『時代を生きた女たち』~宝石箱のような一冊





この本はまるで宝石箱だと思った。35個の輝くアンティーク・ジュエリーが入っている。どれも全部違って個性的なデザインの。

私は時々美しく老いている人―男でも女でも―を見て、芸術品だなと思うときがある。その人が一生をかけて作り上げてきた人格や外見。生い立ちもその後の経験も含めて、全部がその人の表情や姿勢や立ち振る舞いや考え方を作り上げる。いい加減に生きて来たのでは作りえない気品や自信が表に現れている。

有名人であるなしに関係なく、あるいは時には年が若くても、幼少期から数十年の間でも日々培ったものがあれば、どことなく芸術的な人もいる。そういう人が年を重ねると、それこそいぶし銀のような魅力になるのだろう。そして、それがお似合いの夫婦だったとしたら、それは二人の個性がまじりあって支え合う本当に素敵な芸術的カップルだ。

実際そんな風に思わせてくれる人は少ないのだけど…ましてや宝石になるほどに原石を磨くことは難しい。

この本に出てくる35人の女性たちは、いずれも輝くばかりの才能を発揮した人たち…有名なところで、大山捨松、人見絹江、岡本かの子、小森和子、皇女和宮、沢村貞子、与謝野晶子、長谷川町子など…時代もジャンルもいろいろの、作者の植松三十里さんがほぼご自分で選んだ対象の一代記を、化粧品メーカーの月刊誌に連載してきたものであり、それが一冊にまとまっているのだが、こんなに様々な人の人生を書いてしまう植松さんの守備範囲がまずすごい!

私の全然知らなかった人も多い―茶貿易で財を成した大浦お慶、明治の天才マジシャン松旭斎天勝、輪島塗の名工天野わかの、女性初のパイロット兵頭精、アイヌの天才少女知里幸恵、『里見八犬伝』を口述筆記した滝沢路、富士山頂で気象観測をした野中千代子など、半分近くは名前も知らなかったり、聞いたことはあってもよく知らない人だった。明治期に東北地方を旅したイザベラ・バードやハワイ王朝最後の王女プリンセス・カイウラニなど、日本にゆかりのある外国人も紹介されている。

へ~、こんなえらい女性がいたんだ、と驚かされる。一人一人の密度の濃い人生が、生い立ちから死ぬまでにわたって、じつに分かりやすくまとめられているので、あっさり気軽に読めてしまう。とくに興味を持った人物がいたら、評伝や自伝を呼んでほしいと、植松さんも書いている。

「この中にあなたの目指す女性がきっといる」と表紙に書かれているが、敢えて考えてみると、みんなすごすぎて、私のような凡人には目指せそうにない…そういう人は、「十年寝太郎」でもいいから、流されてもいいから、平凡な日常を生きていればいつか花が開く、晩年に活躍した人も多いのだから、と作者はあとがきに書いている。

私の世代(1967年生まれ)は、進学したかったけどできなかった、離婚したかったけど経済力がなかったという母親が多かったり、男女の機会が均等化されてきた時代だったので、大学に進学して就職させてもらうのがわりと当たり前で、結婚や出産は、社会に出てやるだけやってみてから考える、という風潮が強かった。たぶん同級生の半数近くは結婚していないかもしれない。結婚しても子供がいなかったり、離婚した人も多い。つまり家庭的であることはあまり尊重されていない時代の申し子だ。

では結婚や出産をせずに、あるいはそうしたところで仕事を優先して、この本にある女性たちのように、自分の人生を投げうってまで、大義や人や家族のために、あるいは社会のために生きたかというと、それはない。自分のために、という感じが一番しっくりくる。

う~ん、この違いは何だろう。時代なのだろうか。少なくともここに出てくる35人の女性は(太宰治と心中した山崎富栄や坂本龍馬の妻の楢崎お龍など、社会的に活躍しなくてもそれなりの男性を支えた女たちも)、出自が普通ではない。資産家か家柄がとてもいいー家老の家とか、将軍の孫とか、議員とか、さもなければ、親が天才ピアニストとか漢学者とか。そういう社会的地位の高い家に生まれて、教養のある親や親せきに育てられて、選ばれた人間であることを早い時期から自覚していたのではないだろうか。

私は子どもの頃『偉人の話』という本が好きで、そこに出てくる人たちに憧れていた。たしかフランクリン、キュリー夫人、画家のミレー、良寛さま、豊田佐吉などが出てくる本だった。その人たちの滅私奉公の生き方にえらく感動していた私は、大きくなったら「偉人」になりたいと、本気で思っていた。今でもどこかにそういう気持ちはあって、せっかく生きているのだから、そして子供もいないのだから、何か社会的に役立つことに人生を使いたいとは思うのだけど、現実はどうもままならない。

だいたい親が普通である。農家に生まれた父は(おおもとは武士の家らしいが)、とにかくお百姓さんより楽な仕事をしたいと工業系の学校に進学し、メーカーに勤務したのち脱サラして商売をした。母は21歳で結婚して、商売は忙しく、二人とも高邁な志を持っていたわけでもないし、ましてや子供を「偉人」に育てるなんて考えもしなかったであろう。

働き者で明るくて真面目でやさしくて、とてもいい親である。でもそこからやっぱり鷹は生まれないのだろう。私は本が大好きな子供だったが、親は本を読むより家の手伝いをさせたがった。こうして適度な田舎で育った私は、のんびりと欲もなく、欲もないから向上もしない代わりに敵も作らず、なんとなく平和に生きてきた。もちろんそれなりに勉強や仕事の苦労はしたけれども、この本に出てくるような壮絶な体験はない。人生はスタートから決まっちゃっているのかな。

もし私が大山捨松のように、会津藩の家老の家に生まれて、戊辰戦争で城に立てこもり、目の前で家族を殺されて、北海道で凍死か餓死しそうになって、フランス人宣教師の家に預けられて、親の希望でアメリカに留学させられたら、そしてそこからは自分の努力だけど、祖国の人たちの希望を背負って一生懸命勉強して、世界を見て日本に帰ってきたら、私もきっと女子教育をしようと思ったかもしれない、津田梅子のような同志がいたら。そして大山巌のようなフランス留学をした陸軍大臣のプロポーズを受けたら、彼と結婚して、鹿鳴館で国際外交を果たそうと思うかもしれない。

あるいは、山崎豊栄のように、裕福で教養ある家庭に育ち、親の事業を継ぐ立場にあったら、私だってそれなりに頑張るだろう。そこにハンサムで今を時めく太宰治がやって来て、「死ぬ気で恋をしてみないか」と言われたら…彼がほかの女との間に子供を持っても、彼のために貢ぐし、心中してくれと言われたら、してしまうかもしれないな。

私がどうのという前に、生い立ちから人生はある程度決まっているのだろう。

だけど中には共感できない人物もいる。与謝野晶子に生まれていたらどうだったのだろう。彼女も同様に、資産家の教養ある家系である。私がそのように生まれ、文才に長けていたら、やはり与謝野鉄幹の才能と男ぶりに惚れただろう。そして彼が次々女性を作ったら…この時代、私でも離婚はしないかな…だけど11人も子供を産むなんて…いくら産児制限ができない時代でも…よっぽど鉄幹を愛していたのだろう。しかも鉄幹がパリへ渡るとなると、その子供たちを妹に預けて、パリへ行ってしまうなんて。育てられずに里子に出すほどの数の子供を産んだり、何度裏切られても夫を愛し続けたり―これはちょっと共感するには難しすぎるシチュエーションだ。そんなに多くの子供を妹に預けちゃうというのもすごい。これは晶子が常人じゃないというより、時代もあるだろう。そのくらい子供がいるのは珍しくないし、ほかの女性の例にあるような、戦争や病気で夫や子供が次々死んでしまうというケースもよくあったことなのだろう。

というわけで、立場の違いというより、時代の違いが、彼女たちへの共感や理解を阻むことになる。それから、知的障害児の施設を創った石井筆子や二千人もの日米混血児を救った澤田美喜などは、おそらくキリスト教信仰がベースにあっての偉業だと思う。日本の教会の父と言われた植村正久が「自分を犠牲にしてまでしての善事は、自分を本尊にしてはなしえない。神を戴いてこそ、自分を超える力が発揮される」と言っているが、この二人の女性などは、まさにその通りに生きたと言える。自分を犠牲にしても取り組みたい大義、そのための努力や勇気は、個人の中から出てくるものではないだろう。私にはそこまでの信仰心がない…

最初に彼女たちの人生を宝石に例えたが、その美しく輝く人生は、いずれも原石が磨かれてみがかれてできたものだ。尋常でない苦労や哀しみや努力によって磨かれたものである。教養ある家柄に生まれ、社会的な意識の高い素地ができたところへ、没落して貧乏になったり、戦争で負けたり、親が死んだりと、必然的に苦労を強いられる。その苦労が深い信仰に導かれることもある。今の世の中は、原石を磨くような苦労や哀しみが存在しない。

そのくせ、一人の子供を育てるだけでもたいへんという、なぜだか自分のことでいっぱいいっぱいのゆとりのない女性ばかりになった。あるいは社会の何に役立っているのか分からない会社で身を粉にして働く女性ばかりになった。この本にある女性のように、勇気やオリジナリティを発揮することより、そつのない社員、そつのない妻、そつのない嫁、そつのない母親―こうした役割を果たすことが一番だと思わされて生きている。それは今も昔も同じかもしれないけど。

今の世の中で一番成功している女性って誰だろう?女性の政界進出が目立つ。イギリスもドイツも女性が首相だし、アメリカでもフランスでも大統領候補は女性だった。日本でも小池さんをはじめ知事に女性が増えて来たし、女性党首や大臣も珍しくなくなった。一方で、「イクメン」などという言葉があるように、仕事も子育ても男女が協力して行うことがだんだん当たり前になってきている。つまり昔に比べて女性の社会的に活躍できる時代になったのだろう。それは、この本にあるような、女性たちの苦闘の歴史によって徐々に実現したのだろう。今や、女性だから、とか、女性ならでは、という言い方も古いのかもしれない(今回は女性の本を書いた女性の植松さんも、男性を主人公にした硬派な歴史小説をたくさんものにしているし…)。

時代が人を創る。そういう意味では、現在のヒロインは、断捨離の提唱者のやましたひでこさんや、ときめきの片付けの近藤麻理恵さん、ミニマリズムに火をつけたゆるりまいさんなどが、大量なモノに溺れそうになりながら捨てることのできない現代人の救世主といえるかもしれない。彼らの活動は確実に社会の役に立っていると思う。

AKBなどのアイドルたちは、オタクとか草食系というような新しいタイプの男性の救世主といえるかもしれない。相当の経済効果は生み出している、少なくとも…


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35個のアンティーク・ジュエリーの入った箱のような本を閉じて、私は思う。凡人の親を持ち、のんびりした時代の田舎育ちの私には、どうしたって時代の急流についていけそうにない。でも流れに棹さして、十年寝太郎をきめ込んでいれば、いつかきっと何かの機会に人さまのお役に立てるかもしれない。有事に役立つときに備えて、平和な時は寝ていよう、そのまま平和ならそれはそれで…

そして、毎日を淡々と生きていても、心がけさえ悪くなければ、それはそれなりに素敵な作品になるでしょう。いぶし銀のような、素敵な皺のあるおばあさんになれるといいのだけど、とりあえずは、ジーンズが似合ってギターのうまいおばあさんを目指している。




『ネグレクト』&『「子供を殺してください」という親たち』、そして羽仁もと子②

前回の続き

インパクトあるタイトルだなあ


作者の押川剛さんは、問題児の親や兄弟から依頼され、当人を説得し精神病院に入院させたり、自分の施設で保護監督するという仕事をしている。そして、その子を含む家族を物理的精神的にケアしながら医療関係者や雇用者とつないで、暴力等の再発を抑えようとされている。

しかしまあ、こんなに難しい仕事もないわね。親たちから「子供を殺してください」といわれるような仕事だなんて。こんな仕事、世界のほかのところにあるのだろうか。ヒットマンならいるだろうが。

もしかしたら、これは日本固有の仕事かもしれない。というのは、親の命が脅かされるほどの状態に子供がなってしまったのには、日本独特の世間体を気にする体質がありそうだからだ。こうした親はたいてい世間体を気にするだけのエリートである。普通の家だったらそこまで気にしないかもしれないけど、家柄がよく一族みな高学歴の家では、子供に大きなプレッシャーがかかる。子供は勉強ができて当たり前で親を喜ばせようと一生懸命だ。兄弟の全員が勉強が得意というわけではないのに、常に出来にいい方と比べられる。

そういう子供は高校生や大学生ぐらいまではなんとか頑張っても、受験や就職の失敗で、一気に爆発してしまうのだ。学校へ行かなくなる、会社へ行かなくなる。でもそういう家庭たいてい裕福なので、生活には困らないし、うっぷんを解消するための浪費も支えられる、そのことが事態を一層悪化させる。

しかも家柄がいいから、子供の引きこもりや狂暴化が周りに知られないようにしてしまうので、ますます子供がつけあがる。この本に出てくるケースはほぼ同じパターンである。母親も父親もあまり挫折したことがなく、子供の気持ちが分からない。あたふたと子供の言いなりになって奴隷化する母親と、仕事が忙しいからと見ないふりを決め込こむ父親。しかし、彼らの命が脅かされるようになると、第三者に依頼するしかなくなる。

こうした親の苦悩も分かるが、親を殺そうとするくらいにめちゃくちゃに気が狂っていく子供たちがほんとうにかわいそうだ。そんなことしたいわけがないが、どうすることもできない。一番喜ばせたかったお母さんを一番苦しめている自分がどれだけ哀しいだろう。病院に送られるときは、裏切られた気持ちでいっぱいだ。遅すぎた反抗期は何倍も何倍も激しいのだろう。どれだけのプレッシャーだったろう。

作者の押川さんは、大人になれなかった子供たちに振り回され、時に嫌悪しながらも、やはりその親たちに戦う覚悟がないと指摘する。いつまでも世間体を気にし、人のせいにし、お金で解決しようとしたり、子供を見捨てようとしたり…

羽仁もと子は、「富貴の家ほど子供の教育に悪いことはない」とはっきり書いている。彼女の創刊した『婦人之友』も自由学園も、当時はエリート家庭が主な対象だった。金持ちの子供は、比較的、虚栄心が高く、生活力が乏しくなりがちだと、雇人のいない学校を創って、自ら掃除や料理もさせている。物質的な豊かさが必ずしも教育的にいいとは限らないのだろう。

自らがエリートの親たちは、勉強のできない子供が理解できない。本当なら、そのままのお前でいいんだと言ってほしかったに違いない。誰もが一人違った個性と特質を持っている。

そして子供の方も、いつかは親が完璧でないことを知る必要があるだろう。親も親なりに精いっぱいだったのだ。親子だけでない、人間関係はみな同じだ。誰もが完璧じゃないことは、自分が一番よく知っているはずだ。人を許せない人は、まず自分を許していないのかもしれない。

羽仁もと子は、「すべての子供がよく出来得る子供である」といって、子供によっては覚えるのが早い子もいるし遅い子もいて、それは学力に関係がない、親や教師の忍耐と工夫次第で、たいていの子供を自ら勉強をするよう導いていかれると書いている。

『教育三十年』より

一人の人間を、あるいは学科からあるいは行儀作法から、あるいは他の局部的の長所や短所からみてほめたり貶したりするような教師や親にはなりたくないものです。そのためにまず親が教師が学校が、その愛する子供たちを十分に理解するために、ほんとうに飾らずに人間的な親しみと尊敬を交わし合うことが第一です。親と教師、親と学校の対立ほど、子供の進歩と教育に有害なものはなく、親と教師の同情と親しみほど、子供もたちの心情を豊かにし幸福になしえるものはないでしょう。(そうして)すべての子供が、すぐれた人になる道を、勇んで堂々とふみ出してゆくことができるものです。

う~ん、なんか根本的なことが、今の教育から抜け落ちている気がする。親だけでは教育できないが、今の学校や社会は、どこまでひとりひとりの子供の教育に真剣なのだろう。

ネグレクトも子供の親殺しも、親だけの問題じゃない、社会問題だというのはたしかである。子供がいないからという私だって社会人として、今のこういう社会をつくった何らかの責任を負っているに違いない。誰も悪気はないのに、殺伐とした世知辛い、生きずらい社会を無意識に作っているのだ。人は人、自分は自分、われ関せずと、子供にとって夢のない社会を作っている、知らず知らずに。

