前のブログの続き
小林正観さんの本にハマったきっかけは何だったかしら・・・表記の本は般若心経についての解説本でもある。
ここ数年、いろいろなことがきっかけで(更年期障害もある)不眠症になってしまった私は、病院に行ったり専門書を読んだり、瞑想音楽を聴いたりといろいろしてみたが、起きてしまって瞑想するのが一番いい方法のようだった。しかし瞑想するつもりが、雑念が湧いてしまい妄想になってかえって眠れなくなることも多かった。そこで般若心経をひたすら唱えていれば雑念は起こらないのではないかと、暗記してみることにした。
暇さえあれば写経をしたり、YouTubeで流れる読経に合わせて唱えたりして、だいたい1週間で暗誦できるようになった。ところが、眠れないときのおまじないのはずなのに、意味を考えると分からないことが多くて、余計に眠れなくなってしまった。そこで、解説本を読みだした。
まずは高神覚昇氏の『般若心経講義』から始まり、家になぜかあった中村元とか瀬戸内寂聴とか、その他いろいろ10人くらいの解説本を読んでみた。そうこうするうちに、般若心経の世界観は、仏教徒でなくても悟っている偉人は誰でも同じようなことを言っているし、その他インド哲学も、さらには最新物理学もどうやら同じコンセプトに基づいているということが分かってきた。
そのなかで一番わかりやすいのが表記の、小林正観さんの本だろう。般若心経について、とてもシンプルでズバリと解説している。小林さんは、子どもの頃自分と同じ名前の小林少年に興味を持った、あの怪人二十面相シリーズに出てくる明智小五郎の弟子である。(私もハマったなあ!)それからシャーロック・ホームズにハマった彼は人間観察のプロとなる。大学浪人中からあちこちを旅して人間を見続けるうちに、人から相談を受けるようになり、旅行作家として、40年間も手相見人相見をすることになったのだそうだ。面白い!
この間、人から受ける相談の内容が変わってきたという。自分の病気とか自分自身に向き合って生じてくる悩みというより、他者に関するものの相談が増えたのだそうだ。例えば「夫が働いてくれない」、「姑が意地悪をする」、「子供が学校に行かない」など。
彼は言う、これらの悩みは結局、人が自分の思い通りにならないことから派生するものだと。彼のもとに相談に来る人たちだけではない、そもそも釈迦の悩みもそうだった。
この悩み・苦しみの根元は、「思い通りにならないこと」と見抜いた。だから「思い通りにしようとしないで受け入れよ」と言った。その最高の形は「ありがとう」と感謝することだったのです。
だからとにかくなんでも「ありがとう、ありがとう」と何千回も何万回も唱えると幸せになるとか、トイレを掃除するとお金がたまる・・・と言ったことも書かれているので、これが人によっては、小林正観は胡散臭いとかインチキだとか言うかもしれないけど、結局、彼は文字の読めない一般庶民に「南無阿弥陀仏」と唱えるよう布教した親鸞と同じことなんじゃないだろうか。
もっとも簡単な言葉ともっとも簡単な行為。
私みたいに小難しく考える必要もない、難解な本も読まなくていいし、瞑想なんて厄介なことをしなくてもいい。幸せになるのは本当は簡単なのだ。世の中は単純なのに、人間が難しくしているだけ・・・一見深刻に思える問題も、人を思い通りにしたい自分が、自分の問題だと思っているだけで、実はそれは人の問題だ、それがたとえ我が子でも。
「なぜ不登校なの、なぜ学校へ行かなくなったの」
と(子供に)いくら問いただしても、もうたぶん、真相や真実を話してはくれないのでしょう。この子は最善の方法として、学校に行かないことを自分の判断で選んだということです。
親は自分に、
「この子を学校に行かせる、行かせなくてはいけない」
という思いがあるものだから、不登校が悩み・苦しみになってくるのですが、その子が不登校という結論を選んだことを丸ごと受け入れてあげたならば、そこに悩み・苦しみは生じません。・・・不登校である間、親がずっと見方であるのだということを示し続ければ、子供はほんとうに安心して信頼して、心を開いてくれるかもしれません。
毎年お正月に必ず見るようにしている『青空娘』という映画がある。増村保造監督、若尾文子主演。この両者のコンビで『刺青』のようなかなりエロくてグロい作品も撮っているが、前者は文部省奨励作品ともいうべき、明るく健康的な映画である。メッセージは明確だ、どんな境遇でもこの主人公なら絶対に不幸になりっこない、と。とても暗い生い立ちの不幸なはずの娘だが、どうしたって幸せしかやってこない生き方なのだ。あまりに当たり前すぎて、かえって忘れてしまう・・・というわけでお正月に観るようにしている。私の周りの人を見ても幸せな人とそうでない人には、このパターンが100%当てはまっていると思う。
しかし正観さんの言っている幸福論はもっとずっと簡単だし、核心をついている。人間は悟るためには3秒あればいいという。
一秒目、過去のすべてを受け入れること。
二秒目、現在のすべてを受け入れること。
三秒目、未来のすべてを受け入れること。
今回再読してみて特に心を惹かれたのは、以下の部分だ。このところライトや羽仁もと子という偉人を研究したり、植松三十里さんの書かれる歴史上の立派な人たちに感心しているが、そして、彼らは確かに人類の平和や文化に貢献すべく犠牲になった人たちではあるが、では現状はどうであろう。ライト建築のような豊かな住環境も、羽仁もと子の目指した人間教育も実現されていない。重光葵たちが頑張ってくれて日本の平和が達成されたが、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない今日である。
もちろん彼らがいてくれたから、今の平和な時代の私がいる、こうした恩人には今の私の実存という個人的な因縁という意味では感謝している。しかし、結局人間も世界はなるようにしかならない・・・??
