(2016年4月21日記)
価値観の違いが面白いという意味で、同じ題材を扱った二つの映画を比較してみたい。
ひとつは1982年の『ザ・レイプ』という衝撃的なタイトルの作品。落合恵子原作、田中裕子主演。
もう一つは2013年の『さよなら渓谷』で、吉田修一原作、真木ようこ主演。
どちらも私は原作を読んでいないのであくまでも映画の中で描かれる主人公の比較である。どちらの主演女優も名演であると思う。当時の田中裕子の魅力が最大限に活かされているし、今の老け姿から想像できないけど、ロングヘアーで颯爽としている彼女は、当時「いい女」の代表だった。しかも原作は落合恵子である。新しい女性像を生き生きと描き出し、フェミニズムというような肩肘の張った感じでもなく、軽やかにしなやかに自分の意思を持ったかっこいい女だ。
こんな女性が、風間杜夫扮する恋人とのデートの帰り、顔見知りの自動車ディーラーの男にレイプされる。ようやく家にたどり着き、電話でただならぬ雰囲気を察した恋人が尋ねてくる。彼に事情を話したあと、「あなたも私も明日は仕事があるのだから、もう帰って」というのである。
もちろん彼女は傷ついている。恋人が気にしないと言ってくれても、拭い去れない心の傷は残る。しかし、あえて彼女は裁判という手段に訴える。何も得るものはない、より傷つくだけだと恋人に諭されても、「自分がどこまで強いか試してみたいの」と言う。
裁判はひどいものだった。恋人が傍聴するなかで、彼女の過去の恋愛が暴かれ、不利な方向に持っていかれる。昔の不倫相手が登場し、恋人との間も危うくなる。
それでも彼女は闘い続け、ついには勝訴する。そして「女とたった一発やっただけで5年の刑務所なんて気の毒ね」と言い放つ。彼女の人格をぼろぼろに攻撃した弁護士に向かっては、「いろいろ勉強になりました」と頭を下げる。さらに、献身的に支えてくれた恋人に別れを告げる。「こんなことがなかったら僕たち幸せだったよね」という彼に、背中を向けて立ち去るのだ、振り返ることもなく。
最後は彼女が自宅でシャワーを浴びながら、過去を洗い流し、新しく再出発するという予感の中で映画が終わる。グラマーとはいえない裸を堂々とさらして、すがすがしい田中裕子であった。
さて、近作のほうは、まったくトーンが違う。
高校生のとき、大学野球部員4人の男に囲まれてレイプされた主人公、かの子。その後、事件をきっかけに両親は離婚、大学に進学するものの、就職先で知り合った恋人の親に調べられ強姦された過去が明るみに出たことで、結婚話が破断する。転職後の職場で出会った人と結婚するが、事件のことを蒸し返されて精神的かつ肉体的に暴力を受け、自殺を繰り返す。
レイプ犯の主犯とされた男は、たまたまかの子に出会い、その不幸な生き様に対し、贖罪の念に駆られる。そして証券会社の仕事も恋人も捨てて、彼女を守ることを決意。「私より不幸にならないと許さない」という彼女に、「死ねと言われたら、死ぬから」と言い、ふたりは渓谷のある町で一緒に暮らし始める。
そんな不幸な出会いが、いつしか普通の夫婦の静かな日常に変っていきそうなところへ、事件が起きる。隣の家の子どもが殺されたのだ。間もなくその子どもの母親が殺人罪で逮捕される。
そして、かの子は、その殺人犯と自分の夫との間に関係があったと警察に通告する。夫は連行され、強制的に自白に追い込まれる。
この事件を追いかけるさえない週刊誌ライターの男とそのアシスタントのような女性が要になって、かの子と、かつて彼女をレイプした夫の過去を暴きだすというのが映画のストーリー展開になっている。
最後にかの子は夫は殺人犯の女とは関係がなかったと自供を覆し、それが殺人犯によっても実証されたため、夫は釈放される。
いってみれば、「自分より不幸になってほしい」と思った男に仕返しをしたのだろうが、もうとうに許していたわけだ。それでも本当の夫婦になることは出来ないと思ったかの子は、渓谷を後にする。
ラストシーンで、夫は、週刊誌ライターにいう。「ふたりは幸せになるために一緒になったんじゃない。それなのに幸せになりそうだったから、彼女は出て行ったのだ。しかし私はいつかきっと彼女を探し出す」と。
まあ、なんてややこしい話だ。この話は実話を基にしているらしいのだが、どこまでそうなのか分からない。また吉田修一の原作がどこまで反映しているのかも分からない。
二つの映画で同じ被害にあった女性の描かれ方のなんという違い。
前者の路子は裁判で迷惑をかけないように出版社の仕事を辞めようとするが、経営者からこう言われる。「事件のことは知っていたよ。だけど君は有能だし辞めて欲しくない。いつでも戻ってくるように。それに僕は君に惚れていたんだよ、知ってただろう?」
恋に仕事に生きてきた路子は、抵抗したが無理やり強姦されている。一方女子高生だったかの子は自分から危ない罠にはまったともいえる形のレイプだった。一緒にいた女子高生が、自分をおいて逃げていったという設定になっており、その裏切った友達の名である「かの子」を自分の新しい名前にしている(本名は夏美)。なんという屈折。
路子は犯人とその悪辣弁護士と堂々と戦い、自分の過去の恋愛に対しても後悔などしていない。かの子は事件後複数の男に裏切られ、最後は犯人と結婚し、「幸せになりそうだったから」彼の元を逃げ出す。
落合恵子が描いたのは、自立した女性の強さだ。自信を持って魅力的に生きる女性は無敵なのだ。レイプ犯にも弁護士にも負けないし、優しい恋人の情にもおぼれない。すごい。自分の運命を切り開いている。
一方後者の女性は、自分で不幸の道を無自覚に選んでいる。自分を不幸にすることでしか生きいけないかのようだ。それなのにすべてを人のせいにしている。
30年前に描かれた新しい女性が、どうしてこんなに不幸になってしまったか。社会が女を幸せにしてこなかったことも確からしい。家族の存在というものも微妙である。路子は母親に自分の事件について何も話さないが、一方かの子はそれをきっかけに父に嫌悪されたり、恋人の親が干渉してきて婚約をだめにしたり、と彼女の不幸に追い討ちをかける。
前者では登場人物がどれも独立していて自分の考えで行動しているし、お互いのかかわり方もさばさばしている。一方、後者の映画の登場人物は、自分に確固たる軸がなくて周りに振り回されていて、それがかえって他者を、ひいては自分を深く傷つけている。
落合さんたちの世代から見たら、今の婚活に翻弄され、モテ服を着ている「大人カワイイ女子」というブームは、さぞむなしく映ることだろうな。
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