政治家も行政担当者も子殺しも親殺しも、私には誰も批判する資格がない。

もと子の教育はキリスト教信仰と切っても切り離せない。父なる神によって恵まれない人間はいない、という。彼女の究極の教育論は以下の通りだ。

教育の目的は何ぞというきく人があれば、真の自由人を作り出すことこそ、真の教育の目的であると、私は熱心に主張したい。
 考えてみよう、各々の意志の自由、その意志というものはどうしてできるか、意志は瞬間の間にできるものでなく、その人の長い間のあり方によって成長し定まってゆくものである。端的に言えば教育の力でできてゆくものである。
神のみ心によって、その経綸の中に他の万物とともにつくり出され、お互いに助けあい関わりあって生きる所の人間は、その教育も訓練もまた神とそうして万有とによってなされる。一人一人についていえば、その自分を教育してくれる、あらゆるものの示してくれる与えてくれるところのものを受け入れて、自己の生命を養い育ててゆかなければならない。
すなわち取ってもって自らを教育してゆく最重要最高最後のものは、自分のほかにないはずである。人はよく教育されて、よい人間に成長しつつあるならば、その意志もかならず正しく働くはずである。右せんか左せんかの決定は、いつでもただ自分一人の責任である。人間はそれがあるがゆえに貴く、人権の尊厳もそこにある。しかしそこに到るまでの教育は大切である。 
人はみな神と万有の力に感謝しつつ、虔(つつし)んでその教育をうけ、かかわりを生きなくてはならない。人の中にきまりきった一人の先生もなく、生徒ならざる一人の人もいない。みな共に学ぶ同志である。あらん限りの思いを尽くし力を尽くして、だれでも一心にみずから学びつつ進歩してゆかなくてはならない。
またそのようにして学んだこと、発見したことを精いっぱい実行して、この天地の中に活かしてゆくことが、神の経綸に奉仕つつ万有を助け治めてゆくことになるのである。同化も協力もまたその中にできてゆくのである。

私もまた生徒の一人に他ならない。




『ネグレクト』&『「子供を殺してください」という親たち』、そして羽仁もと子①



副題は「真奈ちゃんはなぜ死んだか」


自由学園の創立者の羽仁もと子の研究を細々続け、今ライトとの関連の文章を書いているのだが、羽仁もと子といえば幼児教育のパイオニアでもある。たくさんの育児に関するエッセイを書いているし、実際に幼児生活団という今でいう幼稚園も創立した。長女の説子はその道の研究者で、幼児教育の権威でもあった。戦争中に子供の疎開をいち早く国に提案したのも彼女だ。

残念なことに私は子供ができなかったので、もと子の育児エッセイを役に立てることはできなかったが、それに基づいて教育した人たちはたくさんいるだろう。皇后陛下の美智子さまももと子の愛読者でいらっしゃったし、おそらく皇太子をはじめとするお子様たちにも、もと子の提唱する子育て方法を取り入れられたと思われる。紀宮様は幼児生活団の通信教育をご利用されたと聞いたことがあるし、英国の皇室で出産があると、自由学園工芸研究所の知育玩具をプレゼントされていらっしゃった。

知の巨人、立花隆さんが何かの本で、お母様がもと子の信奉者だったのでその方針で育てられたと書いていたし、生物学者の福岡伸一さんのお母様とはもと子の創刊した『婦人之友』の愛読者の「友の会」の中心的リーダーで、ご一緒に仕事をしたことがある。あの明晰なお母様をして福岡さんのような秀才が育ったのだと納得する。

絶対音感という概念をいち早く教育に取り入れたのももと子で、生活団からはオノ・ヨーコや坂本龍一などの才能が出ている。

なので、私は妹に子供ができたときに早速生活団を勧めたし、友達に子供が生まれたりすると、もと子の本を読むように勧めたりしてきた。

だけど、どうも今は時代が違うようである???

私も自由学園に広報担当者として勤めたことがあるし、中学で教師をしている友だちや甥もいるし、保育園に勤めている姪もいる。フリースクールのようなところで働いている甥もいる…子供はいないけど、そのように周りに子供の教育にかかわっている人がいて、いろいろ話を聞いている。甥が保育園に勤めていた時、保育園の実情を垣間見たりもした。

う~ん、確かに、私が子供だった頃とずいぶん違っている。羽仁もと子の教育論は時代遅れなのかな…ネットをいろいろ見ているうちに、なぜか標記の二つの本を読んでみる気になった。現代の教育といっても極端なケースであり、いずれもかなりショッキングな内容だったが、ある意味現代の子育ての現状と結果を描いているとも言えなくはない。

『ネグレクトー育児放棄』の作者の杉山春さんも、『「子供を殺してください」という親たち』の押川剛さんも、それぞれこの極端なケースが単なる事件ではなく、すでに社会問題であると指摘している。ここまでのケースに至らなくても、子育てに関する親の葛藤や苦しみ、子供の孤立感と閉塞感が、ますます増大しているのが現状だというのである。

ふたつの本はある意味で反対の立場から書かれている。前者は夫婦が長女の育児を放棄した結果死に至らしめたケース。後者は子供の狂暴化によって命が脅かされている親たちが、その子を病院や施設に送り込んでも退院しては同じ目に合わされるので、いっそ殺してくれないか、と作者に訴えるという話である。

親から子への暴力と、子から親への暴力。いずれもこれらに書かれたエピソードは、私の想像を絶する壮絶さだった。

簡単に言うと、前者は幼馴染の男女が十代で女の子を産んだが、自分たちの幼さゆえに、うまく育てられない。そのため発達が遅れるのだが、さらに男の子を出産したため、長女がいっそう疎ましくなって虐待を繰り返す。良かれと思って介入してくる親たちが、一層事態を悪化させ、最後は長女が餓死してしまう。逮捕された夫婦の裁判を通じて、作者は彼らと手紙をやり取りしながら、味方になることもできないが、犯罪者と決めつけることにも疑問を呈す。

私は最初はもっと単純な話かと思っていた。子供が安易に子供を産んで、面倒になって放棄したら死んじゃった、みたいな。彼らの家族も行政も見放していたのだろうと。これはかなり有名な事件としてマスコミでも騒がれたらしいが、彼らは鬼畜のようなレッテルを貼られ、裁判では有罪になったらしい。

事実はそんなに単純ではなかった。若い二人(作中では智則と雅美)は若いなりに熱烈に愛し合い、授かった命(真奈ちゃん)を二人で大切に育てていこうと決心する。智則の両親は最初は反対していたが、息子に高校を卒業させたいからと、母子ともに自分の家に引き取って一緒に暮らすことになる。智則の母聡美は、孫をたいへんかわいがる。雅美の母も納得して、やはり孫をそれなりにかわいがる。智則は高校を卒業して就職し、若い親子は社宅に引っ越しする。

案外普通の人たちである。真奈ちゃんは望まれて生まれ、夫婦仲はよく、双方の両親も協力的で、金銭的にもさほど困らない――そのままいけば、そうだった。
誰もが真奈ちゃんをめぐってベストを尽くそうとしていたのだ。だから登場人物のだれが悪いと責めることもできない。歯車が一つ狂ったら、全部だめになってしまった。赤ちゃん、という大人の思いのままにならない存在が、若い母親の一人のものになったとき、すべてが狂っていった。

行政――つまり保健所、児童相談所の介入も、私が思っていたよりずっとまともだった。虐待が予想される一人の子供をめぐって、あれだけ多くの人たちが話し合いをもったり心を砕いていたとは思わなかった。作者や弁護団は行政担当者の対応の問題点を指摘したが、子育てというプライベートなことに、あれほど行政が関心を払っていたとは、私は全く知らなかったので驚いた。

しかし母親が心を開いて助けを求めないかぎり、行政も助けることはできない。

一言で言えば、真奈ちゃんの母親の雅美が、親になるには子供すぎたのだ。義母の好意を受け入れられない。実母には本音は言えない。仕事で疲れている智則の気持ちを察することができない。発達が遅れている真奈ちゃんが恥ずかしくて、保健所の担当者に会いたくない。担当者は心配して何度も訪ねたり電話をするのだが。

だけど雅美を責めるのも難しい。子育ては誰にとっても大変なのだから、というより、彼女の育った環境からして、愛情深い母親になるのは無理だ。彼女自身が貧困家庭で父親に性的な虐待をされている。じゃあ母親の秀子が悪いかといえば、彼女自身も虐待と貧困に苦しめられていた。

智則にしても母の聡子は次男を失くし、ギャンブル好きの夫に苦しめられて離婚した。そんな母親の感情のはけ口として、智則もまた体罰を受けて育っている。母はホステスとして働き始め、再婚して経済的に豊かになったが、今度智則は学校でいじめにあう。
おそらく聡子もまた虐待されて育ったのだろう。

負の連鎖である、さかのぼればどこまでも続く…

愛された記憶のない雅美も智則も大人を信用できない。だから子育てに行き詰まると、ストレスを通信販売やゲームに向けてしまう…

私のようにかなりまともな両親を持つ場合でも、いろいろなかけ違いからいじめにあい、親や先生に相談するほど信用もできず、今でもなにかと不必要に人に気を使ってしまって、疲れて、面倒になると正面からぶつからずに身を引くというところがある。誰も責めない代わりに、距離を置く。人を信用しないわけではないけど、自分の欲求をぶつけたりはしない。ただ、雅美より大人な対応ができるだけだ。

自分の好きな世界に没頭する、それが人によってはお酒だったり、通販だったり、パチンコだったり、ゲームだったり、ショッピングだったり、私の場合は子どもの頃から読書や書くことだったり、みんななんとかストレスを発散して人と傷つけあわないように生きているのだろう。

子供を餓死させたのも、若い夫婦の本意ではなかったし、そこまでひどい状況だと知らない彼らの母親たちも最後まで孫を心配して、最後の最後まで毎日のようにメールをしたりもしていた。みんな切ない生い立ちを抱えながら精いっぱいだったのだ。裁判を通して、それぞれの事件後の対応を見ていると、だれも反省をしていない、反省ができない、智則をのぞいて。反省とは大人の理知的な行為だから。

雅美は子供のままだった。裁判中は第三子を妊娠していたが、「真奈のためにもこの子を産んでしっかり育てたい」などズレたことを作者や母への手紙に書いている。母の秀子は、そんな娘の手紙をマスコミに公開する、まるで他人事のように。彼女も子供なのだ。智則の両親は面会にも来ない。手に負えなくなれば他人事だ。彼らもまた子供である。誰も自分の責任というものが分かっていない…。ただし智則だけは収監中にたくさんの本を読んで論理的に考えて深く反省してたと書いている(ただし殺意については認めず上告した)。

一体こういう子供な人たちを、どこまでさかのぼって責めたらいいのか分からない。羽仁もと子は、教育は三代かかる、といっていた。良くも悪くも、真奈ちゃんを見殺しにする(本意ではないにせよ)人たちを育てるのに、たしかに三代はかかっている。

羽仁もと子の子育て本は、どちらかというと子供を甘やかさず一人の人間として自分の欲求の意味が分かるように、授乳も睡眠も基本的には時間を決めてだらだらしてはいけない、というものである。親の気まぐれで子供を振り回したり、子供の欲求に無制限に答えているだけだと、自ら生きる力の弱い子供になると警告していた。そうかといって四角四面に決めたことをするのでなくて、子供一人一人の個性と欲求を理解して、その子にあった方法を母親が自ら考えらえるようなヒントがたくさん書かれている。

今の子育ては、とにかく愛されている実感が伝わるように抱き続けることだというのもある。私にはよくわからないが、それはそれで母親は大変であろう。仕事をしていたらまず無理だろうし、母親こそが神聖な仕事だというのも無理がある。職業を持っていても頑張って子育てしている人もいるし、昔はそこまで母親がべったりでなかったが、まともな人が育っている。だいたい10人も子供を産んでいた時代もあるのだ。その時代の子育てはそんなに難しかったのだろうか?

やはりいろいろな意見を参考にしながらも、母親が周りの協力や理解の中で、きっちり子供に向き合って、自分で考えるしかないのだろう。みんなそれぞれ違っていい、どれが一番ということではないと思うのだが、情報が多すぎて考える力がなくなりそうだ。


羽仁もと子の『教育三十年』より

おさなごはみずから生きる力をあたえられているもので、しかもその力は親々の助けやあらゆる周囲の力に勝る強力なものだということを、たしかに知ることです。のみならず、そうしてその強い力がわれわれに何を要求しているかを知ることです。人は赤ん坊のときから、その生きる力はそれ自身の中にあります。母親が自分の持っている知識や感情を先にたてて、知らず知らず赤ん坊の自ら生きる力を無視していると、赤ん坊というものは容易にそのほうによりかかって、そうして自分の中に強く存在しているところのみずから生きる力を弱めてゆくものです。
(そうすると)自分の生命のほんとうの要求が自分にわからなくなってくるのです。そしてただ眼前の苦痛や満足や喜びや悲しみのみに囚われて、そればかりを訴えたり表現したりするようになります。したがって母親をはじめ周囲のものが、その赤ん坊の真の生命の要求でないところの、その場その場の浅はかな訴えに動かされて、さまざまの処置をするようになる。その結果は赤ん坊の真の命ははぐくまれずに、当座の感覚的欲求ばかりが日に日に強くされてゆきます。こうして丈夫に生まれても弱くなる赤ん坊や、良知良能が授かっているのに、全くききわけのないわがままな子供や、頭脳(あたま)の悪い子供が出来てゆきます。


そしてもう一冊の『「子供を殺してください」という親たち』の方は、むしろ子供に期待をかけすぎたり甘やかしすぎたというケースである。


つづく

『無伴奏』~感情を失くしてしまった私





辛くて長い苦しい翻訳作業の合間の気晴らしにアマゾンプライムで配信されている映画を、二日にわたって観た。『無伴奏』。主演の成海璃子が好きというだけで、何の前情報もなく観た。

それは哀しい映画だった。哀しいはずの、お話し。

観終わって、とても奇妙な感覚に襲われている、涙一つでなかった冷め切っている自分に。見ている間はその世界に浸っている自分がいた。登場人物のだれにでも共感できるとも思った。1969年という、我が国の経済が上向き出して、学生は反体制運動に忙しく、戦後のくびきから離れた、今よりずっと若くて騒々しい日本。平和に慣れ切った多感な女子高生の空虚感を埋める様な、大学生との出会いもうまく描かれていた。

控えめで繊細でミステリアスな大学生は、文学少女の心を一瞬でとらえ、キラキラした恋が始まる。誰にでも経験のある若い新鮮な恋・・・のはずだったが、実は彼には秘密があった・・・

そして悲劇的なラスト。映画の原作者は小池真理子。これは半自伝的小説の映像化とある。なるほど、ということはこのドラマは実際にあったことなのだろう。若いうちにこんな経験をすれば、たしかに彼女は小説家になる運命なのかもしれない。

映画にはテーマがある。この映画のテーマは60年代末期という時代なのか。しかしこの映画の恋愛は時代的要因より、むしり普遍的な気がするのだが。いややっぱりあの時代の恋愛なのだろう。成海璃子扮する響子という女性の、ひたむきな想い。矛盾を感じても裏切られても愛し続ける女の気持ち。そしてその彼女を愛そうとしても愛しきれない男の不器用さ。その背景にあるもう一つの恋愛。

ここまで書いたらネタバレだが、やはりあの時代は男と男が惹かれ合うほど、人間関係も濃かったのかなと思う。誰もが知っている老舗の息子の渉(池松壮亮)と、父親に愛された記憶のない祐之介(斎藤工)がお互いにないものを相手に見つけてしまったのか、学生運動を通じて絆が一層深まったのか。幼馴染だというから、どちらも幸せだったとは言えない家庭環境の中で、互いがかけがえのない救いの存在になったのに違いない。

そんな彼らがそれぞれ異性の恋人を得てから、歯車が狂っていく・・・

今の恋愛関係は、もっと自分本位で、突き詰めたところまで行く前に、あるいは徹底的に傷つけあう前に、自分を守るために別れてしまうような気がする。この響子のように、相手の事情を全部知った上で愛し続けるには、他者への強い理解や共感がなければ成り立たないと思うし、その共感や理解は、落ち着いた家庭環境における読書や詩作という形で育まれたのであって、現在の女子高校生の精神年齢レベルでは無理であろう。日本人はもうこうした、自分の感情を抑えるような、大人の恋愛はできないのかもしれない。