あるいは本当に幸福や平和を達成したいなら、これからは努力を積み重ねた人間による経済活動や国際外交や、ましてや抑止力としての軍備ではなくて、もっとも基本的な、人間の欲望の抑制という方向にしかないのかもしれない。
正観さんの幸福論、ちょっと長いが、この本を手放すこともあって、引用してみることにする。ほかでもこういう話は読んだことがある。また人は自分が意識する前に自分の言動がすでに決定されているという最新の「脳科学的常識(養老猛)」にも、ある意味で合致するようである。
すべてを淡々と受け容れる
今、生きている自分の人生が、生まれる前に全部、自分の書いたシナリオであったということを認めることができると、達成目標や、努力目標はいらない。喜ばれる存在であればいい。それはイコール、頼まれごとがあればそれでよし、ということと同じ結論になってきます。生きることに力を入れる必要がありません。生きることに気迫を持って臨む必要はないみたいです。
夢や希望をたくさんもってそこに努力邁進しなければいけないという人生は、もしかしたら、そのように洗脳された結果なのかもしれません。生きることにそんなに力を入れなくてもよいみたいだ。頼まれごとをするだけで、努力目標や達成目標は必ずしも立てなくてもいい。
楽しい人は立ててもかわまないのですが、必ずそれを打ち立てて、そこへ向かって歩まなければならないということはないように思います。
しかも、生まれる前に、全部、自分でシナリオを決めてきた、その書いたシナリオのとおりいろいろなことが起きてくるので、そこで起きたことに対して、とやかく不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句、否定的な言葉を並べて、論評・評価するよりは、それを淡々と受け容れて、「ああ、そうなりましたか」と生きていくことの方が、はるかに楽な生き方でしょう。
最近科学の一分野として「幸福学」というのがあるそうだが、それによると幸せな人(数値による定義あり)の近くにいる人は自分の幸せが40%アップするらしい。間接的な知り合いにも、40%より数値は減るが、幸せが「伝染」するのだそうだ。なんだかちょっとあいまいだが・・・正観さんの話と考え合わせるに、おそらく、幸せな人は受け入れる力の高い人であり、その人の傍にいるとそのままの自分が受け容れてもらえるから幸せを感じ、その幸せ感をまた自分も人に与えられるということなのだと思う。
大きな夢や目標をもって努力しなくても、人は幸せになれるし、人を幸せにできる・・・ということである。というより、むしろそっちの方が、これからの生き方なのではないだろうか。
私の愚痴ばかり言っている知人に関して言えば、彼女はそうなるべくしてそうなっている、だから私がどうこう思う必要はない。ただ彼女をそのまま受け容れて、たまたま私が感動した読みやすい本を送ってみる。それを読むかどうか、読んで彼女が少しでも幸せになれるかどうかは、もう私の考えることではない、ということであろう。
正観さんは2011年に62歳で亡くなった。早すぎる死のように思えるが、頼まれて年に300回もの講演をし続けた結果疲労しきったといわれている。何もかも悟りきっての、平和な臨終だったそうだ。長生きが必ずしも幸せを意味することではないと私も常に思っている。実に素晴らしい死に方だと思う。
この本のラストに書いてある言葉を挙げておく。
神のプレゼントの意味
「感謝」ということの本質は、どうもラテン語という古いヨーロッパの言語を考えた人が、次のように気が付いたようです。pastが過去、present―プレゼントが現在、未来がfuture。
神の立場からすると、今あなたにあげているもの全部が、神のプレゼント。要求をぶつけて、「何が欲しい、寄こせ」と言っている人がいたら、神はそういう人間にさらなるプレゼントはしない。
いま目が見えること、耳が聞こえること、食べられること、話せること、歩けること――そういうことの一つひとつ、いま自分が一身に受け浴びているものが、実は全部、神からの、宇宙からのすでにいただいているプレゼントです。
いま受けて、浴びているものがプレゼントなのであって、今手に入っていないものを「寄こせ、寄こせ」と言い、それが手に入った場合だけ「プレゼント」だ、というのは失礼です。
あるべき社会なんて、分かるはずはないのに、不平不満ばかり述べている私。
目の前の現象についていちいち論評・評価をしない。否定的な感想を言わない。
タ行「淡々と」
ナ行「にこにこと」
ハ行「飄々と」
マ行「黙々と」
そのように淡々と笑顔で受け入れながら生きていくこと。
そして頼まれごとを淡々とやり、頼まれごとをし、頼まれやすい人になって喜ばれる存在として生きていくこと。目の前に起こる現象についていちいち過剰に反応しないで、一喜一憂しないで生きていくこと――これがほんとうに楽な生き方なのです。
今年50歳になる私、残りの人生はこの「タナハマ」精神で生きていこうと思っている。
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