『無伴奏』~感情を失くしてしまった私





辛くて長い苦しい翻訳作業の合間の気晴らしにアマゾンプライムで配信されている映画を、二日にわたって観た。『無伴奏』。主演の成海璃子が好きというだけで、何の前情報もなく観た。

それは哀しい映画だった。哀しいはずの、お話し。

観終わって、とても奇妙な感覚に襲われている、涙一つでなかった冷め切っている自分に。見ている間はその世界に浸っている自分がいた。登場人物のだれにでも共感できるとも思った。1969年という、我が国の経済が上向き出して、学生は反体制運動に忙しく、戦後のくびきから離れた、今よりずっと若くて騒々しい日本。平和に慣れ切った多感な女子高生の空虚感を埋める様な、大学生との出会いもうまく描かれていた。

控えめで繊細でミステリアスな大学生は、文学少女の心を一瞬でとらえ、キラキラした恋が始まる。誰にでも経験のある若い新鮮な恋・・・のはずだったが、実は彼には秘密があった・・・

そして悲劇的なラスト。映画の原作者は小池真理子。これは半自伝的小説の映像化とある。なるほど、ということはこのドラマは実際にあったことなのだろう。若いうちにこんな経験をすれば、たしかに彼女は小説家になる運命なのかもしれない。

映画にはテーマがある。この映画のテーマは60年代末期という時代なのか。しかしこの映画の恋愛は時代的要因より、むしり普遍的な気がするのだが。いややっぱりあの時代の恋愛なのだろう。成海璃子扮する響子という女性の、ひたむきな想い。矛盾を感じても裏切られても愛し続ける女の気持ち。そしてその彼女を愛そうとしても愛しきれない男の不器用さ。その背景にあるもう一つの恋愛。

ここまで書いたらネタバレだが、やはりあの時代は男と男が惹かれ合うほど、人間関係も濃かったのかなと思う。誰もが知っている老舗の息子の渉(池松壮亮)と、父親に愛された記憶のない祐之介(斎藤工)がお互いにないものを相手に見つけてしまったのか、学生運動を通じて絆が一層深まったのか。幼馴染だというから、どちらも幸せだったとは言えない家庭環境の中で、互いがかけがえのない救いの存在になったのに違いない。

そんな彼らがそれぞれ異性の恋人を得てから、歯車が狂っていく・・・

今の恋愛関係は、もっと自分本位で、突き詰めたところまで行く前に、あるいは徹底的に傷つけあう前に、自分を守るために別れてしまうような気がする。この響子のように、相手の事情を全部知った上で愛し続けるには、他者への強い理解や共感がなければ成り立たないと思うし、その共感や理解は、落ち着いた家庭環境における読書や詩作という形で育まれたのであって、現在の女子高校生の精神年齢レベルでは無理であろう。日本人はもうこうした、自分の感情を抑えるような、大人の恋愛はできないのかもしれない。

恋愛小説の名手とでもいうべき小池真理子という作家もまた、時代が生んだ作家であり、いずれ読まれなくなってしまうのかもしれない。

ところで昔から同性同士の恋愛はあったのだろう。男同士の友情は女性のそれよりずっと強そうだし、同性だからこそ理解し合い、それがすぎればそこからは恋愛の領域に入ると言えるのかもしれない。繊細な男が感情的な女性を疎ましく思う気持ちも分かる。一方で、男性同士の恋愛はこの頃の日本ではかなり公認されてきていて、ドラマでそうしたカップルが描かれることも珍しくなくなってきた。そこで今回の映画化があったのかもしれない。

なので、おそらく小池真理子の原作は女性視点が強く、映画のほうは矢崎仁司監督による男性目線がはっきり出ているのかもしれない。

タイトルの通りバッハの無伴奏曲が全編を通じて流れていて、静かなトーンとレトロな映像が、苦悩を抱える登場人物たちの抑えた演技を引き立てていた。主役の三人ははまり役だったと思う。

しかし悲しいかな、見ている私の心はどんなまぶしい恋愛のシーンにも悲しい結末にもあまり動くことがなかったのだ。それは映画が悪いのではなくて、私の心もまたいつの間にか瑞々しさを失ってしまったからなのだろう・・・

『キャンディ・キャンディ』という小学生の頃に流行っていたアニメがある。孤児院で育った少女キャンディが様々経験をしながら大人になっていくという、1900年初頭のアメリカを舞台にしたかなりロングランのストーリーで(いがらしゆみこ作)、私はそのテレビ放送を毎週とても楽しみにしていた。漫画の方は『なかよし』という雑誌に載っていて、テレビよりちょっとはやく世に出るのだが、たまたま廃品回収中に私はその古雑誌を見てしまい、キャンディが恋人のテリーと別れるシーンを読んだら、あまりの哀しさで一週間ぐらいご飯が喉を通らなかったことを覚えている。

それからもう少し大きくなって高校生の時に映画『ロミオとジュリエット』を見たときは涙が枯れるくらい泣いたし、『慕情』や『追憶』を見たときにも、胸が張り裂けそうに痛かったのを覚えている。初めて原書で読んだ『マディソン郡の橋』や『さゆり』は、読み終わってからしばらく何日も甘く哀しいムードに襲われていたものだ。

今は、見ている間だけは感情がすこし動き、見終わったらしらばくの余韻があるだけ過ぎない。この映画を見ての一番の感想は、自分の感情がこんなにも薄くなってしまったことが悲しい・・・ということである。今は翻訳で頭がいっぱい過ぎて、感情が特に鈍っているのかもしれないけど・・・





1 件のコメント:

  1. 違うと思うよ、
    なんというかそういうものから卒業してしまったんだよきっと、無意識のうちに。
    今までいた世界にもういない。精神性がかなり高いとこにいっちゃってて ただ心と頭はまだそれを感知していない、というか。

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