図書館で手にした本である、タイトルにひかれた。武田清子著。副題は「日本思想史研究試論」とある。1976年、東京大学出版社発行。
高名なクリスチャンの学者である。今私が曲がりなりにも研究している羽仁もと子とフランク・ロイド・ライトもクリスチャンであり、その信仰は一般的には「異端視」されている・・・が私から見たら「正統」な気がして・・・ちょっと読んでみたら面白かったので、ネットで探して中古本も購入した。実際に読んでみると「正統」と「異端」とは、通常の意味とはちょっとちがう一種の宗教専門用語であった。
でもほとんどの人には興味がないと思われるので、誰かに向けて書くというより、自分の頭の整理のために、この本の感想を書いてみようと思う。
冒頭から、ガツンとやられた。羽仁もと子とライトには思想と呼べるものがあるし、それが私には面白くていろいろと読んでいるのだが、そのほかにも、思想的に魅力のある賢人ともいうべき人たちがいて、それは古今東西、私にとっては何か共通したことを言っているような気がしていたのだが。そして、あえてそれを言うならば、人間を超えた存在(神、大自然、宇宙の法則などなど)にたどり着き、そこから人生観や社会観を確立した人たちが、それぞれの信じる方法で権威や常識にとらわれない形で社会改造や人間救済に向けた取り組みやメッセージを送っている・・・というイメージがあったのだが。
私としては、国や時代を超えて、彼らの思想あるいは信仰に共通点があることが重要な気がしていたし、だからこそそれを真理と呼びたいと思っているし、それはキリスト教の聖書や仏教やヨーガの経典にも共通しているものだと感じていたが、アメリカの大学の神学部で勉強し、戦争を海外で体験し、ICUその他で教鞭をとり、今年100歳という年齢にもかかわらず、貴重なオピニオンリーダーとしてマスコミに登場する彼女にしてみれば、私の認識はじつに生ぬるいものなのである。
ちなみに彼女の代表作のひとつに、『天皇観の相剋―1945年前後―』(1978年岩波書店)があるが、天皇制や戦後に制定された日本国憲法を、海外の資料から検証し直すという彼女ならではの立場と視点から、それらの正当性や意味を問うものである。
1917(大正6)年に伊丹市郊外の大地主の家に生まれ、親鸞の教えに帰依する母の影響をつけつつ、神戸女学院にてキリスト教信仰を深める。1942年に戦時交換船で、留学先のアメリカから帰国する際、生涯のテーマを「キリスト教思想と日本の伝統的思想(神観、人間観、歴史観、社会観)がどのような対話、相剋を展開するかを思想史の課題とする」と定め、戦後、そのテーマを一貫して追究するなかで『人間観の相剋―近代日本の思想とキリスト教』(1959年、弘文堂)、『天皇観の相剋―1945年前後―』(1978年、岩波書店)など、比較文化的、比較思想的な数々の作品を残してきた。(武田氏について、とあるHPからの要約)
さて、キリスト教と言っても、いろいろある。ライトは生涯に5つの教会を作ったがどれも違う宗派である。神社とお寺を混合している日本人も少なくないから、キリスト教の宗派の違いにほとんどの人は関心がないかもしれないが、クリスチャンにしてみれば、宗派の違いは、ときに宗教の違い以上に神経質な問題である。もっともメジャーなカトリックとプロテスタントの中にだっていくつもの教派があるのだ。ちなみにニコライ堂として知られる神田の教会の宗派はハリストス正教である。
いま遠藤周作原作の『沈黙』という映画が話題だが、我が国の近代化によって弾圧されていたキリスト教が正式に解禁されたのは明治6年である。布教の解禁を見込んで世界中の宣教師たちがすでに学校を創設している。いわゆるミッションスクールである。私立の名門と呼ばれる学校は全国に何百もあるだろう。結果的に見れば、現在の日本人のキリスト教徒の数は全体の1%にも満たないから、お受験の進学校としては成功したけれど、ミッションは失敗したと言えるかもしれない。
なんだか話がそれてゆくが、とにかく武田氏の背骨はキリスト教信仰であり、母親の影響から他力道の浄土真宗等にも関心が高く、今回私が取り上げた本は、外来思想と土着思想の結合というものについて書かれているわけだが、そのなかで、多くの日本の思想家が、本当のキリスト教の精神に照らし合わせて、生ぬるいと「断罪」されているのである。夏目漱石、森鴎外といった文豪の悟りも、クリスチャンだった木下尚江、相馬黒光、宮崎滔天、柳宗悦らもまた。
それだけ、真のキリスト信仰の教義が人をして神の前ではのっぴきならない状況に追い込まれるというか、「原罪」というものの自覚を迫られるものであるということなのだろう。と同時に、その自覚が明確であれば、逆に神という絶対的超越的権威の前においては、人はみな平等且つ自主性が保証されているという、真の意味での救済につながるのだろう。
しかし、実は「断罪」というのは冗談で、武田氏はむしろそうした明治の活動家たちが、キリスト教を通して得た価値観・・・「普遍主義的な思想的立場」が彼らの日本人として培ってきた土着の、あるいは生立ち等の環境による価値観と融合して、そこから新たな伝統的革新の可能性を探るものでもあった。
こうした融合思想の代表が、儒教的実学を西洋の実証主義、実験主義、科学の実学にトランスフォームした福沢諭吉、二つのJ「Jesus」と「Japan」によって新しい日本のあり方を提示した内村鑑三、武士道の修養の中にキリストの見えざる神を「良心」として祭り、自主の人間を目指した新渡戸稲造、普通の百姓「常民」の伝統の中に批判眼と普遍的概念を見出した柳田国男、「凡夫成仏」こそが「民芸美」を生み出す鍵と見た柳宗悦、『夕鶴』という民話に、自己本位のエゴイズムというキリスト教で言う人間の現在的現実を照らし出した木下順二であるという。