恋愛小説の名手とでもいうべき小池真理子という作家もまた、時代が生んだ作家であり、いずれ読まれなくなってしまうのかもしれない。

ところで昔から同性同士の恋愛はあったのだろう。男同士の友情は女性のそれよりずっと強そうだし、同性だからこそ理解し合い、それがすぎればそこからは恋愛の領域に入ると言えるのかもしれない。繊細な男が感情的な女性を疎ましく思う気持ちも分かる。一方で、男性同士の恋愛はこの頃の日本ではかなり公認されてきていて、ドラマでそうしたカップルが描かれることも珍しくなくなってきた。そこで今回の映画化があったのかもしれない。

なので、おそらく小池真理子の原作は女性視点が強く、映画のほうは矢崎仁司監督による男性目線がはっきり出ているのかもしれない。

タイトルの通りバッハの無伴奏曲が全編を通じて流れていて、静かなトーンとレトロな映像が、苦悩を抱える登場人物たちの抑えた演技を引き立てていた。主役の三人ははまり役だったと思う。

しかし悲しいかな、見ている私の心はどんなまぶしい恋愛のシーンにも悲しい結末にもあまり動くことがなかったのだ。それは映画が悪いのではなくて、私の心もまたいつの間にか瑞々しさを失ってしまったからなのだろう・・・

『キャンディ・キャンディ』という小学生の頃に流行っていたアニメがある。孤児院で育った少女キャンディが様々経験をしながら大人になっていくという、1900年初頭のアメリカを舞台にしたかなりロングランのストーリーで(いがらしゆみこ作)、私はそのテレビ放送を毎週とても楽しみにしていた。漫画の方は『なかよし』という雑誌に載っていて、テレビよりちょっとはやく世に出るのだが、たまたま廃品回収中に私はその古雑誌を見てしまい、キャンディが恋人のテリーと別れるシーンを読んだら、あまりの哀しさで一週間ぐらいご飯が喉を通らなかったことを覚えている。

それからもう少し大きくなって高校生の時に映画『ロミオとジュリエット』を見たときは涙が枯れるくらい泣いたし、『慕情』や『追憶』を見たときにも、胸が張り裂けそうに痛かったのを覚えている。初めて原書で読んだ『マディソン郡の橋』や『さゆり』は、読み終わってからしばらく何日も甘く哀しいムードに襲われていたものだ。

今は、見ている間だけは感情がすこし動き、見終わったらしらばくの余韻があるだけ過ぎない。この映画を見ての一番の感想は、自分の感情がこんなにも薄くなってしまったことが悲しい・・・ということである。今は翻訳で頭がいっぱい過ぎて、感情が特に鈍っているのかもしれないけど・・・





フランク・ロイド・ライトを理解するために



1939年のライトの講演記録


フランク・ロイド・ライトの本や論文はかなり読み込んできたが、このたび、アマゾンからまた待望の一冊の本が届いた。それは1939年に 王立英国建築家協会で行われた4日間にわたるライトのスピーチをまとめた『An Organic Architecture』というタイトの本で、このたびライト生誕150周年を記念して復刻版が発売されたのである。邦訳は持っているが、とても大好きな本なので、原文が読みたかったのだ。

ところが、この本には再版特別企画として、アンドリュー・セイント教授という「高名な建築歴史家」による序文が載っていた。そして、それには本当に驚かされた。いったいこの本の出版の趣旨は何なのだろう!?

セイント教授は、ライトの講演が、集まった多くの聴衆にとって期待外れで、内容がなく、現実味もなく、矛盾だらけだと指摘する。そして当時その講演に参加してがっかりしたというとある建築家のコメントを長々引用している。以下はその引用文の最後。

Mr. Wright, who has a distinct gift of wisecracks, set himself to score off them and to raise a laugh at their expense, which he easily did. 
辛辣なジョークを飛ばす才能を持つライト氏は、観衆をバカにして笑いを取ることを簡単にやってのけた。

そして セイント氏は序文をこう締めくくる・・・

So, there was no mutual meeting of minds at the RIBA (the Royal Institute of British Architects). For the rest of his visit Wright stomped off to enjoy himself round London, which he was good at doing. After a short holiday in Dalmatia, he put the finishing touches to the text of the lectures back in Taliesin, unrepentant. They were promptly published that autumn in the handsome book that is here reprinted.
というわけで、 王立英国建築家協会でのスピーチにおいて、講演者が聴衆の心をつかむことはできなかった。イギリス訪問の最後にライトはロンドンを遊びまわったが、そういうことはお得意のようである。(クロマチアの)ダルマティアに寄った後、タリアセンに戻り、講演原稿に手を加えた---よくまあ懲りもせずに! その秋には立派な本として発行され、それがこのたび再販されたのである。


一体何なんだ、この皮肉たっぷりの序文の意図は?それに続いて、「くだらない」講演内容が、いかにも150年記念に相応しいハードカバーで 復刻されている意図は?じゃあ復刻しなければいいじゃないの、と言いたくなってくる。読んでいて腹立たしくなってしまった。

この腹立たしさは、ライトの研究者からよく受ける印象であるが。私は、彼らがライトを非難することに反対しているわけではない。非難するならなぜこういう企画に参加したり、あえて研究するのかと疑問に思うだけだ。ライトにたとえ非があったとしても、それを深堀したり貶したりすることに、研究者として何の意味があるのかが分からない。ライトの思想を素晴らしいと思う人をけん制しているのだろうか、だけど何のために?

帝国ホテルの末期にその建物の写真とエッセイを収めた、キャリー・ジェームス氏の本『Frank Lloyd Wright's Imperial Hotel』(1968)から引用して、この腹立たしさを収めよう。

Frank Lloyd Wright stood outside the mainstream of Western culture. It is the foreignness of his thought which is behind the strangeness of all his architecture. His idea of man and the world nearly opposite to ours; it is this we fail to grasp in our reaction to his art. To begin to understand Wright, it is necessary to put aside more of our traditional attitudes than may easily be done. It is necessary to see that his views of man and art were animated by the idea of unity, a sense of the singleness of all being and all life. This singleness, this inter-relatedness shaped his mind and his architecture in unusual and to us often incomprehensible ways. It is unity which ordered the being of the Imperial Hotel.  
フランク・ロイド・ライトは西洋文化の主流ではなかった。彼の思想の不可思議さが、彼のすべての建築に一風変わった作風を与えている。人間と世界に対する彼の考えは、我々とはほぼ正反対のものであり、我々が彼の作品を完全に理解できないのはそのためである。ライトを理解するには、思い切って既成概念を外すことから始める必要がある。彼の頭の中には、人とアートが一体感を持って生き生きとしている、あらゆる存在と生命が一体となって息づいているという感覚がある。この一体感、この相互の密接な関係性が、彼の思想と建築を並外れた、そして我々にとって不可解な形にしているのだ。帝国ホテルをつかさどっているのは、この一体感なのである。


と言って、ジェームス氏は、分析的思考で作られる従来の建築は固定の物質として存在するのであり、この物質と精神を分けて考える我々の思考の二重構造を指摘する。ライトの有機建築は、時間と場所と人間の命と一体であるがゆえに、二重構造思考では理解が難しい。そしてその二重構造が、人間から生き生きした暮らしを奪い、物質的・経済的至上主義的な世界に放り込んだのだと。

Unity deals with change and dynamism.
一体感の中には、変化と動的な流れがある。


私はこれを読んで、仏教の無常と因果を思う。あるいは、福岡伸一さんのいう「動的平衡」を。すべては流動している、この一瞬も宇宙も膨張し、生命は進化と淘汰を続け、私の細胞は分割し続け排出し続ける。あらゆる存在は相関関係の中に起きる、つまり因果よって一時的に生じている現象に過ぎない。

あるいはインドの元始哲学ーーすべては見るものと見られるものという相対から始まったという、本来は何もないのに、無であるのに、相対的な見方がこの世を作ったという二元論。

ところが従来の建築は、永続する固定的なものとしてとらえられる。さらに土地の選定、坪単価、強度計算、耐震構造、建材、工賃、流行――あらゆる側面が個別分析的に集積されて経済的に処理される。生命体として、またそこに暮らす人たちと一体感のあるものとしてとらえられることはない。

こういう既成概念がある限り、ライトを虚心坦懐に理解しようとは思えないし、そうなると彼の言葉がいちいち皮肉に聞こえるのかもしれない。彼の根本思想が分からない人にはたしかに彼の言葉は分かりにくい。彼の文章は、たとえ英語のネイティブでも難解に思えるだろう。しかし、理解している人には、ネイティブじゃなくてもよくわかるのである。

現実的に考えると、当時も今も、建築のプロには受け入れがたい思想なのだろう。そういう意味でライトは単なる理想家として見られているが、それでも根強い人気がある。彼の鮮烈なメッセージが色褪せないのは、真実だからだと思いたい。



1968年帝国ホテル解体直前の写真集




ウディ・アレンの映画~ある種のブラック・ユーモア



先のブログに、ウディ・アレンは自然体だと書いたが、その後つらつらいろんなところで彼の映画のシーンやセリフを思い出すたびに、あの自然体の裏には、やっぱり一つの屈折したものがあるような気がしてくる。

『おいしい生活』(2000)にしても『マッチ・ポイント』(2005)にしても、『ブルー・ジャスミン』(2013)にしても、そこに描かれているセレブはいつも不安定なセレブである。ヨーロッパの権威あるセレブに憧れている似非セレブ、あるいは成金の世界。

祖父母がユダヤ人というヨーロッパの中で独特の運命を持つウディが、アメリカという成金セレブの世界で成功しても、しかも映画という人気稼業とも虚業ともいえる世界で成功したところで、何か根本的なことが充たされない・・・それが彼のいう、「子どもの頃の夢が全部かなったのに、なぜか『落伍者』の気分がぬぐえない」ということなのかもしれない。

ある種の諦念に似たという気持ち。社会的に評価されても、「所詮は」という気持ち。これが彼をして、どこかノンシャランというか投げやりというか、自然体な雰囲気を漂わせているのだと思う。そしてそのシニカルさが彼の作品全体に表現されている。成金セレブの虚を哂い、正当セレブの欺瞞を嗤い、それでもセレブになりたい人たちを笑い、似非セレブである自分をわらう、ある種のブラック・ユーモア。

古代エジプト時代に迫害され流浪の民となったユダヤ人。国を持たない民族は知の力で世界を席巻した。ビジネス、アカデミック、アート、いずれの世界でもトップに立つ人が多い。世界の人口の0.2%というユダヤ人が、ノーベル賞受賞者の22%を占めている。こんなに国際的に成功しても、故郷が欲しい、しかし1948年に建国したイスラエルはいまだ紛争状態だ。

2000年近い歴史と国土を共有し、基本的には誰もが同じ日本人で階級も意識されることなく(戦後からとくに)、同じ言語で話し、まったく同じ時間に同じ内容のテレビを見ることができる私たち。政府に不満があったところで、選挙に行かなくても済むくらいの程度の私たち。ここではお笑いが全盛のようだが、ウディの根深いブラック・ユーモアとはだいぶ濃度がちがうみたいだ。




『恋と映画とウデイ・アレン』~好きなことを自然体で



私はウディ・アレンの映画が大好き。

2011年に発表された本作は、彼の長年にわたるコメディアン・映画監督としてのキャリアをドキュメンタリーに仕立てたものだが、これ自体がすでに一篇の物語になっている。彼の幼いころから現在までのエピソードが妹やともに作品を作ってきたプロデューサーや俳優たちによって語られ、また本人のインタビューや作品の名シーンが、彼の人生の軌跡をくっきりと浮かび上らせる。

それにしても、こういう華やかな業界にいて、ウディ・アレンはという人は、なんと自然体なのだろう。若い時からコメディの才能に恵まれて、はやくからマスコミの人気者になったが、その後どんなに映画が売れても、売れなくても、誰と一緒になっても別れても、様々なスキャンダルに見舞われても、一貫して彼の姿勢は変わらない。「好きなことをしたい」、ただそれだけである。

ミア・ファローと暮らしていた時に、養女と恋愛関係になり、ほかの子供たちの親権を争うに至ると、彼の評判は地に落ちたがーー

「好きなように考える自由をだれもが持っているからね。同情してもしなくてもいい。僕を嫌っても好きでいてもいい。僕の映画を見続けてもいい、二度と見てくれなくてもいい、そう思っていた。」

ーーのだそうだ。このセリフに彼の強さと本質を見る気がする。この徹底的に自分に正直でいること、そしてそれを他者の権利としても認めること――これはなかなかできないことだと思う。

監督としても、役者に役作りを強いないのだそうだ。それでいて役者はベストを尽くそうと頑張って、コメディなのにアカデミー賞を取る俳優も少なくない――ペネロペ・クルスやケイト・ブランシェットなど。「満足したらもう一度取り直そうとは思わない、それより早く家に帰りたいんだ」「偉大な芸術家が持つような集中力や熱意は持ち合わせていない。自宅でスポーツを見ているほうがいい」、こんな監督の姿勢が、かえって役者をリラックスさせて、いい結果を生むのであろう。

実際、ダイアン・キートンによると、ウディは「好きに演じてくれ、セリフも変えてもいい。さっさと撮ろう」とよく言っていたそうで、「プレッシャーも何もない、あんな監督は他にいない」ということである。

普通の監督は自分の前作を超えた作品を作ろうと思い詰めるが、ウディは自分で興味があるかどうかが一番の問題で、それに全力を尽くすのだという。前作が売れたから同じものを作ろうとは思わない、むしろ違うものを作ってみたい、それがたとえ観客を裏切ることになっても。当然ながら失敗作はある、しかし彼のスタンスは好きな映画を撮っていれば「数打ちゃあたる」というわけだ。

「40本ほど作品を取ってきたが、価値のあるものはほとんどない。簡単に名作が生まれたらやりがいも価値もない」

このフラットな自己評価と前向きな姿勢がすごい。自虐でも謙遜でもない。80歳を前にして、彼は言う。

「恵まれた人生だと思う。子どもの頃の夢をすべて実現したのだから。憧れていた映画監督にも役者にもコメディアンにもなった。ミュージシャンとして世界中のホールで演奏もした。夢見たことでかなわなかったことは一つもない・・・こんなにも運がよかったのに、人生の落後者のような気分なのはなんなのだろう・・・」


この、彼にまつわる「人生の落後者」観、これが愛される秘密でもある。体も小さいし、ハンサムでもないし、髪はぼさぼさで野暮ったい服を着ているのに、ジュリア・ロバーツのような美女と恋に落ちる役を演じても全然おかしくない、こんな俳優がいるだろうか。神経質で知的でセクシーでシニカルで、こんな役者はほかにはいない。そして彼が演じる役はいつも同じキャラクターなのに飽きることがない。っていうか、役というより、現実の、自然体の彼がそのままそこにいて、それを素直に観客は楽しんでいるのである。

自然体の力はすごい。無理に演じなくてもいい。美人でなくてもスタイルがよくなくても頭がよくなくても要領が悪くても、そのまま好きなことを好きだと言って続けていれば、人はみな魅力的なのかもしれない・・・

そんなことを思わせてくれたドキュメンタリーだった。






『阿修羅の戦い、菩薩のこころ』~小池百合子さんの挑戦



先のノンシャランなブログがちょっと恥ずかしくなるような本を読んだ。

作者は溝口禎三さん、豊島区で会計事務所を経営している、わりと古い知人だ。兄貴肌で自然にみんなが集まってくるような、しかし熱血漢というのともちょっとちがう・・・青森県三戸育ちらしい東北の純情さを持った、豊島区は池袋というどこか下町的な大都市の、すごくスマートでもないけど、東京人らしい・・・う~ん、書けば書くほど彼の独特のキャラクターが伝わらなくなってきた・・・とにかく、とっても明るくてユニークな人である。私は奥さんとも親しいが、彼女もまた不思議な魅力のある女性で、二人ともべったりじゃないのに、なぜか二人がセットのような、全然違うキャラクターなのだけど、禎三さんの活躍の陰には、必ず奥さんの存在が感じられる――内助の功といった窮屈なものではないが――とにかく面白い夫婦なのである。

で、溝口さんの旦那さんの方が、標記の本を出版した。これが三冊目。いずれも豊島区の高野之夫区長さんを通じて、彼が外野から間接的に関わることになった区政や都政に関するものなのだが、素人目線でありながら、綿密な調査と取材に基づいた、読みやすくて面白い本である。

