『ネグレクト』&『「子供を殺してください」という親たち』、そして羽仁もと子②

前回の続き

インパクトあるタイトルだなあ


作者の押川剛さんは、問題児の親や兄弟から依頼され、当人を説得し精神病院に入院させたり、自分の施設で保護監督するという仕事をしている。そして、その子を含む家族を物理的精神的にケアしながら医療関係者や雇用者とつないで、暴力等の再発を抑えようとされている。

しかしまあ、こんなに難しい仕事もないわね。親たちから「子供を殺してください」といわれるような仕事だなんて。こんな仕事、世界のほかのところにあるのだろうか。ヒットマンならいるだろうが。

もしかしたら、これは日本固有の仕事かもしれない。というのは、親の命が脅かされるほどの状態に子供がなってしまったのには、日本独特の世間体を気にする体質がありそうだからだ。こうした親はたいてい世間体を気にするだけのエリートである。普通の家だったらそこまで気にしないかもしれないけど、家柄がよく一族みな高学歴の家では、子供に大きなプレッシャーがかかる。子供は勉強ができて当たり前で親を喜ばせようと一生懸命だ。兄弟の全員が勉強が得意というわけではないのに、常に出来にいい方と比べられる。

そういう子供は高校生や大学生ぐらいまではなんとか頑張っても、受験や就職の失敗で、一気に爆発してしまうのだ。学校へ行かなくなる、会社へ行かなくなる。でもそういう家庭たいてい裕福なので、生活には困らないし、うっぷんを解消するための浪費も支えられる、そのことが事態を一層悪化させる。

しかも家柄がいいから、子供の引きこもりや狂暴化が周りに知られないようにしてしまうので、ますます子供がつけあがる。この本に出てくるケースはほぼ同じパターンである。母親も父親もあまり挫折したことがなく、子供の気持ちが分からない。あたふたと子供の言いなりになって奴隷化する母親と、仕事が忙しいからと見ないふりを決め込こむ父親。しかし、彼らの命が脅かされるようになると、第三者に依頼するしかなくなる。

こうした親の苦悩も分かるが、親を殺そうとするくらいにめちゃくちゃに気が狂っていく子供たちがほんとうにかわいそうだ。そんなことしたいわけがないが、どうすることもできない。一番喜ばせたかったお母さんを一番苦しめている自分がどれだけ哀しいだろう。病院に送られるときは、裏切られた気持ちでいっぱいだ。遅すぎた反抗期は何倍も何倍も激しいのだろう。どれだけのプレッシャーだったろう。

作者の押川さんは、大人になれなかった子供たちに振り回され、時に嫌悪しながらも、やはりその親たちに戦う覚悟がないと指摘する。いつまでも世間体を気にし、人のせいにし、お金で解決しようとしたり、子供を見捨てようとしたり…

羽仁もと子は、「富貴の家ほど子供の教育に悪いことはない」とはっきり書いている。彼女の創刊した『婦人之友』も自由学園も、当時はエリート家庭が主な対象だった。金持ちの子供は、比較的、虚栄心が高く、生活力が乏しくなりがちだと、雇人のいない学校を創って、自ら掃除や料理もさせている。物質的な豊かさが必ずしも教育的にいいとは限らないのだろう。

自らがエリートの親たちは、勉強のできない子供が理解できない。本当なら、そのままのお前でいいんだと言ってほしかったに違いない。誰もが一人違った個性と特質を持っている。

そして子供の方も、いつかは親が完璧でないことを知る必要があるだろう。親も親なりに精いっぱいだったのだ。親子だけでない、人間関係はみな同じだ。誰もが完璧じゃないことは、自分が一番よく知っているはずだ。人を許せない人は、まず自分を許していないのかもしれない。

羽仁もと子は、「すべての子供がよく出来得る子供である」といって、子供によっては覚えるのが早い子もいるし遅い子もいて、それは学力に関係がない、親や教師の忍耐と工夫次第で、たいていの子供を自ら勉強をするよう導いていかれると書いている。

『教育三十年』より

一人の人間を、あるいは学科からあるいは行儀作法から、あるいは他の局部的の長所や短所からみてほめたり貶したりするような教師や親にはなりたくないものです。そのためにまず親が教師が学校が、その愛する子供たちを十分に理解するために、ほんとうに飾らずに人間的な親しみと尊敬を交わし合うことが第一です。親と教師、親と学校の対立ほど、子供の進歩と教育に有害なものはなく、親と教師の同情と親しみほど、子供もたちの心情を豊かにし幸福になしえるものはないでしょう。(そうして)すべての子供が、すぐれた人になる道を、勇んで堂々とふみ出してゆくことができるものです。

