『恋と映画とウデイ・アレン』~好きなことを自然体で



私はウディ・アレンの映画が大好き。

2011年に発表された本作は、彼の長年にわたるコメディアン・映画監督としてのキャリアをドキュメンタリーに仕立てたものだが、これ自体がすでに一篇の物語になっている。彼の幼いころから現在までのエピソードが妹やともに作品を作ってきたプロデューサーや俳優たちによって語られ、また本人のインタビューや作品の名シーンが、彼の人生の軌跡をくっきりと浮かび上らせる。

それにしても、こういう華やかな業界にいて、ウディ・アレンはという人は、なんと自然体なのだろう。若い時からコメディの才能に恵まれて、はやくからマスコミの人気者になったが、その後どんなに映画が売れても、売れなくても、誰と一緒になっても別れても、様々なスキャンダルに見舞われても、一貫して彼の姿勢は変わらない。「好きなことをしたい」、ただそれだけである。

ミア・ファローと暮らしていた時に、養女と恋愛関係になり、ほかの子供たちの親権を争うに至ると、彼の評判は地に落ちたがーー

「好きなように考える自由をだれもが持っているからね。同情してもしなくてもいい。僕を嫌っても好きでいてもいい。僕の映画を見続けてもいい、二度と見てくれなくてもいい、そう思っていた。」

ーーのだそうだ。このセリフに彼の強さと本質を見る気がする。この徹底的に自分に正直でいること、そしてそれを他者の権利としても認めること――これはなかなかできないことだと思う。

監督としても、役者に役作りを強いないのだそうだ。それでいて役者はベストを尽くそうと頑張って、コメディなのにアカデミー賞を取る俳優も少なくない――ペネロペ・クルスやケイト・ブランシェットなど。「満足したらもう一度取り直そうとは思わない、それより早く家に帰りたいんだ」「偉大な芸術家が持つような集中力や熱意は持ち合わせていない。自宅でスポーツを見ているほうがいい」、こんな監督の姿勢が、かえって役者をリラックスさせて、いい結果を生むのであろう。

実際、ダイアン・キートンによると、ウディは「好きに演じてくれ、セリフも変えてもいい。さっさと撮ろう」とよく言っていたそうで、「プレッシャーも何もない、あんな監督は他にいない」ということである。

普通の監督は自分の前作を超えた作品を作ろうと思い詰めるが、ウディは自分で興味があるかどうかが一番の問題で、それに全力を尽くすのだという。前作が売れたから同じものを作ろうとは思わない、むしろ違うものを作ってみたい、それがたとえ観客を裏切ることになっても。当然ながら失敗作はある、しかし彼のスタンスは好きな映画を撮っていれば「数打ちゃあたる」というわけだ。

「40本ほど作品を取ってきたが、価値のあるものはほとんどない。簡単に名作が生まれたらやりがいも価値もない」

このフラットな自己評価と前向きな姿勢がすごい。自虐でも謙遜でもない。80歳を前にして、彼は言う。

「恵まれた人生だと思う。子どもの頃の夢をすべて実現したのだから。憧れていた映画監督にも役者にもコメディアンにもなった。ミュージシャンとして世界中のホールで演奏もした。夢見たことでかなわなかったことは一つもない・・・こんなにも運がよかったのに、人生の落後者のような気分なのはなんなのだろう・・・」


この、彼にまつわる「人生の落後者」観、これが愛される秘密でもある。体も小さいし、ハンサムでもないし、髪はぼさぼさで野暮ったい服を着ているのに、ジュリア・ロバーツのような美女と恋に落ちる役を演じても全然おかしくない、こんな俳優がいるだろうか。神経質で知的でセクシーでシニカルで、こんな役者はほかにはいない。そして彼が演じる役はいつも同じキャラクターなのに飽きることがない。っていうか、役というより、現実の、自然体の彼がそのままそこにいて、それを素直に観客は楽しんでいるのである。

自然体の力はすごい。無理に演じなくてもいい。美人でなくてもスタイルがよくなくても頭がよくなくても要領が悪くても、そのまま好きなことを好きだと言って続けていれば、人はみな魅力的なのかもしれない・・・

そんなことを思わせてくれたドキュメンタリーだった。






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