アントニン・レーモンドとノエミのような、素敵なカップル |
私は長生きするということにずっと懐疑的であった。別に長く生きればいいってもんじゃないと。子供がいないので、うちの人を看取ったら、周辺をきれいにして、見苦しくないうちに、極端な話、城ケ崎の崖からでも飛び込んじゃおうとすら思っていたほどである。
しかし、この映画を見て考え方が変わった。素敵な老夫婦の、心温まるストーリー。ご主人の津端修一さんは、海軍で戦闘機を作っていた技術者だが、戦後の焼け跡に住宅の供給が高まると見込んで、アントニン・レーモンドの建築事務所に入った。その後、住宅公団の第一期社員として、たくさんの団地を造る。名古屋郊外の高蔵寺団地開発で、自然と一体感のある集合住宅を造ろうとしたが、質より数という方向転換にあって、自ら近くに敷地を買って、雑木林を植え、野菜や果樹を育てる暮らしを始めるのである。
そこには70種類の野菜と50種類の果物があるというから驚きだ。奥さんの英子さんもまたすぐれた人で、突飛なだんなの夢に寄り添い、一緒に畑を作り、そこで採れた食材を上手に料理して暮らしてる。
彼らの家はアントニン・レーモンドの家をまねたもの。たしかに、この前高崎で見てきた井上房一郎邸に似ている。30畳のダイニング兼リビングからは、緑の庭がよく見える。風通しもよさそうだ。
二人がこの家で、「コツコツ、ゆっくり」暮らしている、行ってみればただそれだけの映画である。若いうちはヨットを乗り回したり、大学で教えたり、いろいろなことがあったのだろうが、映画では90歳と87歳の老夫婦が、畑と家の中で、なにやらごちゃごちゃと働いたり(当然動きは緩慢)、食事をしたり、絵を描いたり、何気ない会話をしているだけなのだが、生活するということの、ただそれだけの持つ美しさに溢れていた。
ふたりの人間が出会って、いいところを引き出し合って、協力して、生きてきた。そうやって年を重ねた夫婦は、その存在そのものが芸術なのだ。そして普通の暮らしをおろそかにしない、それを可能にしているのが、彼らが尊敬する建築家の哲学。
「家は、暮らしの宝石箱でなくてはいけない」 コルビジェ
「すべての答えは自然の中にある」 レーモンド
「人生は長いほど美しくなる」 F.L.ライト
このドキュメンタリー撮影中に、ご主人の修一さんが亡くなった。草取りをして、昼寝をし、そのまま起きなかったという。あっぱれな最期。英子さんは、庭に満艦飾の旗を立てる、にぎやかに送りたいと。そして、彼の作った野菜や果物をたくさんの箱に少しづつ詰めて知人に送った。それから、気が抜けたと言いながらも、健気に一人で生きていく、相変わらず、毎日を丁寧に、こつこつ、ゆっくり。
何でも自分の手でやってみる、時間がかかるけど、そこから見えて来るものが絶対にあるから、という二人の言葉がずしんときた。すべてを人任せにしないから、自分の人生を自分でコントロールして、自分の責任で生きている。今の社会はともすれば、ベルトコンベアーにのっているように簡単に物事ができてしまう一方で、世の中が自分とは関係ない所で動いているような不安感がある。自分に根がなければ、マスコミにも踊らされる。
自分の手も、足も、頭も、目もしっかりと使いづづけていれば、最後の最後まで働いてくれる。人間の身体と精神とはそうできてるんだ。そうやって年を重ねれば、知性と美的センスに一層磨きがかかって、あんな素敵な暮らしを最後まで続けることができるのね。将来に希望が湧いてきて、いつになく明るい気分になって映画館を後にした。
0 件のコメント:
コメントを投稿