私が最も興味を惹かれるところの「自己超越」に関しては――
人間が何ものかを相手に対話しようという根本的な動機は、自己の存在の意味を問い、自己の存在の最後のよりどころというか、意味の根源、究極の答えを求めようとするからだ。自己を対象化し、あるいは自己の限界を超えて自己の存在の意味を問い求めることのできる自由こそ、人間の本質であると同時に、その自由は、自己の限界内に満足することができず、その限界のかなたに己が存在の意味を探し求めなくてはならないところの、充たされない人間精神の独自性を意味するものだと言えよう。
うん、うん、それはよくわかる。
「自己超越」ということは、そうした人間精神に普遍的な「永遠」また「絶対」なるものへの渇望に根を持っているように思える。(もっともその答えをどこに発見するかによって「自己」なるものの本質は決定されるのであるが)。
「自己」なるのものの本質が決定される・・・それはちょっと怖い。
キリスト教で言うところの絶対的自己超越――絶対的、人格的他者としての神(God)による絶対的自己否定を通して自己肯定に到達するという意味での自己超越。それに比べると多く日本人の超越は、人間の主体的、心理的操作によるもの、いわば相対的自己超越である。
これに私はガツンと来たわけだ。所詮私は自分の都合に合わせた超越を試みているに過ぎないんだと…つまり相対的自己超越。
彼女はこの自己超越の対象を物、人、神にわけて論じている。
信仰の対象が非人格的な「物」である場合、それに自己帰投する人間の本質も対象と同じ「物」であり、そこには「自我」ないし主体の確立の可能性は存在しない。
例として国家主義に自分をささげる、戦時中に見られた自己超越などを挙げている。そして「人」対象の自己超越としては――
多元主義的価値観による自己超越の操作、無原則のプラグマティズム、東洋的消極的自由、無意識・意識的に操作されたところの無執着の自己超越。あきらめに似ているが自己肯定の中で現状の拘束を超越して、そこから自由な心理的精神的態度を生み出しているもの。
――として、西行の出家による自然美への投入と一体化という自己超越、所詮人間はうじ虫程度の存在なのだからという諦観を元にして何も恐れず淡々と生きていこうという無執着を唱えた福沢諭吉、「則天私去」という観念で、宗教的自己超越に接近しながら普遍的大我による小我の超越を目指した夏目漱石、「かのように」を尊敬する立場をとって自己と社会との衝突によって自己の挫折を防ごうという態度をとった森鴎外を見る。
これらに対して「神」を対象にする自己超越とは――
神に知られ、神に愛され、神の意志にしたがうことによって自分自身を発見するという信仰に基づく人間理解。キリスト教では自己超越の契機が人間を絶対的に超越した人格即ち唯一絶対の「神」であり、それが他の外的規範と対照するとき、人間の自立性、理性的働きは否定されるのでなく、むしろ人間の自律性の意味を与え、目的を与えるものである。
私の抱く汎神論的な自己超越は生ぬるいということであろう。しかし、ライトと羽仁もと子に関しては、おそらく、真の自己超越の域にいっているのではないかと思われる。たとえば――
人間の理性、人間の創造性は人間の生存に究極の意味を与える神の働きを有限的な文化の領域、歴史の現実の中に表現し、実現する。
などというくだりは、まさに神のなすべきことの手助けをするとして建築や教育にあたった両者そのものの生き方だからだ。このほか、キリスト教の正統的思想と思われる考え方を抜粋して以下に記す。
ー絶対超越者としての神の前に立つ罪人としての人間の、キリストの十字架による贖罪(とりなし)の救いが問題になるのがキリスト教人間観である。
ー精神的雑居性は原理的に拒否する。(つまりキリスト以外は信じないということか)
ーキリスト教信者の在り方は殉教を至上命令とする信仰観
ー罪人としての人間の弱さ、挫折の現実においてこそキリストの十字架の贖罪の愛による救いが祈り求められる。
ープロテスタントは伝統主義的価値観を変革する新しいエトスをもって開拓的働きをする。
ーキリスト教人間観における人間の自由は破壊的要素と創造的要素との両方の可能性の相克を内包させており、そのダイナミックな現実こそ「罪」(自己中心的人間悪)の場があると共に、その悪の認識と克服こそが人間にとっての真の「自由」の課題である。その問題こそがキリスト教が人間に問いかける基本的な課題なのである。キリスト者がこの問題にどのような答えをなすかが重要である。
ーキリスト教は、キリスト教個人、あるいは集団としての教会は、常に意図せずして足を踏み外して、「異端」に陥る危険、あるいは正統の座にあるとの安心が伝統の固定化、形骸化としての形式の固執となり、福音のいきいきとした「メッセージ」を見失う危険をはらんでいる。常に罪に染まった自らの宗教的、文化的、社会的形態にプロテストして、より真実にキリスト者たる在り方を追求してゆくことに、歴史の中にあるキリスト教の基本的課題がある。その問題を放棄してはならない。
プロテスタントという言葉の意味がやっと分かった。神という超越者のもとでの人間の絶対的平等性とそこから生まれる各人の個性の自由の尊重。権威は神にしか属さないが故の個性的創造的主体性が保証されるというわけか。そういう意味では武田氏が天皇制に異議を唱えるのも納得がいく。
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