ウディ・アレンの映画~ある種のブラック・ユーモア



先のブログに、ウディ・アレンは自然体だと書いたが、その後つらつらいろんなところで彼の映画のシーンやセリフを思い出すたびに、あの自然体の裏には、やっぱり一つの屈折したものがあるような気がしてくる。

『おいしい生活』(2000)にしても『マッチ・ポイント』(2005)にしても、『ブルー・ジャスミン』(2013)にしても、そこに描かれているセレブはいつも不安定なセレブである。ヨーロッパの権威あるセレブに憧れている似非セレブ、あるいは成金の世界。

祖父母がユダヤ人というヨーロッパの中で独特の運命を持つウディが、アメリカという成金セレブの世界で成功しても、しかも映画という人気稼業とも虚業ともいえる世界で成功したところで、何か根本的なことが充たされない・・・それが彼のいう、「子どもの頃の夢が全部かなったのに、なぜか『落伍者』の気分がぬぐえない」ということなのかもしれない。

ある種の諦念に似たという気持ち。社会的に評価されても、「所詮は」という気持ち。これが彼をして、どこかノンシャランというか投げやりというか、自然体な雰囲気を漂わせているのだと思う。そしてそのシニカルさが彼の作品全体に表現されている。成金セレブの虚を哂い、正当セレブの欺瞞を嗤い、それでもセレブになりたい人たちを笑い、似非セレブである自分をわらう、ある種のブラック・ユーモア。

古代エジプト時代に迫害され流浪の民となったユダヤ人。国を持たない民族は知の力で世界を席巻した。ビジネス、アカデミック、アート、いずれの世界でもトップに立つ人が多い。世界の人口の0.2%というユダヤ人が、ノーベル賞受賞者の22%を占めている。こんなに国際的に成功しても、故郷が欲しい、しかし1948年に建国したイスラエルはいまだ紛争状態だ。

2000年近い歴史と国土を共有し、基本的には誰もが同じ日本人で階級も意識されることなく(戦後からとくに)、同じ言語で話し、まったく同じ時間に同じ内容のテレビを見ることができる私たち。政府に不満があったところで、選挙に行かなくても済むくらいの程度の私たち。ここではお笑いが全盛のようだが、ウディの根深いブラック・ユーモアとはだいぶ濃度がちがうみたいだ。




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