豊島区を選挙区にもつ自民党国会議員だった小池百合子さんの都知事選を応援することになった溝口さん。魑魅魍魎の選挙の世界を、素直で素朴な視点から読み解いていく。知りたいけど、知りなくない、あの(うちのマンションからも見える)近未来的な都庁の建物の中で起きている、コメディアンとか作家とか評論家をトップに据えた、がちがちの官僚世界・・・私も都庁に勤める知人からいろいろ聞いてはいたが・・・そしてそれらのトップや官僚を陰で動かしているらしいドンの存在!(業務というより予算取りについてだと思うが)。

ここの暗~く恐ろしい世界に、果敢にも切り込んできた小池百合子! 去年の知事選で、291万票という、党員である彼女を推薦しなかった自民党が推した元官僚・元岩手県知事の増田寛也氏をなんと100万票以上も上回る、圧倒的な投票数を獲得して都知事の座を射止めた。彼女の徹底した戦略がマスコミを動員し、選挙への関心を高めて選挙率を上げ、浮動票を取り込んだのだ。町内会とか商店街というベタな「地上戦」に対して、小池陣営はインターネット、SNSなどを効果的に使う「空中戦」を展開したのだそうだ。

この彼女の策士ぶりは、もちろん今回に始まったことではない。溝口さんはこれについて、小池さんの、独立精神を重んじる実業家の両親からの影響や、好きだった英語プラスアルファを学ぼうとカイロ大学に進学したことなど、かなり若いころからの、凡人とは違う、有能な戦略家的エピソードを掘り起こしている。やっぱり偉大な人は子どもの頃から違う、親からして違う、という、これだけはどうも古今東西不変の法則のようである。同じように子どもの頃から英語が好きだった私も一応アメリカへ短期留学したが、なんというか、最初のボタンのかけ方が・・・いってみれば、私は100円ショップで売っているような小さなプラスチックのボタンを二つくらい掛け違えて生きてきた気がしてしまう、ここに書かれた彼女の半生記を読むと。小池さんのボタンは真鍮の立派なもので、着ている服は詰襟のしっかりした軍服みたいである。まるで無駄のない、目標一直線のような生き方・・・

自虐に陥っても仕方がない。とにかく彼女は才色兼備で明るくて勇敢で、男性の潔さと女性の美しさを併せ持った、まさに「選ばれた人」であろう。エジプト留学中は第4次中東戦争(1973年)の戦火も体験した。西洋一辺倒の価値観をはやくから抜け出し、若くして真の国際人となった彼女の行く手に人生のレールは切り開かれてゆく。アラビア語の通訳、個性的なジャーナリスト竹村健一氏のTV番組のアシスタントを経て、人気ニュースキャスターに。

キャスターとして、毎日のニュースを伝える中で、世界の激動をひしひしと感じました。日本の動きを見ていてイライラしていましたからね。ましてや(だんだん業界がデジタル化してきたから)シミもシワも、ますますはっきり写るようになるとなったら、舞台を変えよう、と思った瞬間は確かにありました。

別にシミやシワが画面にはっきり写るのがいやで政治の世界に飛び込んだわけではないと思うが(笑)。きっかけは、細川護熙氏の日本新党立ち上げだった。「責任ある改革」をうたった、この元熊本知事の理念に共感した小池さんは、この新党から立候補し国会議員となった。1992年のことである。

そう、あの細川さんの登場はたしかに鮮烈だった。私もうちの人も一生懸命応援したっけ(投票しただけだけど)、日本が変わると思った・・・が細川内閣は一年足らずで終了・・・盛り上がっただけに、裏切られたというか、失望感が大きくて、以来うちの人は(かつて某県会議員の事務所で働いた経験からも)もう政治には一切関心を持たないことに決めてしまったほどである。私もつられて、次第に選挙には行かなくなった。「税金は払っているから国民的義務は果している。選挙に行かない代わりに政治に文句を言わない」と決め込んで。

しかし、さすがは小池さん。細川さんからは政治の理想を学び、次に小沢一郎さんのもとで政治の現実を学ぶ。そして小泉純一郎政権下では、地元の兵庫から「刺客」の落下傘候補として東京10区(豊島・練馬区)に降り立つことで、衆院解散選挙における与党の大勝を先導し、首相が苦闘していた郵政民営化を実現のものとした。

その後は環境大臣としてクールビズを考案、国内のみならず世界中に広め、さらには女性初の防衛大臣となる。

しかし大臣になったとはいえ官僚世界は動かしがたい。そこでこのたび、「崖から飛び降りるつもりで」、党からは孤立無援の状態で、舛添要一氏のスキャンダル辞任による東京都知事選に打って出たわけである。

溝口さんは、地元の有志とともに小池さんを応援する「勝手連」に参加して、彼女の戦いぶりを間近に見る機会を得る。そして「ものすごい人がいるものだと、小池さんの能力とパワーに圧倒されました」という。

この都知事選の本を書いた一番の動機は、なぜ自民都連(自民党都議による連合会)は、小池さんではダメだったのだろうかという疑問でした。・・・自民都連の小池候補拒否の論理を追ってゆくと、図らずも現在の既存政党の大きな問題点が現れてきました。

と、この本の送り状に書いてある。結局、これまでの歴代知事も、この自民都連、つまりはそれを牛耳るドンの力に負けたようである。都知事の権力は、米国大統領のそれに匹敵する、というような話も聞くが、そう単純ではないようだ。この本では、都知事選をめぐって繰り広げられる、この自民都連による矛盾だらけの対立候補選びが如実に描かれているのだが、それはまるでイエス・キリストと、無実の彼を裁判にかけるパリサイ人ぐらいに明確な善と悪のストーリーである。

さて、キリストないしはジャンヌダルクの生まれ変わりのような(?)小池さん、これからどうなるのだろう。すでに2020年オリンピックの開催費用の削減や豊洲市場移転問題を巡って、窮地に立たされているといった報道が目立っている。また、7月に実施される都議選では、彼女が率いる「都民ファーストの会」から過半数の議席(127人中64人)を目指しているが、この動きに対して、いまや自民都連どころか、国を敵に回してしまった感がなくはない。安倍首相が、党内の都議選の決起大会で「急に誕生した政党に都政を支える力はありません、私たちは、まなじりを決して戦い抜く決意だ」と勇ましく語ったのは一昨日のことだ。

例のドンは高齢のために都議会を去ったと言うが、今度は自民都連会長の国会議員下村博文氏やオリンピック大会組織委員会の森喜朗会長、そして首相までが攻撃を仕掛けてくる・・・

作者の溝口さんは、女性に優しい彼だからこそまた指摘できると思ったのだが、彼女の成功のカギは女性ならではの視点や立ち回り方があるという。基本的にはピラミッド構造の男性社会はどうしたって矛盾と行き詰まりに直面する。さらに男性は嫉妬深い・・・下村議員や森会長、あるいは菅義偉官房長官などの、非生産的な小池さん攻撃を見ると本当にそういう気がする。言葉の暴力に近い。攻撃するより上手に話し合いができないものか。都民も国民もどっちの味方というより、まともな大人の協力体制を望む。議会は揚げ足取りやスキャンダルをめぐって勝ち負けを競うショーではない。こうした対立をあおるマスコミのレベルもひどすぎる。(一体議会に一日どれだけの予算が使われていると思っているのか。森友学園とか首相夫人とかの話は、別のところで関係筋が論理的に処理してほしいよ、もう)

浮動票を空中戦で掴んで勝利した小池都知事だが、空中戦だけに支持者は浮動であり、この先支持し続けてくれるのかどうかかわからない。インターネットの情報はプロの発言も素人のコメントもめちゃくちゃで、信用が置けない、掴みづらいし、どう発展するかわかないし、どう影響するかもわからない魔物である。この際だから、小池さんには、国民の知性を信じて、稚拙で余計な情報や男どもの横やりに振り回されず、信じる道を行ってほしいものだが、直面する問題はどれも根が深そうで、予想外の困難があるのだろう。

理想を貫く難しさという点では、同じく細川政権誕生の頃、政界に登場した俳優の中村敦夫氏を思い出す。彼もまた若くして世界に飛び出して国際感覚を身に着け、俳優として成功したのちに、ニュースキャスター・ジャーナリストとしてTV番組を担当、その後参議院議員として独自路線で活躍し、理想を掲げた新政党も作っている。しかし結局は選挙に負けて政界を去る羽目になった。

たまたま昨年の夏に、ある俳句の会の集まりで、山頭火の朗読劇をしている彼に会い、仏教僧として得度したことを知った。「(この世の矛盾を解決するのは)仏教しかないと思っている」と言っていた。名文家としても知られる彼の著作(『国会物語―たった一人の正規軍』他)をいくつも読み、思想を理解している私にとって、中村氏の得度が、政治に失敗した厭世観から来たものなどではないことを分かっている。人一倍才能に恵まれていた彼は、若いころから人の何倍も世界を見て、体験することことができた。その人が最後にたどり着いた境地であり、それまでの経験がすべて元になっている。華やかな芸能界はもちろん、貧困による餓死の現場から政界の裏側まで、普通の人はとても経験できない世界を見て生きてきた人だ。

あら~、なんだかまたノンシャランな世界に戻りそうな私・・・だけど、同じ女性として、男性社会の矛盾を見せつけられてきた私も、小池さんが彼女のブレーンたる未来の議員とともに、新しい価値観とやり方でオジサンどもを骨抜きにしてほしいと願っている。オジサンたちだって男のピラミッド社会のあほらしさは身に染みているはずなのだ。というか、だからこそ前都知事達も頂点に立つ前に自ら降りてしまうしかなかったのだろう。まただからこそ、アメリカのトランプのような、超型破りな人しか頂点に立てなかったのだ。

とにかくずっと選挙に行っていなかったけど、溝口さんのおかげで、都議会選だけは小池さんを応援するために行こうと思う気になった。25年前に政治に失望したうちの人もそう言っている。


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『釈迦の教えは「感謝」だった』②~当たり前すぎて見えないこと


前のブログの続き


小林正観さんの本にハマったきっかけは何だったかしら・・・表記の本は般若心経についての解説本でもある。

ここ数年、いろいろなことがきっかけで(更年期障害もある)不眠症になってしまった私は、病院に行ったり専門書を読んだり、瞑想音楽を聴いたりといろいろしてみたが、起きてしまって瞑想するのが一番いい方法のようだった。しかし瞑想するつもりが、雑念が湧いてしまい妄想になってかえって眠れなくなることも多かった。そこで般若心経をひたすら唱えていれば雑念は起こらないのではないかと、暗記してみることにした。

暇さえあれば写経をしたり、YouTubeで流れる読経に合わせて唱えたりして、だいたい1週間で暗誦できるようになった。ところが、眠れないときのおまじないのはずなのに、意味を考えると分からないことが多くて、余計に眠れなくなってしまった。そこで、解説本を読みだした。

まずは高神覚昇氏の『般若心経講義』から始まり、家になぜかあった中村元とか瀬戸内寂聴とか、その他いろいろ10人くらいの解説本を読んでみた。そうこうするうちに、般若心経の世界観は、仏教徒でなくても悟っている偉人は誰でも同じようなことを言っているし、その他インド哲学も、さらには最新物理学もどうやら同じコンセプトに基づいているということが分かってきた。

そのなかで一番わかりやすいのが表記の、小林正観さんの本だろう。般若心経について、とてもシンプルでズバリと解説している。小林さんは、子どもの頃自分と同じ名前の小林少年に興味を持った、あの怪人二十面相シリーズに出てくる明智小五郎の弟子である。(私もハマったなあ!)それからシャーロック・ホームズにハマった彼は人間観察のプロとなる。大学浪人中からあちこちを旅して人間を見続けるうちに、人から相談を受けるようになり、旅行作家として、40年間も手相見人相見をすることになったのだそうだ。面白い!

この間、人から受ける相談の内容が変わってきたという。自分の病気とか自分自身に向き合って生じてくる悩みというより、他者に関するものの相談が増えたのだそうだ。例えば「夫が働いてくれない」、「姑が意地悪をする」、「子供が学校に行かない」など。

彼は言う、これらの悩みは結局、人が自分の思い通りにならないことから派生するものだと。彼のもとに相談に来る人たちだけではない、そもそも釈迦の悩みもそうだった。
この悩み・苦しみの根元は、「思い通りにならないこと」と見抜いた。だから「思い通りにしようとしないで受け入れよ」と言った。その最高の形は「ありがとう」と感謝することだったのです。

だからとにかくなんでも「ありがとう、ありがとう」と何千回も何万回も唱えると幸せになるとか、トイレを掃除するとお金がたまる・・・と言ったことも書かれているので、これが人によっては、小林正観は胡散臭いとかインチキだとか言うかもしれないけど、結局、彼は文字の読めない一般庶民に「南無阿弥陀仏」と唱えるよう布教した親鸞と同じことなんじゃないだろうか。

もっとも簡単な言葉ともっとも簡単な行為。

私みたいに小難しく考える必要もない、難解な本も読まなくていいし、瞑想なんて厄介なことをしなくてもいい。幸せになるのは本当は簡単なのだ。世の中は単純なのに、人間が難しくしているだけ・・・一見深刻に思える問題も、人を思い通りにしたい自分が、自分の問題だと思っているだけで、実はそれは人の問題だ、それがたとえ我が子でも。
「なぜ不登校なの、なぜ学校へ行かなくなったの」
と(子供に)いくら問いただしても、もうたぶん、真相や真実を話してはくれないのでしょう。この子は最善の方法として、学校に行かないことを自分の判断で選んだということです。
 親は自分に、
「この子を学校に行かせる、行かせなくてはいけない」
という思いがあるものだから、不登校が悩み・苦しみになってくるのですが、その子が不登校という結論を選んだことを丸ごと受け入れてあげたならば、そこに悩み・苦しみは生じません。・・・不登校である間、親がずっと見方であるのだということを示し続ければ、子供はほんとうに安心して信頼して、心を開いてくれるかもしれません。

毎年お正月に必ず見るようにしている『青空娘』という映画がある。増村保造監督、若尾文子主演。この両者のコンビで『刺青』のようなかなりエロくてグロい作品も撮っているが、前者は文部省奨励作品ともいうべき、明るく健康的な映画である。メッセージは明確だ、どんな境遇でもこの主人公なら絶対に不幸になりっこない、と。とても暗い生い立ちの不幸なはずの娘だが、どうしたって幸せしかやってこない生き方なのだ。あまりに当たり前すぎて、かえって忘れてしまう・・・というわけでお正月に観るようにしている。私の周りの人を見ても幸せな人とそうでない人には、このパターンが100%当てはまっていると思う。

しかし正観さんの言っている幸福論はもっとずっと簡単だし、核心をついている。人間は悟るためには3秒あればいいという。

一秒目、過去のすべてを受け入れること。
二秒目、現在のすべてを受け入れること。
三秒目、未来のすべてを受け入れること。

今回再読してみて特に心を惹かれたのは、以下の部分だ。このところライトや羽仁もと子という偉人を研究したり、植松三十里さんの書かれる歴史上の立派な人たちに感心しているが、そして、彼らは確かに人類の平和や文化に貢献すべく犠牲になった人たちではあるが、では現状はどうであろう。ライト建築のような豊かな住環境も、羽仁もと子の目指した人間教育も実現されていない。重光葵たちが頑張ってくれて日本の平和が達成されたが、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない今日である。

もちろん彼らがいてくれたから、今の平和な時代の私がいる、こうした恩人には今の私の実存という個人的な因縁という意味では感謝している。しかし、結局人間も世界はなるようにしかならない・・・??

