ちょっと前に書いたものだが、最近著者から再三のメールがあり、かつての新京、現長春を訪問された時のスライドショーなどを送っていただいたので、彼の満州シリーズ第一弾の感想を転記する。
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(2013年10月11日記)
私の元上司、松岡將(ススム)氏による大著『松岡二十世とその時代』を読み終えた。850ページ。あとがきに、父の生涯とその死を綿密に追跡したこの一冊を、母の墓前に供えられるとの安堵の気持ちが綴られている。松岡氏が十年もの歳月をこの著作にかけたのは、母への供養のためといっても過言ではあるまい。「父が彼女と子供達にして呉れたのは、物質面で見る限りは、満洲での一家そろっての数年間」という環境において、著者は母親と苦労を分かち合いながら育ったのである。
母よい子は北海道の一農村の娘とはいえ、もとは新潟から新天地を求めて土地を開いた進取の家系を持ち、この石田家のリーダーシップがあっての、世に知られた昭和二年秋の樺戸郡月形村小作争議であった。彼女の父と弟たちの活躍は文中に詳しいが、よい子も農村女性のリーダーとして自ら地主の家に乗り込んで戦い、あらぬ公務執行妨害・傷害容疑で検挙されるなど、中央にいたらどんな女性解放運動家になっていただろうかと思わせる。
その彼女が帝大出の農民運動の指導者として月形村にやって来た二十世と出会い、わずかひと月あまりで結婚するというロマンスには、胸がときめかずにはいられない。二十世の職場である日本農民組合北海道聯合会の幹部が発起人となって開かれた「会費制結婚祝賀会」の案内状には――
「松岡二十世君と石田よい子さんとの間に結婚談が持ち上がったのは月形爭議の起こった頃からでした。爭議の先鋭化はこの爭議に花形として活躍した輝ける指導者松岡君と男子を奮い立たせた程の勇敢な婦人部の石田嬢との恋愛関係を発展せしめないではおかなかった。今や月形爭議は有利に解決されんとしてゐる際、爭議に咲いた二人の恋愛は、必然に結婚へと転化して有終の美を結ぶべきである。」
かくして宮城県北の、小藩とはいえ登米(トヨマ)藩の祐筆を代々務めた松岡家の三男は、親の同意も得ずに北海道の農村の娘と結婚した。悲しいことにふたりの生活は、旭川共産党事件(三・一五事件)による二十世の網走投獄やその後の東京、大陸での単身赴任、よい子の病気療養などによって絶えず分断され、平穏な時期は、太平洋戦争中の新京における数年しかなかった。しかし二十世が治安維持法違反の前歴を持ちながら、年を追っての戦況悪化に伴うあの厳しい時代に、おのれを生かす職場を求めることができたのも、妻、母、同志としての資質にすぐれたよい子の存在があったからに違いない。
実際、彼女は夫や夫の家族の代わりに家計を支えるべく、お針子縫いから郵便局勤務、露店での小間物商(幼い將氏を連れて!)と、常に働き続けていた。「今日は今日でも明けぬ夜はなく明日は明日、寝るより楽がこの世にあろか」という彼女の口癖は、知らずとキリストの教えに通じていた、と將氏は述懐している。
当時、キリスト教も、共産主義も、そのミクスチャーのようなトルストイ運動も、日本風に解釈やアレンジをされて広まっていたが、いずれもエリートが国家的視野から理想社会の建設に身を投じていく際の精神的支柱として、きわめて大きな役割を果たしていた。こうしたエリートと内助の功が、現在放映中の大河ドラマの新島襄と妻八重のように、二十世とよい子の関係にも結実していたのである。
さて、この大著から、昭和四十二年生まれで、「戦後」すら知らない私が学んだことは数多い。共産党員の検挙という歴史的大事件については、二十世をはじめ多くの関係者の事例が詳述されており、かなりリアルに知ることができた。この時期に有能な「思想的反体制者」を牢獄に繋いだことは、法の悪用あるいは国家思想統一上の必要悪だったというには、あまりにも惜しい国家的知性の損失であったと思う。
ちなみに日本の「國體」という言葉が初めて定義されたのは、旭川共産党事件(大審院上告審での治安維持法違反判決文)である。天皇は、「國體の維持」と「國體の精華を発揚」のためにポツダム宣言を受け入れたのであり(玉音放送)、約一年後に制定された新憲法をめぐる論議や質疑も「國體」ありかたが中心だったという。こうしたあいまいな「國體」のもとで、あるいはそうだったからこそ、この小さな発展途上の国をして、貴重なエリートたちを台湾、朝鮮、満洲へ派遣し、戦力では絶対的に劣る列強に宣戦布告し、南洋諸島にまで進出した無謀さもその失敗も、振り返れば当然の因果応報といえるのだろう。
