加茂一行さんは高僧でありながら、大の酒好きで女性にモテる。バレンタインの日、上品な中年女性がチョコレートを渡しに本行寺の山門をくぐるのを見た。腕にお孫さんを抱いて来るのがいい。この「プレイボーズ」は「銀座をホステスと手をつないで歩いていたら、檀家に見つかっちゃった」と屈託がない。だから私はいつも言う、「加茂さんは人心救済のために、あえて俗の衣を被っているんですよね」と。加茂さんの懐の深さは甚大だ。清濁併せ呑みつつ、爽やかな風に包まれている。まさに観自在。
虚に実に僧衣の分かつ春の闇
放蕩を尽くして冬の蓮となり
加茂さんは破蓮というより真っ白な蓮の花。傍にいると明るい気分になる。しかし、句集の中には別の一面を感じさせる句が多くあることに驚かされた。
ごぼごぼと金魚ストレス吐き出しぬ
修羅曳いて庭石据うる蟬時雨
大いなる背信抱き夏野ゆく
罪障を足湯で拭ふ晩夏かな
暗涙を溜め煮凝の固まりぬ
ストレス、修羅、背信、罪障、暗涙・・・本人からイメージできない言葉だが、どれも説得力のある作品だ。職業柄、人一倍悲哀の場面に出合うのだろう、その中で諸行無常を体得し、達観されているものと思う。そんな風に句集を読むとしみじみと味わい。例えば---
散ることを花の盛りと言ふべかり
梅一輪こころはいつも新しく
人類の退化も進化亀の鳴く
珠の汗いのちの根つこ深くなる
奈落にも冬青空の日のあらん
死ぬるとは生くることなり石蕗の花
散ることが花の盛り、とは達観の極みだ。こころはいつも新しくありたい、退化だって進化の一過程なのだから。そうしていのちの根っこが深くなり、奈落にも絶望することはない、なぜなら死ぬことは生きることに他ならないから。上手に季語を入れた法話と言ふべかり。
曼荼羅となりて一山花月夜
なにごともなき世のごとし甘茶仏
台風の眼の中にゐて卒塔婆書く
法話いま降魔のくだり雪明り
アマリリス不意の客とは死者なるも
これらはみな「お上人」ならではの句。花月夜も台風も雪も月並みの季語を越えている。アマリリスと死者の取合せにも度肝を抜かれた。一方で洒脱な句も魅力的で、ほのぼのとしたお人柄がにじむ。
しみじみと見て春草の名を忘れ
ひつこみのつかなくなりし土筆かな
ラムネ玉ころり往生してみたし
ほどくなら今がころあひ懐手
こうした加茂さんの特質は、先祖代々受け継がれてきたものであり、本人一代ではないがゆえに、誰にも真似はできない。〈おらびたくなるあまりにも天高ければ〉〈天高し死ねたらいいねこんな日に〉といった、加茂さんのブランドマークが押されたような句を、もっともっと詠んで欲しいと期待している。
加茂さんの本行寺にある「観自在」は棟方志向の書 |
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