あるいは本当に幸福や平和を達成したいなら、これからは努力を積み重ねた人間による経済活動や国際外交や、ましてや抑止力としての軍備ではなくて、もっとも基本的な、人間の欲望の抑制という方向にしかないのかもしれない。

正観さんの幸福論、ちょっと長いが、この本を手放すこともあって、引用してみることにする。ほかでもこういう話は読んだことがある。また人は自分が意識する前に自分の言動がすでに決定されているという最新の「脳科学的常識(養老猛)」にも、ある意味で合致するようである。

すべてを淡々と受け容れる 
 今、生きている自分の人生が、生まれる前に全部、自分の書いたシナリオであったということを認めることができると、達成目標や、努力目標はいらない。喜ばれる存在であればいい。それはイコール、頼まれごとがあればそれでよし、ということと同じ結論になってきます。生きることに力を入れる必要がありません。生きることに気迫を持って臨む必要はないみたいです。
 夢や希望をたくさんもってそこに努力邁進しなければいけないという人生は、もしかしたら、そのように洗脳された結果なのかもしれません。生きることにそんなに力を入れなくてもよいみたいだ。頼まれごとをするだけで、努力目標や達成目標は必ずしも立てなくてもいい。
 楽しい人は立ててもかわまないのですが、必ずそれを打ち立てて、そこへ向かって歩まなければならないということはないように思います。
 しかも、生まれる前に、全部、自分でシナリオを決めてきた、その書いたシナリオのとおりいろいろなことが起きてくるので、そこで起きたことに対して、とやかく不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句、否定的な言葉を並べて、論評・評価するよりは、それを淡々と受け容れて、「ああ、そうなりましたか」と生きていくことの方が、はるかに楽な生き方でしょう。

最近科学の一分野として「幸福学」というのがあるそうだが、それによると幸せな人(数値による定義あり)の近くにいる人は自分の幸せが40%アップするらしい。間接的な知り合いにも、40%より数値は減るが、幸せが「伝染」するのだそうだ。なんだかちょっとあいまいだが・・・正観さんの話と考え合わせるに、おそらく、幸せな人は受け入れる力の高い人であり、その人の傍にいるとそのままの自分が受け容れてもらえるから幸せを感じ、その幸せ感をまた自分も人に与えられるということなのだと思う。

大きな夢や目標をもって努力しなくても、人は幸せになれるし、人を幸せにできる・・・ということである。というより、むしろそっちの方が、これからの生き方なのではないだろうか。

私の愚痴ばかり言っている知人に関して言えば、彼女はそうなるべくしてそうなっている、だから私がどうこう思う必要はない。ただ彼女をそのまま受け容れて、たまたま私が感動した読みやすい本を送ってみる。それを読むかどうか、読んで彼女が少しでも幸せになれるかどうかは、もう私の考えることではない、ということであろう。

正観さんは2011年に62歳で亡くなった。早すぎる死のように思えるが、頼まれて年に300回もの講演をし続けた結果疲労しきったといわれている。何もかも悟りきっての、平和な臨終だったそうだ。長生きが必ずしも幸せを意味することではないと私も常に思っている。実に素晴らしい死に方だと思う。

この本のラストに書いてある言葉を挙げておく。

神のプレゼントの意味 
 「感謝」ということの本質は、どうもラテン語という古いヨーロッパの言語を考えた人が、次のように気が付いたようです。pastが過去、present―プレゼントが現在、未来がfuture。
 神の立場からすると、今あなたにあげているもの全部が、神のプレゼント。要求をぶつけて、「何が欲しい、寄こせ」と言っている人がいたら、神はそういう人間にさらなるプレゼントはしない。
 いま目が見えること、耳が聞こえること、食べられること、話せること、歩けること――そういうことの一つひとつ、いま自分が一身に受け浴びているものが、実は全部、神からの、宇宙からのすでにいただいているプレゼントです。
 いま受けて、浴びているものがプレゼントなのであって、今手に入っていないものを「寄こせ、寄こせ」と言い、それが手に入った場合だけ「プレゼント」だ、というのは失礼です。


あるべき社会なんて、分かるはずはないのに、不平不満ばかり述べている私。


 目の前の現象についていちいち論評・評価をしない。否定的な感想を言わない。
 タ行「淡々と」
 ナ行「にこにこと」
 ハ行「飄々と」
 マ行「黙々と」
 そのように淡々と笑顔で受け入れながら生きていくこと。
 そして頼まれごとを淡々とやり、頼まれごとをし、頼まれやすい人になって喜ばれる存在として生きていくこと。目の前に起こる現象についていちいち過剰に反応しないで、一喜一憂しないで生きていくこと――これがほんとうに楽な生き方なのです。


今年50歳になる私、残りの人生はこの「タナハマ」精神で生きていこうと思っている。



『釈迦の教えは「感謝」だった』①~愚痴を繰り返す知人へ






私には、夜中でも早朝でも電話をかけてきて、何時間でも愚痴をこぼし続ける知人がいる。去年、3年間にわたる闘病を続けた年下のご主人を68歳で亡くし、寂しいやら、親族や友達との付き合いがうまくいかないやらで、お酒を飲んで身体を壊し、一度は入院までしてしまった。

私は彼女とそう深い付き合いではない。もう5年も前にたまたま旅先で彼女のご主人とも出会ってちょっとお世話になっただけの縁である。しかしその後細々とした電話による交流が続き、ご主人のお葬式は行けなかったが、四十九日に行ってきた。遠くの島に住んでいる。

彼女の愚痴は同情に値する。小さな田舎のコミュニティには珍しく国際的な活躍をしたご主人だけに、対外的な交流も親戚づきあいも、凡人にはない面倒な側面があり、四十九日とはいえ法要は大掛かりなものだった。私は第三者として、この法事を滞りなく取り仕切らなくてはならないというプレッシャーに押しつぶされそうだった彼女を、少しでも支えてあげようと思ったのだ。英雄色を好むというのか知らないが、ご主人には女性関係もいろいろあったみたいで、彼の遺言をめぐり前妻やその子供が絡んだりして、短期間の滞在で私が見聞きしたものは、そのまま小説になりそうな濃い世界だった。(いつか書いてみようかな)

が、あれから約1年、恨みつらみの同じ愚痴を言い続けている彼女の話を聞くのは、こちらとしても耐え難い。聞いてあげて気が楽になるならと、先方が酔いつぶれて眠るまで3時間近く電話を繋いでいたこともあるが、しかも愚痴をこぼすのが私だけならいいが、だれかれ構わず同じように(前妻の子供にまで)愚痴っているのだから、いやになってくる。ご主人の遺言を巡っても、知人の弁護士や彼女の地元の弁護士に相談をして、いろいろアドバイスをしたのだが、どんなに親身になったところで、こちらの話には聞く耳を持たず、ひたすら愚痴る。それを聴いてあげたり励ましたりしたところで、まったく効果がない。元々彼女を私に紹介した、同じ島に住んでいる知人は、「旦那も居なくなったんだし、好きなだけ酒を飲んでも誰にも文句言われないし、それで死んでも幸せだよ」とあきれ返って放り出してしまった。

私は夜は携帯をナイトモードにし、日中かかってきてもほとんど取らないことにした。が執拗に鳴り続けるコールが彼女の悲鳴に聞こえて、時々取ってしまう・・・が、また同じ愚痴。私だってそれなりに問題を抱えているし、何より忙しいのだ。「ご主人がなくなったのはお気の毒だけど、子供を亡くしてしまった人もいるんだし・・・」とか「そんなに大好きな人と一緒にいられてよかったじゃない。嫌いな人と別れられずに一緒にいる人もいるんだから」と、とんちんかんな返事をしてみたり。

ところが、そういう意見を言うと、彼女は逆上する。そして「どうせ私なんか誰にもわかってもらえない、もう死ぬ」と電話を切ってしまう。最初は私もこりゃ大変だと思って慌てたが、このごろはその「死ぬ」にも動じなくなった。だいたい本当に死ぬ人は、こういうタイプではないと思う。

もう匙を投げたいし、電話にも出たくはないが、最後に、表記の本を送ってみることにした。ちょっと前にハマった小林正観さんの本である。小難しい本は敬遠されそうだから、こういうやさしい文章の本なら読んでくれるかもしれない。

副題は「悩み・苦しみをゼロにする方法」である。彼女に送る前にもう一度読み返した。1時間で読み終わる。最近、ライト関連の論文とか宗教関連の本を読んでいるので、いまさらこんな軽口の本なんて、って思っていたが、どうしてなかなか、これは頭でっかちの人にはむしろ理解できないかもしれない、実にシンプルかつ当たり前の「幸せへの最短距離」を説く本だと思った。


つづく


『調印の階段』②~ジェームス・ボンドより面白い重光葵の冒険



前回のブログに続く

重光葵・・・う~ん、聞いたことある、ポツダム宣言に調印した外務大臣?・・・それくらいしか知らなった私である。第一、葵を「あおい」と読んでいたが、実は「まもる」である。ほかの植物を守って堂々と咲く「向日葵=ひまわり」から取られた名前だそうだ。

外交官としてドイツ、イギリスに駐在、第一次世界大戦後のパリ講和条約日本代表、中国、ソ連、イギリス大使、そしてゴールは外務大臣――すごい経歴!ザ・外交官だ。

植松さんの小説では、重光の必死な努力にもかかわらず開戦を避けることも、終わらせることもできなかった苦闘の記録がリアリティをもって迫ってくる。そして彼は、疎開先の日光で、もう一度重要な任務の要請を受ける――重要だが、不名誉な。無条件降伏文書の調印だ。

横浜沖に浮かぶ巨大戦艦のアメリカ海軍ミズーリ号。読者はここで息をのむようにして、階段を登る主人公の緊張と屈辱を見守ることになる。シルクハットをかぶった重光が、眼下は海という、梯子段のようなタラップを義足で登りつめたところへ、普段着のマッカーサー元帥が登場するのだ、見下すように。しかし続く交渉の場で、天皇の戦争責任を追求するという元帥を押しとどめることができたのは、重光の力量に他ならない。

――世界でもっとも古い王家を、あなたは今、ここで潰そうというのかーー
 アメリカ人は自国の歴史が短いだけに、長い歴史には弱い。その点を突いたのだ。そして、すぐさまマッカーサーを持ち上げた。
――あなたは合衆国政府のみならず、連合軍の意志を変えさせるだけの力を、持っているはずだ。GHQが楽に役目を果たせて、日本人も喜んで従う方法を選んで頂きたいーー

マッカーサーの態度が変わる、「こんな切れ者の外務大臣がいるとは」。重光が国体を守り、GHQの軍政を回避したというわけか。まるで火花が散るような緊迫シーン、外交って戦いなのね。彼の右腕であり後に日本初の国連大使になる加瀬俊一が言う。

「戦争には負けたけれど、外交で勝った。日本の外交が勝ったんです。」

しかし、終戦後に移った鎌倉の平和な日々は続かなかった。マッカーサーの信頼を得た重光だが、駐ソ時代の因縁から巣鴨プリズンにA級戦犯として収監されることになる。先に判決ありきの戦勝国による戦勝国のための国際ショーであり、正当な根拠があって裁かれるわけではない。獄中で松岡洋祐が「国際連合に加盟してくれ」と重光に託して病死。東条英機は「戦争のかたりべになってくれ、あの戦争を止めることなんか、誰にもできなかったことを、書き残して後世に残してくれ」と遺言し処刑された。重光は禁錮7年(後に減刑)、そこで歴史に残る手記を書き上げた。

そして最後の階段は、1965年12月、ニューヨークの国際連合会場の演壇だ。(とはいえこの調印にこぎつけるまでにも、アジア諸国からの支持を集めたり、フルシチョフと会って日ソの国交回復を図るなど、重光の苦闘は続いた。)当日、演壇で英語でスピーチする重光。外交官人生最後の栄光の瞬間である。

――今日の日本の政治、経済、文化は、過去一世紀にわたる東洋と西洋、両文明の融合の産物です。そういった意味で、日本は東西の架け橋になり得る。このような立場にある日本は、その大きな責任を、十分に自覚していますーー

苦学して外交官になり、テロによって脚を失い、係争中の国々の公使大使として政府や軍に捨て石にされ、反戦の努力を続けて来たのにGHQに投獄され、それでも日本の国際社会復帰をあきらめなかった男。

歴史の教科書には一行ぐらいしか出てこないような人物だが、こんな外交官がいたなんて。戦前から戦後まで、これほど長期にわって国際舞台に立ち、昭和天皇、チャーチル、マッカーサー、フルシチョフといった大物に持論を説き――まさに波乱万丈である。戦争は哀しい事実だが、こんな有能で度胸ある外交官がいなかったら、もっと大変なことになっていたのかもしれない。現在の在日米軍や北方領土問題も、当時の日本が九死に一生を得るための、ぎりぎりの外交交渉の副産物、というか取引条件だったのかもしれないが、今の時代に、これらの条約を改正したり、彼の国連スピーチの意志を継いで、アジアのリーダーたる国を目指すような外交官や政治家は出てこないものだろうか・・・

それにしても、こんなたいへんな重光の人生を、彼の暮らした地名と、彼の登った階段をモチーフにして、一冊の本に書ききった作者の手腕もまたすごい。ザ・外交官重光の、世界を舞台にした歴史的人物との駆け引きは、つねに時間との戦いであり、時に碧眼の美女たちも登場するし(!)、この上質なスリルとサスペンスは、007より面白いんじゃないかな~。いやあ、植松さん、すごいなあ。


文庫本も出ています。アマゾンで発売中



『調印の階段』①~こんな外交官がいたのか!



この頃ハマっている歴史小説家、植松三十里さんが2012年に書かれた『調印の階段』。

この連休中、滞在していた伊豆高原の家から用事で逗子に行く電車の中から読み始め、夢中になり、乗り換えの駅を何度も乗り越しそうになった。

熱海までの伊東線も、そのあとの東海道線も横須賀線も、観光客で溢れて騒々しいはずだったのにまったく気にならず、あるいは、車窓から見える新緑にあふれた山やキラキラした海さえも見ずに、没頭した。ーーそれほどにスリルとサスペンスに満ちた小説なのだ。

その日の往復約6時間、私はこの主人公の重光葵と上海に行き、大分へ行き、ロンドンへ行った、しかも戦時中の…そして、伊豆高原に戻った私はひと眠りした後夜中に起きて、再び重光葵とともに東京へ行き、日光・横浜・鎌倉・巣鴨、そしてニューヨークへ…

ああ、たった一日で、私はこの素晴らしい外交官とともに、ハラハラドキドキ、時に涙を流しながら、テロや空襲におびえ、昭和天皇やチャーチル首相に謁見し、囚人としての日々を過ごし、最後は国際連合の大舞台に立った――

と、そこまで主人公に感情移入できたわけではないが、小説の素晴らしさは、自分が絶対に体験できない世界を、絶対会えない人たちとの出会いを、主人公を通して、垣間見ることができることだ。自分の人生には起こりえないとんでもない苦労や栄光のドラマを、一日で凝縮して味わうことができること。そのためには主役のヒーローが魅力的に描かれていなくてはならないだろう、この小説のように。

先にあげた地名は、実は本作の目次である。外交官重光葵のストーリーが戦前の上海における爆撃テロに始まり、戦後のニューヨークにおける国際連合の加盟調印に終わる、という展開になっている。

そして本のタイトルにある通り、各所で重光が重要な階段(ステップ)を文字通り上がることになる。

そう、最初の階段は、昭和7年、駐華日本公使として天長節に臨んだ上海の公園に設置された雛壇の階段。壇上の重光は国歌斉唱中に朝鮮人のテロに炸裂弾を投げつけられる。前年には上海事変が起きている。満州国との境界で緊迫状態になった日中間が戦争にならず、「事変」でなんとか収まったのは、松岡洋祐(当時代議士)とともに、重光が現地の陸海軍トップ(野村吉三郎海軍中将、白川義則海軍大将)を瀬戸際外交で説き伏せて停戦に持ち込んだからなのだが、この三人が壇上でテロの犠牲になったのだ。白川大将は間もなく亡くなり、野村中将は片目失明、そして重光は右脚を失う。ーーと、小説は初めから緊迫シーンの連続で読者を引き込んでいく。

次なる階段は、帰国後に福岡から故郷の大分行きの列車に乗り込む際のステップ。大衆に見守られるなか、不自由な義足と松葉杖で、傷ついた郷土の英雄を演じきった。別府温泉でのきついリハビリを、自分の栄達のために犠牲になって働いた母や、急激な西洋化の動きについていけなかった誇り高い漢学者の父を思い出しながら乗り越えてゆく。重光の挫けそうな心を、山菜取りの婆に身を替えた亡き母の幻影に励まされる、という下りを読んだときは、涙が出てしまって困った(何しろ私は電車の中だったので)。