本書では時代と戦況を説明するのに多くの軍歌を引用しているので、私は、逐一、YouTubeで聴いてみた。それらの歌詞と映像は、戦争を肌で知らない私に、当時の切迫した空気を如実に感じさせる。露営の歌、麦と兵隊、愛国の花、満洲国国歌、大東亜決戦の歌、アッツ島決戦勇士顕彰国民歌……そして私は軍歌の世界観である「生きて還らじ」の精神に圧倒された。エリート層のみならず、国民の多くが「お国のため」というマインドになれた強さは、逆に個人の判断を狂わせることになったが、遠くの島で同胞の勇士が血戦中と聴けば、誰しもそのように自分を納得させるほかなかったとも言える。
東洋的理想国家を目指した満洲国に、二十世自身は、「お国のため」を超えて「世のため人のため」に赴いたのであろう。しかし「王道楽土」の現実は、「前歴者」の二十世にとってさらなる苦難の連続であった。彼の高邁な精神と能力を発揮するには時代が悪すぎたというほかはない。在シベリア日本人抑留者向けの「日本新聞」に寄せた二十世の長歌を読むと胸が詰まる。
………こゝにして わがあれ國に もひと度 湧きおこりつる ひやくしようの もろ聲聞こゆ 土地よこせ 米うばうなと 浦々に みちてあふるる もの聲に まことをこめて………
反歌 きみがやに むしろにいねて かたらいし ひやくしようのよきひ すでにくるべし
学生時代にフリードリッヒ・エンゲルス著『ドイツ農民戰爭』を翻訳して以来、農民運動指導者として人民の立場からの理想郷建設に思いを馳せて生きてきた二十世が、家族に最後に残した言葉は、「社会主義国家の現実をこの目で見てくるから、なにも心配することはない」であった。
それから五十年足らずでソ連は崩壊し、我が国の農村も崩壊し始めている。日本はわずか一世代で飽食の経済大国となった。しかし本書に描かれている一人の男の生きた時代の出来事が、戦争を含めすべて因果と応報で成り立っているように、一層国際化された現代の私たちもまた、この先すべからく因果と応報の結果に甘んじなければなるまい。二十世が生きたのは確かに激動の時代であった。発展途上の段階で国土が膨張し、エリートの間でも様々な主義主張が錯綜し、国家としての統率が取れずに多くの犠牲者を出し、戦況を悪化させたのはまことに残念だが、しかし当時のリーダーたちには、武士の時代から続く知性と教養と、国や理想に殉ずる気概があった。戦後の復興を成し遂げるだけの気力があった。しかし、この先はどうなるのだろう。
直接的な戦争体験がない私たちは、右からも左からも解放された新しいな視点をもって客観的で公正な歴史観を築くことから始めたい。それには一部の意見を鵜呑みにしたり、近視的なマスコミに扇動されたりせず、自ら見て聞いて読んで歩いて、国際的かつ通史的な勉強を積み重ねていくしかない。六十余もの国が参戦した先の世界大戦は、その歴史的経緯もまたあまりに複雑で、一様に結論付けることは不可能だ。立場が違えば、竹島・尖閣諸島の領有権問題も慰安婦問題も沖縄米軍基地問題も、いかような解釈も成り立つのである。そもそも政治と個人の感情を同じ文脈で論じることはできない。どんなに想像を逞しくしても、例えば明日にでもソ連軍戦車隊が攻めこんでくるかもしれないという在満邦人の恐怖を実感できないし、また理想と現実のギャップに不本意な選択を取るしかなかった為政者の苦悩を知ることはできない。
歴史を知るということは、それによって過去や現在を裁くことではない。私たち世代が彼らのトラウマに触れる権利はないはずだ。大切なのは、同じ過ちを犯さないために、そのような不幸な事態を引き起こした因果関係を多角的かつ大局的に学ぶことである。それは直接的な戦争経験がないからこそ可能なのであり、数知れぬ幾多の犠牲者の上に築かれた平和の時代に生きている私たち世代の義務でもあろう。
時代に翻弄されつつ真摯に生きた一人の男についての史実を大量の資料と冷静な分析によってまとめたこの大著が、こうした公正な歴史観をはぐくむための一助になることは間違いない。
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