが、庶民の暮らしはあまり評価していなかった。ところが、レーモンドは、日本人の普通の暮らしに興味を持った。


当時、帝国ホテルに住んだ後、私達(ホテルの内装を手掛けた妻のノミエとふたり)は郊外に小住宅を借りた。全くの村で、鉄道によって都市に接しているだけのことであった。日本の住宅は畳の上に座り、眠ることで、広く世界に知られている。私たちの住まいもその類いの純日本式で、暖房も湯もない生活であった。しかし、この小さな、見栄を持たぬ典型的な住まいは、少しばかりではあるが、ぜいたくな庭がついて、丘の上にあり、豊富な経験のセンターであった。私はその体験を、高く現代化された世界の国々に、分かち合いたいと考えている。
村の中に誰かが新しくやってきたかをみるために、村の長老が訪れる。商店からは使いの小僧がやってくる。土地の食堂は、一枚の大きな板にかかれた、達筆の当日のメニューをもって毎日たずねてくる。通りからは行商の売り声が聞こえる。豆腐屋のラッパ、そばやの笛が聞こえる。夜ともなれば、夜廻りが拍子木の調子を合わせて打ちならし、通りを駈けおりながら、寝しずまった住民たちに、火と泥棒の用心をよびかける。蒸気の笛を鳴らすキセル直しのラオ屋。頃は春、中でも嬉しいのは、どこかの片田舎にあって、農夫が天秤棒を肩に、調子をとって種蒔きするとき。やや足早に畝を上り、あるいは下りながら、鳥がさえずるように歌う。歌は胸にあこがれを呼び、その後いつまでも、心にその歌をうたう時、焼きついてはなれない。
神社の祭りに、人々は着飾り、戸ごとに提灯をさげる。人々は社に詣で、柏手をうち、賽銭を箱に投げ入れ、銅鑼を鳴らして祈る。そして、派手な色の飾りでうめつくされた、店や屋台を訪れる。
灯火のともる夕方ともなれば、巨木の下では、相撲大会がひらかれる。皆は、茶屋の番頭が、魚屋と必死の闘いを演ずるのをみる。やぐらにすえられた大太鼓の、ときめく胸の鼓動のような音が、静かな夕空に向かって、村の広場から立ち上がる。それこそ、日本の情景の持つ意味を、すべて盛りこんだものであろう。創造における人間の人間たるゆえんを、簡単にくりひろげたものなのである。

なんとまあ、上手に日本の、ある時代の情景を描き出したものだろう。豆腐屋のラッパ、火の用心の拍子木、農夫の鼻歌、神社詣での柏手と銅鑼とお賽銭・・・日本の日常やハレの日の音が、彼にとってとてもすてきだったのだろう。何気ない近所の人々との交流がうれしかったのだろう。「創造における人間の人間たるゆえん」か・・・この風情、この詩情、当時のレーモンドでなくても、私ですらもはや異邦人の目つきで当時を眺めてしまう。きっと彼の見た日本は、こんなかんじじゃなかったかしら。

当時の写真集より(よくありがちな写真だけど、今とは全く違う世界)


東京郊外のお花見

車がない、看板がない、柵がない、色は花と着物だけ 


農家も農民も美しい・・・ 

こんな宝石のような日本人もいたのか!



亀戸天神(今は周りはビルだらけ)

昔の葬式は特別な雰囲気があった。今は葬儀場でベルトコンベアー式に


レーモンドの暮らした麻布の家のほぼ同じものが高崎にある。地元の文化活動に尽力した井上房一郎が、レーモンドから設計図をもらって戦後にたてた家だ(文化財として公開されている)。麻布の家は戦災で消滅したが、母屋に続いて設計事務所があった。そこに三沢氏や前川國男が勤めていたのである。ここでのレーモンド夫妻の暮らしぶりは、三沢氏の著作『おしゃれな住まい方~レーモンド夫妻のシンプルライフ』に詳しい。

この三沢氏の本を読んで、高崎の井上邸に行ってみると、レーモンド夫妻が日本でどのような暮らしをしたかがおぼろげに分かってくる。たしかに質素な、というか簡素な家である。足場丸太といわれる柱がそのまま露出していて、家の中にいるのに、半分くらい外にいるような開放感のある家だった。壁は薄いべニアで、部屋と部屋の区切りは障子と襖で、和風とも洋風ともつかない、まさにレーモンド風。インテリアデザイナーだった妻のノエミの、主張のない、それでいてシックな家具が、室内を上品に仕上げている。

食事は玄関のパーゴラの下で、雨が降ればそのまま寝室へテーブルを動かして、そんなふつうの彼らの日常・・・ぐっと来たなあ!





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