彼の外交努力もむなしく、日中戦争がはじまってしまう。国際協調路線で志を同じくしていたはずの松岡洋祐(この時外務大臣)が、満州国の是非をめぐって国際連盟を脱退し(TVのドキュメンタリーでよく出てくるあの有名なシーン!)日本が国際的に孤立し始めるという難しい時期を、重光は駐ソ大使、駐英大使という、まさに外交の瀬戸際、あるいはほぼ捨石的な立場に置かされる。ロンドンでは国王謁見のためバッキンガム宮殿行きの馬車のステップを昇り切り、後に首相となるチャーチルとは腹を割って語り合えるほどの外交手腕を発揮したが、日本の同盟国であるドイツとイギリスの戦争が始まってしまう。単身赴任の公邸暮らし、そしてその公邸をも爆破する空襲のなかでギリギリの折衝を一身に引き受ける彼の努力は次々と水泡に帰してゆく…

東京に戻った重光は、天皇や近衛文麿首相に戦争回避を直言し、彼等の意志も固かったが、陸軍を抑えることは、陸軍大臣の東條英機が首相になったところで難しかった。本書では、この辺りの複雑な、日本がどうしようもなく大戦に突っ込んでゆく、責任者不在のあたふたしたくだりが、重光の立場から、なかなか巧みに表現されている。対米開戦後でも彼は最善策を模索し、「対支新政策」を作る。

とりあえず開拓の進んだ満州だけは手放せないなら、「ほかの都市を中国人に返してしまえば、日本は泥沼から抜け出せる・・・そのためには外交交渉を進めるしかない。まず中国側が歓迎する施策を実現し(対中不平等条約の改正)・・・租界を中国人の統治下に戻すのだ。」

そして「正義は外交の最大の武器」として、欧米の植民地からアジア諸国の独立を日本が手助けするという手段を思いつく。これが紆余曲折を経て「大東亜共栄圏構想」へとつながるわけである。なるほど・・・こういう解釈というか背景があったのか、大東亜共栄圏って。

重光は、東條に代わる小磯國昭内閣で外相に任命されたが、小磯首相は独断で、アメリカ寄りの蒋介石と接触しようとして、大東亜共栄宣言によって集まったアジア諸国の期待を裏切ろうとする。ここまでくると、政権は閣僚の意思統一も何もない、まさに破れかぶれの様相だ。重光は、最後の切り札として、「鶴の一声」、つまり天皇のご聖断に期待をかけて働きかけるのだが・・・

東京での階段は、息子とともに間一髪で飛び込んだ防空壕の梯子段である。東京大空襲で自宅は全焼した。

外務大臣の地位に上り詰めても戦争を終わらせることができない。しかし、重光にはまだ重大な任務が残る・・・

(つづく)


『群青』②~日本の大恩人



前回のブログに続く
『群青』①~ヒーローになれなかった男

日本海軍の基礎を築いた男、矢田堀景蔵。勝海舟の影に隠れてヒーローになれなかった男、と書いたが、ヒーローになりたくもなかった男、なのだろう。自分にとっての大義を果たすことが重要で、それが世間に知られよう知られなかろうと、関係のないことだ。まさに「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」である。

海軍総裁まで務めた矢田堀だが、晩年は無関係な部署つぎつぎ配属され辛酸を舐めたようである。その頃名を変えた、矢田堀鴻と。

 燕や雀のような小さな鳥には、鴻鵠という大きな鳥の志など理解できない、という意味の故事成語だ。この言葉から、あえて鴻の一文字を取った。
 自分は、ただひたすら日本の海を守ろうと努めた。だらか内乱には反対した。ただ守りに徹する軍備という志を、どうしても周囲に理解してもらえない。そのいきどおりを、みずからの名前に込めたのだ。

と、植松さんは書いている。矢田堀は退職するまでなんと12か所もの部署を回されたが、いずれもきちんと勤め上げたという。

勝海舟と、昌平坂の同期で同じく海軍で活躍した木村摂津守が、先に逝った矢田堀のお墓の隣に石碑を建てた。この本は、この二人の墓参からストーリーが始まっている。

小説だから、多少の脚色はあるだろう。しかし、こういう人物がいて国防のために海軍を作ったというのは事実であり、こうした人の努力で私は今日本人として生きていられるのだ。私はその恩人への謝意と彼を讃えた石碑を見たいとの気持ちから、早稲田にある宗源寺に行ってみることにした。



地下鉄東西線早稲田で降りた。ケータイのナビが分かりにくくて、歩いていたら大きな鳥居があった。流鏑馬で有名な穴八幡宮だ。境内はどこも新しくなっている。平成のきょうびにこんな立派な普請がまだ行われているのに驚く。銅葺きの堂々とした本殿の柱も壁もコンクリートというのが現代風だが。氏子の力があるのだろう。地元民らしい人たちがひっきりなしに参拝に来ていた。

宗源寺はといえば、駅を挟んで反対方向にあった。穴八幡宮に比べるとずいぶんさびれてしまった感じがしなくもない。寺は今風と言えば今風だが、どちらかというと住職のプライベートな住居という感じで、道路を挟んだ反対側にコンクリートの高い塀に囲まれた墓地があったので、勝手に入ってみた。

本当にここに彼のお墓があるのかなあ・・・小さな墓石が何列にも連なって並んでいる。あれだけの歴史的人物のお墓がこんなところに・・・探してみたけれど見つからない。

仕方がないので寺のドアホンを押してみた。すると若い感じのよい住職さんが出てきて案内してくださった。先ほどの墓地の一番はじの列にあった。勝と木村が書いたという石碑は戦争で壊れて今はないのだという。

小さなお墓だった、かなしいくらいに。しかもあちこち苔むしていて、側面の文字がよく読めない。

以前は海軍関係者が墓参していたそうだが、その関係者もなくなり、ひ孫を名乗る人もいらしたそうだが、このところ来ていないらしい。

私はブラシを借りてそれを洗った。海の男に苔は似合わない。初夏を思わせるような日差しに乾ききった墓石をゴシゴシこすって苔を落とすと、そこにたっぷり水をかけた。あゝ願わくば太平洋の見える所に建ててあげたい、こんな都会のコンクリートの中ではなくて。

「おかげさまで、こんな平和な時代になりました、ありがとうございました、ありがとうございました」と唱えながら、線香をあげた。


宗源寺にある矢田堀の墓。戒名に「航」の字が入っている

明治二十年十二月十八日俗稱矢田堀鴻、とある



『群青』①~ヒーローになれなかった男



歴史小説家、植松三十里さんに興味を持った私は、彼女の作品を読むことにした。
『おばさん四十八歳小説家になりました』①~を私が読むきっかけになった満州国のこと
『おばさん四十八歳小説家になりました』②~歴史作家の自叙伝

まずは『群青』、新田次郎賞受賞作である。

一気に読んだ、面白かった。

軍備、留学、外交、貿易――現在当たり前のように行われているこれらが本格的に始まったのは幕末であるが、この本を読むと、それらのいわゆる「ことはじめ」が実に良くわかる。主人公の矢田堀景蔵は、一言で言えば、勝海舟の影のような男である。彼に手柄を全部持って行かれた日陰の人生・・・現在からみればそいういうことになるが、幕末の典型的なエリートの一人であった。幕臣の子弟として昌平坂学問所の神童だった彼は、当時黒船の来襲を畏れる幕府に抜擢され、長崎に様式海軍術の伝習所を開く。

西洋の列強に渡り合うためには同程度の軍事力が必要、いくら平和な通商条約が前提でも、丸腰では舐められてしまう、何しろ時代はまだ武士の時代。(といえば当然の論理であるが、ここでいう軍事力とはすなわち「軍艦」であり、この理論は北朝鮮の「核ミサイル」と何ら変わりはないような気が・・・)

背水の陣に立たされていた幕府は、唯一貿易をしていたオランダに軍艦を二艘発注し、その操船の人材育成のためにオランダ人から技術を習うのであるが、これがまたとんでもない苦労で・・・生徒監という、伝習所の先生のような立場にある矢田堀はまずオランダ語から学ばなければならない。ここに矢田堀と同僚格の蘭学者、かの勝海舟がオランダ語の通訳として登場するのだが、全然通じない・・・(だろうなあ)。しかも専門用語の応酬、そもそも見た事も聞いたこともない操船の機械や概念の訳語もなく、それを習得するために数学という新しい学問も必要となり・・・寝る間を惜しんでの「座学」とコミュニケーション障害の中での「実技」(当然ながら大砲の打ち方も含まれる!)、ここで体育会系の勝海舟はさっさと座学をあきらめたらしい。

この本を読んでいてつくづく感じ入ったのは、「知」が「武」の基礎を作ったという事実である。海軍という新しい分野を切り開き、軍艦を買って、人を訓練し、国を守る、このベースを作るために、当時矢田堀をはじめ多くの人たちがこれほどの勉強をしなければならなかったという事実だ。勉強とは、高給をくれる会社に入るためにいい学校に入るという個人的な目的ですることではなかったんだ、ということを思い知らされる。留学もしかり。個人の世界を広げるなんて言うことではなく、当時の留学はお国のためであり、エリートたちのプレッシャーは、ほとんど廃人寸前のレベルである。矢田堀のもう一人の同僚も、勉強についていけず鬱になっている。

ちなみに日米通商条約の批准のために、初めて日本人による航海を実施することになったのだが、当然のことながらアメリカの海軍に学ぶための留学も兼ねていた。艦長を任命されていた矢田堀であるが、実際に行ったのは、やはり体育会系の、ろくに操船もできない勝海舟であった、あの有名な咸臨丸の艦長として。

とはいえ、両者は必ずしも反目していたようではないらしい、これは小説なのでどこまでが真実かわからないが・・・真面目な矢田堀とおおらかな勝は、それぞれの特質を生かして果すべき役割があり、尊敬しあっていたようである。

遠州灘ですら難破したという時代に、よくあのいい加減な艦長をして太平洋を渡れたなと感心するが、この本にそのくだりは出てこない。しかし、矢田堀の片腕だった榎本釜次郎という男が実際の操艦に当たり、彼がのちに、軍艦を盗んで函館に逃走した榎本武揚で、その辺のエピソードはかなり面白い。

幕府と、薩長をはじめとする反体制派のち官軍の争い、とりわけ徳川慶喜の一貫性を欠くような行動に振り回されながらも、矢田堀は海軍総裁の地位に上り詰める。諸々のエピソードがあるが、彼の昌平坂の師であり、日米通商条約の交渉役だった岩佐忠震(ただなり)が、大老井伊直弼の明確な承認、つまりは天皇の詔勅を得ずにハリスとの調印をするというくだりは迫力があった。この調印なければ、つまりアメリカの後ろ盾を得なければ、イギリスが攻め込んでくるという切羽詰まった状態を、岩佐という一人の男が打開したのである、切腹覚悟で。幕府も、ましてや雲の上にいる天皇にも、分からない分かりようのない、命がけの外交・・・今も昔も外交とは協力とぎりぎりのラインでの騙し合いのようなもので、きれいごとではないのだと思う。当然ながら、岩佐はこのあと失脚し、失意の中で死んでゆく。

ここで一国がまとまらなければ、内乱は必至、それは中国に見るように亡国への道である、よって攘夷派の恨みを一身に引き受ければ本望だと、そういう先見の明と気転と度胸と犠牲的精神のある武士がいた。岩佐という恩人への供養にもなれと、海軍の基礎を整えていった矢田堀もまた武士らしい生き方を全うした。

当時蒸気船を動かすには、船の底で絶えず石炭を燃やし続けなければならなかった。その過酷な仕事を担った火夫、また最終的にはいつも頼りになった和船の水夫、こういう人たちとともに仕事をしてきた矢田堀は、歴史に名を残すことに執着しない。開国時代の日本の、平和のための軍備という「大義」に命を懸けた。

矢田堀が、甥の荒井郁之助(榎本について五稜郭へ行き、後に初代中央気象台長となった)に言った晩年の言葉は感動的だ。

「歴史に名を残すのは、戦争をした者ばかりだ。信長公しかり。家康公しかり。戦争に反対したものは、反対しながらも戦争を止められなかったのだから、評価はされない。戦争に反対したものは、歴史に名を刻むことはできないのだ」

「私は歴史に名を残さないことを、むしろ誇りに思う」



フランク・ロイド・ライトの予言④~明治から平成へ


前回のブログに続く、ライト関連の本を読んでとりとめなく考えるシリーズ
フランク・ロイド・ライトの予言③~環境との一体感


このところライトの理想と現在の東京の現実のギャップにやりきれない思いになる。ライトの見た日本は、今よりずっと文化的だったとは思うが西洋化を急ぐ様子を嘆かわしく思っていた。時代というのはおかしなもので、過去はおおむね良く見える。

私の住んでいる団地が建ったころ、つまり1960年代は、今ちょっとしたブームである、レトロ感がもてはやされている。しかし、当時の人たちはビルばかり建つ東京に不満があったかもしれないし、団地のような白い箱を風情がないと非難したかもしれない。昭和30年に書かれた木村荘八の『東京風俗帖』などはまさにその通りで、明治26年に生まれ両国界隈に育った彼は、古き良き時代を後世に伝えるべく、江戸情緒の消えてゆく明治、震災に見舞われた大正、そして戦争で焦土化しながらも急速に復旧した昭和にいたる東京風俗の変遷を事細かに記している。永井荷風による有名な新聞連載小説『墨東奇譚』の挿絵を描くなど、画家としても有名な彼の、江戸の空気を伝えるカットもたくさん載っている。そもそもこの本も新聞に読売新聞に連載して評判となった『東京繁昌記』がベースとなっている。

これを読むと、ライトが来日した当時の東京の様子も、今に至る無秩序無計画的都市の発展の原因も見えてくる。どうやらそもそもの発端は、明治5年に起きた大規模火災だったらしい。4月3日、今は銀座大火と呼ぶらしい。午後3時に和田倉門の内の旧会津藩邸から出火し10時に鎮火するまで、築地、銀座一帯の約29万坪、民家5千軒が焼け、罹災民は約2万人に上っている。「樹立早々の革命政府にとって、都市は木造家屋ではダメだ・旧江戸のやり方はだめだ、と烙印を押して実証を見せた程の、天災だった」とのこと。そこで「東京不燃焼化計画」の先駆けとして銀座のレンガ化構想が東京府知事の由利公正や大久保利通を中心に始まった。「巴里、倫敦」の街並みをめざし、銀座8丁目当たりの長屋の住人を追い出して、国費をつぎ込んでレンガの家並みを造ったが、日本の気候風土になじまなかったらしい(住めばみなゲジゲジに舐められて死ぬ、と言われたほど湿気たとか)。

日本画も仏頭も堂塔も破壊したほどの旧時代の否定、江戸の破壊が、明治新政府のやり方だったと思えば、そもそも近代日本は最初から文化より経済優先社会だったのであり、当時もその後も戦中戦後を通じて、家が焼かれて明日の生活も知れない状態もあり、生きることに必死、稼ぐことに必死、国民全体の住環境がある程度満足したのは近年のことなのだろう。そしてバブル崩壊、リーマンショック。毎度長続きしない政権、既得権益の確保以外は思考停止の官僚主義・・・

明治以来現在に至るまで、世界大戦や通商拡大を含む怒涛の国際化にさらされて、激しい経済変動の中、私たち国民が日本古来の文化の意味を問うゆとりなんてなかったのだ。震災や戦災の度に作られた都市計画もあったし、これまでに幕張副都心計画などいくどか東京の一極集中化の緩和策があったが、政権が変わればまたそれは白紙に戻り、民間も目先の経済的効果を優先するため、長期的な計画の実施は不可能だった。

今の限りなく劣化する(と私には映り、またライトの思想とは真逆の)東京も、長い目で見ればこうなるしかなかった、ということになる。そしてこれから先も劣化し続け、今の時代が、あとの時代から見れば、あこがれの対象にすらなりうる・・・信じられないが!