う~ん、なんか根本的なことが、今の教育から抜け落ちている気がする。親だけでは教育できないが、今の学校や社会は、どこまでひとりひとりの子供の教育に真剣なのだろう。

ネグレクトも子供の親殺しも、親だけの問題じゃない、社会問題だというのはたしかである。子供がいないからという私だって社会人として、今のこういう社会をつくった何らかの責任を負っているに違いない。誰も悪気はないのに、殺伐とした世知辛い、生きずらい社会を無意識に作っているのだ。人は人、自分は自分、われ関せずと、子供にとって夢のない社会を作っている、知らず知らずに。

政治家も行政担当者も子殺しも親殺しも、私には誰も批判する資格がない。

もと子の教育はキリスト教信仰と切っても切り離せない。父なる神によって恵まれない人間はいない、という。彼女の究極の教育論は以下の通りだ。

教育の目的は何ぞというきく人があれば、真の自由人を作り出すことこそ、真の教育の目的であると、私は熱心に主張したい。
 考えてみよう、各々の意志の自由、その意志というものはどうしてできるか、意志は瞬間の間にできるものでなく、その人の長い間のあり方によって成長し定まってゆくものである。端的に言えば教育の力でできてゆくものである。
神のみ心によって、その経綸の中に他の万物とともにつくり出され、お互いに助けあい関わりあって生きる所の人間は、その教育も訓練もまた神とそうして万有とによってなされる。一人一人についていえば、その自分を教育してくれる、あらゆるものの示してくれる与えてくれるところのものを受け入れて、自己の生命を養い育ててゆかなければならない。
すなわち取ってもって自らを教育してゆく最重要最高最後のものは、自分のほかにないはずである。人はよく教育されて、よい人間に成長しつつあるならば、その意志もかならず正しく働くはずである。右せんか左せんかの決定は、いつでもただ自分一人の責任である。人間はそれがあるがゆえに貴く、人権の尊厳もそこにある。しかしそこに到るまでの教育は大切である。 
人はみな神と万有の力に感謝しつつ、虔(つつし)んでその教育をうけ、かかわりを生きなくてはならない。人の中にきまりきった一人の先生もなく、生徒ならざる一人の人もいない。みな共に学ぶ同志である。あらん限りの思いを尽くし力を尽くして、だれでも一心にみずから学びつつ進歩してゆかなくてはならない。
またそのようにして学んだこと、発見したことを精いっぱい実行して、この天地の中に活かしてゆくことが、神の経綸に奉仕つつ万有を助け治めてゆくことになるのである。同化も協力もまたその中にできてゆくのである。

私もまた生徒の一人に他ならない。




2 件のコメント:

  1. すごい本だね。
    そんな仕事があるなんて。
    そしてそのお客さんがいるなんて…
    同じ時間に同じ国で生きていても目にしないことってほんとにそんなことがあるのかと想像さえしにくい。
    たまたま最近見た映画のことを書くね。
    シングルファザーで一人息子は一番大変なそして大切な時期の2歳前かな、あんなちっちゃい子が演技してるのがまずびっくりした。ドキュメンタリーかと思った、日常を撮ってるだけの。
    見終わった今も、あれ演技だったのかな…?と思う。だって演技だとしたらすごすぎるもん…
    それでね、そのお父さん、世の中の全ての子がそのお父さんの元で育ったら、最高にしあわせな子になるんじゃないかと思うお父さんなんだ。どこがというと、その子の意思や気持ちを悉く尊重しているから。もちろん愛があって。(愛のない人はいないけど)
    そんな父業ができているにもかかわらず、最後死ぬことを選ぶまで行ってしまうのよ。
    それで思ったのは家庭に起こる問題は親というより社会にある、と言ってしまっていい位の社会に今私達は生きてるんじゃないかと。
    それでじゃあどうしたらいいかと考えると、どうもできない。
    何故、社会がそうであるのか。
    国民の衣食住は国が保障し、国民は自分のしあわせを追求することを仕事としてする(もちろんそれは人の為にもなる)
    そんな国も今時点あるというのに、一体日本はどうしたのか、しあわせの後進国トップテンには入るだろう。
    さてさて…
    どうしたものか…
    どうもできないと書いたけど、ひとつできると思っていることがある。
    それはーー

    「『だいじょうぶだ』と思うこと!」

    書いた映画の題名は(邦名)
    「パパ、アイラブユー!」







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    1. 妹よ、コメントありがとう。
      そう、これらの本の作者も指摘しているように、こうした問題は社会の問題だと思う。
      社会の目を気にして誰もが子育てしてる。基準が社会になっている。だけど社会は不安定だし、価値観はすぐ変わる。振り回される。
      だから羽仁もと子やフランク・ロイド・ライトは、社会の価値観に合わせず、絶対的な価値観――真理、宇宙の法則、あるいは父なる神の愛(言い方はいろいろだけど)――を探り当てててそれに沿った教育や建築を提案したのでししょう。
      『だいじょうぶだ』と思うことは、羽仁もと子の言い方をすれば、父なる神の愛を信頼すること、それはつまり、不安定な世間の評価に合わせて子供を(大人なら自分を)育てるのではなくて、それぞれの本来持っているものを一番いい形で伸ばしてあげること、なのでしょうね。

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