私は子供のころ、トタンとブリキとプラスチックとスチールが発明されなければどんなに町や暮らしが美しかったであろうと思っていた。おばあさんになったら、純和風の家に住み、台所には竹の笊や木製の調理器具だけ置いて暮らそう、と決めていたヘンな子供だった。でも今は自分が生まれたころの60年代のレトロなオレンジ色のタッパーが好きだし、トタンの錆びた感じに萌えたりする。だから、いまの安っぽいサイディングの建売住宅だって、未来の人から見たら素敵に見えるのかもしれない。

昨日神楽坂を歩いていたら、レトロな建材を使った大きな建物があった。まさに60年代の体育館みたいなつくりで外装は合成樹脂っぽいトタン風な壁、その名も「la kagu」というトレンディなセレクトショップだ。カフェやワークショップスペースもあり、Tシャツが1万円近いブランドの服や、3万円以上の眼鏡や、国産にこだわった調味料や、明治時代っぽい食器などが、すっきりと優雅に並べられ、流行っぽい音楽がかかり、店員もファッション誌から出てきたような人ばかり・・・ちょっと前の私ならワクワクした空間だったが。スタイリストなどが自分のこだわりの食器や古着を見せびらかす、よくある雑誌の特集が三次元になったような世界――私はもう「卒業」したかな。自分は自分のスタイルでいいから。それになんだかんだ言って、たまたまそうしたスタイリッシュなすっきりした空間が流行っているだけで――置いてあるものは例によって籠とか革のスリッパとか、どこでも同じ――そんな価値観にどこか空々しいものを感じてしまう、つまりは、しょせん商売である、伝統文化をレスペクトしているように見せながらも。

脱線したが、トタンというかつては安普請の間に合わせの建材が、トレンディだという話である。

そんなこんなで、時代は変わるし価値観は変わるので、昔の人たちが過去に引き比べて自分たちの時代を憂いたことをぶり返しても仕方ないのだけど、一度こういう作業はしておいてもいいかもしれないし、ライトが見た当時の日本を考えるうえでも参考になると思う。なぜなら今の価値観や尺度で歴史を見ると、勝手な解釈になり、見失うものが多いから。というわけで、江戸から東京になったころの日本について、しばらく考えてみたいと思う。


フランク・ロイド・ライトの予言③~失われた景観

ライトの予言シリーズ第三弾
フランク・ロイド・ライトの予言①~理解されなかった建築家
フランク・ロイド・ライトの予言②~日本人の住環境を考える


ライトが自由学園明日館を作った時、設計図にはたくさんの樹木を描き込んでいる、かなり具体的な描写で。当時雑司ケ谷と呼ばれたあの一帯は、江戸時代は将軍のお鷹狩の場所であり、学園ができた大正時代は麦畑があったという。池袋のビル群を後ろに控えた現代の様相とはまるっきり違っている。自由学園は「草原住宅様式」とよばれる、自然の景観と一体感のある、高さを抑えた、軒の長い、まさに大地から生えてきたような建物である。「校舎が木なら生徒は花、木も花も本来はひとつ」とライトは書き、当時の新聞記事には、「十二単衣を着た様な女子学習院や兵営を見る様な日本の一般の学校建築を見なれた眼にはそれこそ自由学園の名に相照子供の学びの園だという感じを一層強く与える」とある。

重要文化財自由学園明日館。一度でも行ったことのある人は、あのいかにも田園的な建物が一面の麦畑に建っている様子を想像してみてほしい。なんと平和な美しい景色であろう。広々とした芝生の庭を持つ建物をライトはさらに多くの樹木で囲んだ。建物を決して単独でそこに置いたのではなく、建物と周辺の平面的な土地を、大小の植え込みによってつなぐことで、全体的な一体感をより強調したのだと思う。校舎の前面はすべて作り付けの花壇として設計している。植物と建物は切っても切り離せない関係なのである。学園の前には創立者の羽仁夫妻の家があった。ライトはそこから植物を移植している。予算ぎりぎりだった羽仁夫妻はよろこんで自宅の庭の樹木を提供した。

ところが、である。1997年に明日館が重要文化財に指定され、ライトが建てた時よりお金も時間もはるかにかけて大がかりな修復がなされたのだが、その際に建物周辺の樹は消えてしまった。税金をつぎ込んで復元された文化財は未来永劫保護しなければならず木の葉が散ると屋根が傷むから、という理由であった。手入れも楽になっていいと、たしか関係者の誰かも言っていた(私も関係者のはしくれだったが)。

ライトにとって建物は単体で存在するのではない。ライトの本を読めばすぐにわかるが、その場の材料を使い、景観にもっとふさわしい形で建てたときに初めて、建物もまたそこに住む人の暮らしも豊かなものになるはずなのである。

住宅やビルに囲まれそこだけぽつんと建っている現在の明日館はかなりかわいそうだ。見学者はそこだけ異空間であることに感嘆の声を上げるが、それはライトの本意ではない。ライトは都市集中化による問題を解決するべく、郊外にひとりが1エーカーの土地を持ち、ある程度の自給が可能なライフスタイルを提案した。このブロードエーカーシティ構想は、自動車や高速道路があって初めて可能になるという点で、当時の先端技術を取り入れたアメリカ人らしい理想の生活環境だと考えたのだ。1エーカーは約1200坪。ちょっと想像できない規模である。しかしライトは言った、当時のアメリカ人全員に1エーカーを与えてもテキサス州の大きさにも満たないと。それに対して、そうはいっても住みやすいところとそうでないところがあるじゃないかと反論した人たちがいた。するとライトは、どんなところでも快適な生活空間を作ることができると。寒冷地のウィスコンシン州と砂漠のアリゾナ州の両方を拠点にしたライトらしい答えであるが、たしかにいずれも土地のよさを生かし切った美しく豊かな住居である(写真で見る限り)。

日本も同様である。沖縄には台風に強い石やコンクリート造りの家があり、雪深い谷間の白川郷には合掌造りがある。養蚕の盛んな土地には繭を作るのにふさわしい家があり、海辺には海辺にふさわしい軽やかな家がある、瓦ひとつとっても因州瓦、能登瓦などその土地で取れる土で作ったものがあり、同様に様々な素材の石垣があり、蔵がある。そしてそれらに暮らす人たちの生活、それらの環境を作る職人――こうしたことが日本の豊かな文化を形成していた。

ライトはこうした文化を否定することなく、帝国ホテルを造るべく日本の石を探した。それが栃木県宇都宮あたりの大谷石。柔らかく彫刻がしやすい石である。建設現場には何百人もの石工が来て、ろくに言葉も通じないなかであれだけの彫刻をさせたのだから、ライトと職人双方の努力は大変なものだったと思う。ライトは彼らの職人技と新しいことに対する習得の速さに感銘を受けている。帝国ホテルはまさに日本の文化の表出であった。

『新帝国ホテルと建築家の使命』(フランク・ロイド・ライト著・遠藤新訳)より

新帝国ホテルは単に日本の建築という意味で設計してはいない。これは芸術家が日本に対する、しかもその特質に於いて現代的であり、かつ世界的なる寄与であるという意味で設計されている。
建築について観れば、細部には、何かしら日本らしいもの、あるいは、何処ぞ古代の建築らしいところがある。しかし、その形式も、模様も、工夫も一つだって、何処かから借りて来たというようなものは見当たらない。
要するに、古き日本に敬意を表しているという一事に尽きる。

フランク・ロイド・ライトの予言②~日本人の住環境を考える



建築家フランク・ロイド・ライト関連の本を読んでとりとめなく考えるシリーズである。フランク・ロイド・ライトの予言①~理解されなかった建築家


ライトの建築哲学を読むようになって、東京の街を歩くと、私はとても悲しい気持ちに襲われる。現代の東京に、立派な和風建築はほぼない。あるとしても昔の大名庭園跡にある茶室ぐらいだ。ときどき街の中に戦争で焼け残った感じの木造建築も見かけるが、周りとはあまりに調和しないため、窮屈でかわいそうに見える。私が東京に来た25年前には、まだ見るべき「お屋敷」もあったが、それもほぼなくなってしまった。

ライトの目指した理想的な住環境と、今の日本は真逆すぎる。

もともと和風建築あこがれを抱いていたライトが、自然との共生を実現している日本の、新しく生まれ変わらんとする首都東京に、既存の洋風の建物ではなく、真に日本に合った洋風建築を提示しようと造ったのが帝国ホテルであった。

日本は、いわゆる洋館をちょっと手際よく作ることを覚えて来た―否、かなり旨くもやってきた。例えば、かの三菱銀行のような―棺桶―・・・これが日本と何の関係があるというのか、―屈辱―むしろ笑い草だ。現代日本が、いかに、自分の姿を見失っているかを明白に示しているに過ぎない。
これまで見る所では自分は、日本人は模倣の空疎、無意義を発見しているとは思われない。彼等は、むしろその無意義を溺愛している・・・思うに日本は急激な変革を経た惑乱の間に、おぞくも、善悪軽重のけじめを見失ったのだろう。そして、しかも自ら気づかないのであろう。(『新帝国ホテルと建築家の使命』遠藤新訳)

現在私たちが文化財として自慢したい辰野金吾の東京駅も、コンドルの三菱何号館も、ライトから見たら中途半端に西洋風の滑稽な建物と写っていた。ああ、ましてや、今の東京を見たら…きっと日本人は正気の沙汰ではないと思うであろう。

ライトによれば明治時代にすでに日本人は自分の姿を見失い、模倣や無意義を溺愛しているという・・・そのなれの果てが現在なのであろう。

私の住む団地を例にとろう。かつて団地は文化住宅と呼ばれ、最初に入居した人たちは多数の応募者の中の、籤引きによって選ばれた大変にラッキーな家族であった。が、ライトが見たら、この白い箱の集団は風情がなさすぎると非難するに違いない。コンドルの三菱銀行が「棺桶」なら、団地はさしずめ「養鶏所」か。

しかし、しかしである。

昭和43年に造られた5階建て6棟からなる250世帯の分譲団は、いずれの家も南向きで明るく風通しがよく、夕方まで電気をつける必要もないし、冬は奥まで日が差し込むように設計されている。ベランダからはたくさんの桜の木に囲まれた公園が見える。団地の敷地全体もまた大きな欅、樅などに囲まれ、あちこちに多種多様な梅、椿、杏、夏みかん、木蓮、辛夷、鈴懸のなどの樹があって、その下には八つ手、紫陽花、薔薇、チューリップなどが植えられており、各棟の下の花壇には、菊、つわぶき、牡丹、萩、躑躅、杜鵑・・・等々いちいちあげていたらきりがないほどの花があり、広い駐車場は高い紅かなめの垣根によって、視界から見えない設計になっている。

ところがいつのまにか団地の価値は下がった。類語辞典で見ると、「団地住まい」は「わび住まい」とか「あずまや」などと一緒に出てくる。「私、団地に住んでるの」というのは決して自慢には聞こえない。マンションや一戸建てのほうがステータスが高いようだ。

しかし、どんな高級で高層のマンションの周りに人工的な植え込みがあっても、団地の有志の人たちによる花壇のあたたかさはない。大木が広々と枝葉を伸ばし、落葉するようなスペースもない。鶯も盛りの猫の声も蟬しぐれも聞こえない。ベランダに差し込む太陽に堂々と洗濯物も干せない。

一戸建てもしかり。そもそも庭がない。駐車場は狭い。どうやってあの狭い路地を車で通り、あのスペースに駐車するのか不思議なくらいだ。その狭いスペースに、家に収まりきれないのか様々なものが置かれている。家と家はくっついて窓から見える景色もない。それでも一戸建てはステータス、一生をかけてローンを返済するに値するのだろう。経済的価値は高い。

うちの団地は60平米にも満たないが解放感があり狭さが気にならないのは、大きな窓から見える空と公園が壁であり床であるからだ。窓から見える景色が重視されていた時代があった。ガラスを壁代わりに多用したライトの自伝にこう書いてあった。

The dawning sense of the Within as reality when it is clearly seen as Nature will by way of glass make the garden be the building as much as the building will be the garden: the sky as treasured a feature of daily indoor life as the ground itself.  
 You may see that walls are vanishing. The cave for human dwelling purposes is at last disappearing.  (An Autobiography)
現実的に「室内」にいるということの新しい感覚、それはガラスの存在によって自然が庭そのものを建物とし、建物もまた庭になるということである。空も地面と同じく、日々の室内における生活の大切な一部となる。 
壁は消え、人間の穴倉生活が、ついに終わったのである。

東京の住まいは穴倉時代に逆戻りしつつあるのか。

一方で、わが団地にも経済の魔手は伸びている。某有名不動産会社がディベッロパーという肩書でやってきて、容積率を今の20%から100%にするという。5階建てを11階建てにするという。11階建ての後ろの建物の下の階には日が届かない。部屋の大きさも一様ではない。そして私たち住人は、お金を足さない限り狭くて日の届かない部屋を割り当てられる。もちろん、お金を出せば、高層の広い、日の当たる部屋を与えられる・・・当然のことのようにディベロッパーもコンサルタント会社もそう説明する。「こんなぼろい、狭い、耐震構造もない団地なんかによく住んでいられますね、さっさと建て替えに賛成してください」と言わんばかりに。公園の桜も伐るのですか、と聞くとこう言った。「そうですね、でもまた植えればいいでしょう」 50年間木々を愛して守ってきた人の気持ちには経済的価値がない。少なくともそうした気持ちを理解できる神経は持っていない。せめて理解しているふりだけでもしてほしかったが。

周辺の団地は都営の賃貸住宅だったので、建て替えを巡る住民の紛争もなく、ここ数年であっさり建て替えられた。目の前の二つの大きな団地群は目下新築中である。その団地の側面である駅へ続く道に何十本もの古い桜や梅や銀杏、カリンなどの樹が植えられていたが、ある日突然、たった一日でほぼ全部伐採された。住人が何十年も大切にしてきた樹、そこを通る人たちの目を楽しませてきた木。工事現場を覆うシートの隙間から中を見ると、倒された太い幹が山のように積み上げられてあった。私はあまりに突然さにショックを受けて涙が出た。が、もっとショックだったのは、それが当然のことのように受け止めている今の世間である。あれらの大木がなければ、敷地いっぱいに新しいマンションを建てることができるから仕方ないでしょう・・・これが普通のこととして受け止められている、この現代の感覚に、私はめまいがする。

日本人の住環境に対する意識の低さ、というか倒錯した価値観はすでにライトの時代にもあったようだが、どう考えてもベクトルが間違っているとしか思えない。


『おばさん四十八歳小説家になりました』②~歴史作家の自叙伝



この本を読むきっかけを書きすぎたので(『おばさん四十八歳小説家になりました』~を私が読むきっかけになった満州国のこと①)、仕切り直し。

著者は植松三十里(みどり)さん。幕末を中心とした歴史小説家で、日本海軍の基礎を築いた矢田堀景蔵を描いた『群青』で第28回新田次郎文学賞、『開国兵談』の著者の林子平の人生をつづった『彫残二人』で第15回中山義秀文学賞を受賞。その他にもたくさんの本を書かれている。

とは言いながらも――私は彼女の本を読んだことがなかった。新田次郎は知っているが、中山義秀という作家も知らない。というか、大昔、司馬遼太郎にハマって彼の本はほぼすべて読んでいた時代もあるが、今は歴史小説というのがちょっと苦手で・・・史料を読んで自分で考えるのは好きだが、小説になるとフィクションも入るのが微妙で・・・藤沢周平もなんだか甘ったるくて・・・というひねくれものの私は、時代劇も市川雷蔵シリーズ(そこまで古くなくても、高倉健の昭和残侠シリーズぐらいまでの)は好きだが、現在作られるドラマはいろいろなものがハリボテな感じがして・・・

だけど植松さんの小説は、目の付け所というか、主人公がとても立派なのにマイナーなところがすごく面白そう。彼らを顕彰しようという心意気とエネルギーに感心させられる。早速アマゾンで注文したり、近くの図書館で借りてきてみたが、とりあえず、小説の前に、彼女の自叙伝らしきものを読んでみることにした次第である。

すると、歴史上の人物の立派な、あるいは時に人間くさいストーリーを読むより、現代の人の半生記のほうが面白いんじゃないだろうか、と思うくらい、彼女の自伝は面白かった。この本のタイトルにある通り、作家としてデビューするまでの苦労話を中心として書かれているのだが、それは植松さんと同じ世代の母親を持つ若い編集者に、子育てを終えた女性たちにも、やろうと思えばまだいろいろなことができる、プロの作家にだってなれるという話を書いてほしいと言われたのがきっかけだそうだ。なので、作家志望の人には参考になるだろう、と植松さんは書いている。

しかし、それは真逆だと私は思った。私は子どもの頃から文章を書くのが好きで、できればそういう仕事がしたいと思ってきたが、まあ、翻訳の仕事は長くやってきたものの、文章を書いてお金を稼ぐというのは、絶対に無理だと、この本を読んで理解した。作家になるまでも大変だし、作家として売れ続けるのもたいへんそうだ。複数の小説教室に通い、何十本もの賞に応募して、鬼のような編集者にしごかれて・・・怠け者で面倒くさがりの私にはとてもできそうにない。そもそもそんな才能もないし! なので、この本の作者と編集者の意図は失敗なんじゃないだろうか・・・少なくとも私にとっては。

だけど、彼女の生い立ちから現代にいたるまでのストーリーはとても興味深かった。人ひとりが小説家を志すまでの道程、そして実際の作家の生活はこういうものなのかと、もちろんプロの文章だから説得力があるし、背景がよくわかる。

そういえば、司馬遼太郎にしても、自分の兵役経験に照らして、なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう、 いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう、昔の日本人はもっとましだったにちがいないという心境から小説を書き始め、でも最後は結局そのことは小説にできなかった、そんなエピソードに心を惹かれる私である。

川口という、妾を持つことがステイタスといった男くさい工場町に育った少女は人生の裏表を知らず知らずのうちに見て暮らし、小学4年で引越しした駿府城下の静岡市で歴史に開眼する――まったく人は環境によって育てられるのだ。

植松さんは自分が本物の作家になれたのは、次女が不登校になったからだと書いている。そのことをきっかけに順風満帆だった人生が暗転し、苦しみや悲しみを味わったことが、歴史上の人物の様々な葛藤を理解する糧になった、また娘のために家にいる時間があったから、小説が書けたのだと。

人生には本人が望むと望むまいとたくさんの選択肢や岐路があり、どちらに行っても得るものがあり、その分だけ失うものもある。植松さんが娘さんを通して自分の思うようにならないことの苦しみを経験されたことも貴重であるし、逆に自分の思うようにならないこともまた楽しみでもあるという境地に達したとき、さらに作家として、歴史の中の人々の人生を、強く共感しつつも達観できるようになったのだろう。

私には子供はいないが、妹に二人の息子がいてどちらも不登校になった。私の母はすごく心配していたが、ちょっと変わっている妹はあまりに気にかけているように見えなかった。彼女はたまたま見つけたフリースクールに息子たちを通わせていたが、そこではほとんど勉強させていないようだったので、母や私は外野から「勉強すべき時代にさせないと後で大変よ~」などと、肉親だからこそ言えるといわんばかりに苦言を呈していた。

が、植松さんの赤裸々な話のなかの、最終的には子供を信じて見守ろうという境地になったというくだりで、私ははっとさせられたのである。確かに妹も同じようなことを言っていたから。そして「子供を信じることが実は一番難しい」とも話していた。

家族だからと言って、心境をつづられたものを読むわけでもないし、ましてや離れて暮らしている妹のことを私はまったくわかってはいなかったのだ。植松さんの本を読んで、おそらく不登校の子供を持つ親ならだれでも抱えるであろう葛藤や苦しみを、私は初めて想像することができた。そして、学歴はないがちゃんと頑張っている甥たちを見て、わが妹の偉さを思う次第である。

「どんな立派な小説も、ひとりの人の生涯にはかなわない」というようなことを作家で俳人の齋藤愼爾さんがある時おっしゃったが、このことを言っていたのかもしれない。

歴史上の顕彰すべき人間から学ぶことはたしかにある。しかし、日本人が朝から理想的なヒロイン――清く正しく美しいーーのドラマを一年中見ているわりには、愚痴をやめたり勇気が湧いたりするわけではないので、普通の、いろいろな葛藤を抱えている、身近な人たちの話っていうのが、むしろ他人への理解や自分への反省材料として役に立つのではないだろうか。植松さんは、自分は親として失格だから子育て関連の講演は受けないと書いているが、逆にその葛藤が、多くの人の共感を呼び、勇気づけるのではないかと思う。

歴史小説家による、小説家になるための人に向けた自伝を読んだにしては、はなはだ矛盾した感想だが、植松さんの正直で気取らないご自分の物語は、たしかに私の中の何かを動かしている。怠け者で、何も長続きせず何ものにもなれず、四十八歳も過ぎてしまったけれど、自分なりに一生懸命生きてきた道程は、それでもう一遍の小説なんだろう。

それでは、これから彼女の小説を読んでみることにする。





『おばさん四十八歳小説家になりました』①~を私が読むきっかけになった満州国のこと




先日、松岡將さん(『松岡ニ十世とその時代』の著者)が、長春その他旧満州各地を訪ねて作ったスライドを見せてくださった。満州国は戦前日本の一大プロジェクトであるが、みんな忘れている。私たちの世代だと、満鉄とか甘粕大佐とか満蒙開拓団なら聞いたことがあるかもしれないが、実情はよく知らない。言ってみれば我が国の「黒歴史」あつかいである。

しかしその地に生まれ、ソ連(当時)に攻め込まれ、父親をシベリアで亡くした松岡さんからしてみれば、右翼とか左翼ということに関係なく、近代日本史における満州国というもの実態を若い世代に伝えるべきでないかというのは、まったく同感である。

関東軍の暴走や残留孤児、あるいはそもそも建国の正当性などといった影の部分は数多あるが、それはそれとして、単純に、当時の日本があれだけのプロジェクトを短期間に成し遂げたという事実は瞠目に値する。なぜなら、その頃の日本は今の日本よりずっと大きかったのである、まったく信じられないほど!

学習院大学キャンパス内に乃木大将(10代学院長)が自費で建てた石碑がある。彼が指揮をして勝ち取ったリャオトン半島をはじめ、台湾、朝鮮半島、樺太等千島列島、その他小笠原諸島など、当時の日本の領土の境界地から集めてきた80個を含む147個の石でできている。(それぞれの土地の個性的な石の出所も説明されていてとても面白いし、ほかにもたくさんの歴史的建造物があるので、おすすめの散策スポットです!)

その碑の上に、乃木大将は、決して枯れることのないと言われる(と言っても今は二代目)の榊を植え、新国土の安泰を祈ったのかもしれないが、戦後は大半を失った。いずれにせよ、そのように拡大された日本が満州国を創っている時代は、今より人口が少なかったにもかかわらず、多くの日本人がすでに北米や南米に移民していたし、台湾や朝鮮における統治・移住・開拓、中国奥地や南方諸島への出兵(さらに多くのエリートが治安維持法で投獄さえされていた)であちこちに散らばっていたわけで、にもかかわらず、それぞれの場所で、ものすごいことを成し遂げた(善悪は別として)という事実には驚かされる。

多くの人が大学を出て、当時より人口もずっと多くて、物質的に豊かになったはずなのに、今の日本のエネルギー、というか国民のエネルギーは各段に落ちている気がする・・・くだらない40インチの画面によって均質化され、吸い取られてしまったのかしらん。

それはともかく、その当時のエネルギーのすごさをまざまざと感じさせるものの一つが、今まだ残る旧満州国の堂々たる建造物である。関東軍司令本部も満鉄のビルも、たくさんの学校も、名だたる駅舎もホテルも、ほぼ当時の日本人が設計したものである。(もちろん苦力=クーリーと呼ばれた現地の貧しい中国人の労働力があってのことではあるが。)建物は残っているだけでなく、各地の共産党の主要施設などに普通に利用されている。

松岡さんは母校の桜木小学校をはじめ、そうした建物の写真をたくさん撮っていらした。そしてその中に、満州中央銀行倶楽部という、満州の帝国ホテルと称された建物があり、それがフランク・ロイド・ライトの弟子の遠藤新の作品で、しかもその建築家を知っていて、ホテルもよく利用したという人も現れ、ぜひ、遠藤新の孫で私の知人の現(げん)さんにそのスライドショーを見せしようということになり・・・そしていよいよ、ようやくこれからが今回のブログの本題なのだが、現さんのお知り合いで、今『歴史街道』という雑誌に帝国ホテルについて連載中の歴史作家、植松三十里さんもお呼びする、という運びになった。ふ~っ。

長すぎる前置き。で、植松さんの本を読みだした次第であり、有名な作家なのでご存知の方が多いと思うが・・・

あまり長すぎる前置きなので、サブタイトルをつけて、とても面白かった表題の本の感想は②に書くことする。




宗教を考える④『マハーボ―ディ寺』~ブッダ悟りの現場



前々回から続いているシリーズの追加である。

『マハーボ―ディ寺』アレキサンダー・カニンガム著、松本榮一・恭訳

インドのブッダガヤにある「マハーボディ寺」。お釈迦様が悟りを開いて仏陀になった場所であり、ゆえに仏教最高の巡礼地である。私は行ったことがないが。

インド大陸を最初に統一したアショーカ王(マウリア朝第三代)が、仏陀の成道を顕彰するために紀元前3世紀ごろに建立したと言われている。釈迦が生まれたのが紀元前5世紀だから、仏跡としては最も古いものだそうだ。アショーカ王はインド統一にあたって多くの人を殺したため、深く反省し仏教に帰依したという。

現在のマーハボディ寺

その後長い間、アジア各国に広まった仏教の、信徒たちの巡礼先として大切にされてきたが、イスラムの統治によって破壊され、また時代の風化によって形跡がなくなっていった。それを復元したのがイギリス人の考古学者アレキサンダー・カニンガムである。ときは大英帝国の植民地時代。仏教が廃れてしまったインドでは、仏陀がインド人であることすら忘れられていたらしい。というか、カニングハムによって、仏教はもともとインドから生まれたことが分かったというのであるから驚きだ。日本では仏教は盛んになった。それは中国から入ってきたのだが、もとは天竺から来たという事実は、三蔵法師の逸話などを通じて知られていたと思うのだが。この三蔵法師こと玄奘が書き残したものを最大の資料としてカニングハムは、マハ―ボディ寺を発掘・復元したのだという。

そういうわけで、この本は考古学的な見地から、寺を巡る歴史的背景、敷地内外の建物、構造、仏塔、レリーフ、埋蔵物などを説明したもので、詳細な図や写真も載っている。

ところで、そもそもなぜ私がこの本を読んだかというと、インド考古学の父であるカニングハムが1892年(!)に出版したこの本の訳者と知り合いだからである。しかも知り合ったのはインドであった。東北大震災の直前だからもう6年も前になる。インドのプネーというところにある、ウルリカンチャンという(ガンジーが創設した)自然療養施設に滞在中のことであった。知り合ったといってもわずか20分くらいしかお話ししなかったと思う、私が来た時に、彼らは滞在を終えて出て行ったから。

縁は奇なものである。松本榮一氏は有名なカメラマン、その奥様の恭さんはフリーランスの編集者であり翻訳者、この二人を私につないでくれたのが、同じくその療養施設で知り合った橋本清澄さんという、対馬で天日塩を作っている人なのだが、この話はここでは省く。

とにかく松本夫妻は、一年のうちかなりの時間をインドに過ごしていて、この本の出版も、もともとブッダガヤに住んでいたり、地元の考古学者であるラムスループ教授との交流があって実現したのである。訳本のほかに、もう一冊解説本があり、それは同教授による解説を訳して編集したもので、カニングハムの書いたものの理解を助ける補助本となっている。

恭さんによれば、この本は仏陀によって書かされたような気がするということである。本当に魂を込めて訳したのだろう。130年前のカニングハムの英語にも、ラムスプール教授のインドなまりの英語にもたいへんな苦労をされたことと思うが、じつに流暢で読みやすい和訳になっている。ブッダガヤに巡礼ないしは観光に行く人たちはもちろん、古代の仏教建築に興味のある人には、ぜひ手に取っていただきたいものだ。

ここで釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた、そのときに少女が乳粥を運んできた、その程度しか知らなかった私は、それらが実際に事実であることがこの本で確認できたわけだが、それにしても長い長い歴史の中で、ビルマやスリランカ、中国などのアジアの仏教徒たちが、この寺にやってきて建物を増築したり、修復したり、いろいろなものを寄進したり、片や一方でヒンズー教やイスラム教の王様たちが破壊したりと、その形跡をたどるのはなかなか興味深いことであった。

私は考古学には疎いし、現地に行ったことがないので、実感としてつかめなかった部分が多くあるが、宗教の持つ力のすごさを感じることができた。マハ―ボーディ寺は確かに人類の宗教史に欠かせないものであり、その原型をイギリス人のカニングハムが発掘したというのが面白い。アショーカ王や玄奘三蔵といった仏教史の偉人がからむ仏教の世界を、訳者はワクワクしながら読み解いたそうである。

これが原型になって、中国を経由して日本各地に寺ができたと考えたら、それは確かに興味深いことである。ここで最後の苦行をした釈迦が悟りを開いた、それは確かに聖地である。世界最高のパワースポットである。その霊力は、今も衰えることない、なぜなら仏陀の教えは真実だから・・・そう私は思っている。だからこそ時代と国境を超えてあちこちに広まり、またここが多くの人をひきつけてやまないのだ。

だいぶ前に福井県の吉崎御坊という寺に行ったことがある。自動車で旅行中にたまたまその駐車場で眠って、起きて何やら騒々しいと思っていたら、その日は「蓮如忌」であった。蓮如(1173-1263)は親鸞の築いた浄土真宗の中興の祖であり、福井を中心に信仰を広めていった人である。その寺は港に近く、当時は栄えていたようであるが、往時の面影は失われていた。それでも地元の人は蓮如忌に集まってくる。ましてや当時の漁民や農民にとって、蓮如の存在ほど神々しいものはなかったであろうと、つくづく思わされた。蓮如はそこに4年ほどしかいなかったわけだが、人々はそれをずっと語り継いでいったのである。

吉崎御坊のHPによると――

吉崎に上人が到着して僅か三ヶ月後のことでした。ここに、日本の歴史上一大奇跡とも言える「蓮如ブーム」がほんの三ヶ月の間に沸き起こったのです。お念佛の大合唱が、北陸の津々浦々に地鳴りの如く、響き渡ったことでしょう。どの村でも上人の話題で持ちきりだったに違いありません。吉崎へ参詣する若嫁を、姑が鬼の面を付けて脅かしたという話で、人形浄瑠璃にもなった「嫁脅し肉付きの面」、地元で今も語り継がれる民話「吉崎七不思議」などもこうした「蓮如ブーム」が背景にあったのです。雲霞の如くの群参に御山は、かつてない繁栄を誇ります。御坊の周辺は参詣者の宿泊施設となった「多屋」と呼ばれる宿坊が建ち並び、その中央に馬場大路というメーンストリート、南大門から七曲がりを降りたところには、船による参詣の船着き場ができました。こうして、無人だった山が一気に大都市、寺院を中核とした寺内町に変貌したのでした。

蓮如の霊力、あるいはその背景にある仏陀の霊力はものすごい。蓮如が布教したのは、一般の人たちである。考えてみると、漁民や農民にとって、日々の労働や暮らしの中で、共同体のおきてや生活の知恵のほかに、心の中の規範となるような考え方を、それまで聞いたことがあったであろうか。戦国時代の不安定な圧政のもと、自主的に世の中の道理や自分たちの置かれた立場について考える機会と、日常の思考の範囲を超えた「救い」の概念を初めて与えられたのものと思う。

しかし人々を惹きつけたのは浄土真宗の念仏の教えだけではないだろう。そんな霊的・精神的なことよりなにより、寺の存在があって、初めて人は集うことができたのではないか。そこへ行けば、人に会える、一緒に念仏を唱えたり歌をうたったり、教養を得たり、ご飯を食べたり踊ったり・・・さながら、現在の娯楽や文化施設のすべて――コンサートホール、野球場、パチンコ、デパート、図書館、公民館、学校、道場――だったのだろう。それは精神的、物理的にものすごい求心力をもった存在であったにちがいない。そして、年に数回の祭り――これは非日常的なエネルギー爆発の機会であった。

江戸時代の伊勢参りにしても、信仰と同時にその道中の物見遊山が大きな目的であったという。宿場町には見るべき名所がたくさんあった(今もそうであるが)。

マハ―ボーディ寺はまさにそうした点で、世界中の仏教徒(あるいは物見遊山、観光客)にとって、最大の求心力を持っている。仏教を巡るあらゆる歴史的経緯が刻まれているのである。当然ながら、権力者は宗教の持つ求心力と伝播力を利用して統治しようとする。寺や寺院を建てたり、増築したり、壊したりするのは、まさにそうした為政者の歴史そのものである。

世界最古の宗教と政治のシンボル、マハーボーディ寺。仏陀の霊力の宿る寺。その始まりを記録したこの本を読んだら、ぜひとも行きたくなってしまった!!

これを書いている今日は、たまたま仏陀の誕生日である。(そして私事だが祖母の命日)


訳本と解説本の二冊セット。サブタイトルは「ブッダの大いなる悟り」
マハーボ―ディ寺の歴史、建物の構造、伽藍の配置、仏塔、レリーフなど時代別に詳しく書かれている。