先週末、一冊の本が送られてきた。送り主は越村清良とある。俳句の知り合いの「藏さん」こと越村藏さんである。しかし句集ではなく小説だ。俳人としても名高い齋藤愼爾先生の出版社から出されている。今取り掛かっている翻訳の仕事はあるし、読まなくてはいけない本も山積みだ。せっかく送られてきたが後で読もう・・・と思ったが、雲を映した大河が海へ続く、緑色のきれいな表紙にひかれてページを繰ってみる。
そして・・・そのまま一気に読んでしまった。風邪で臥せっているうちの人の隣に寝転んで。それほど面白かったのだ。
藏さんって、こういう人だったのか~。若いころから文学を志していたとある。これからは小説を書きたい、書きたいテーマがいくつかあると・・・それにしても、彼はプロの作家だったのね。とても初めて書いたもののようには思えない。内容も展開も登場人物もテーマも何もかも、素人の書いたものではなかった。
主人公は小学生のカリン。マサチューセッツ工科大で出会ったという両親の子供だから、優秀でないはずはない。しかし貧しい母子家庭で、施設で暮らしている。父親は妻子を捨てざるを得なかったらしいが、妻は夫を恨んではいない、事情を理解している、この辺がこの女性の知性をさりげなく表している・・・描き方がうまい。普通の女性は事情を理解しようとせず、自分の不幸を人のせいにしかしないからだ。夫の事業の失敗のせいで借金取りに追われて逃げてきたのに。彼女は最初こそは取り乱していたが、やがて得意の英語を活かして、新しい環境の中に居場所を見つける。
カリンちゃんもえらい。なんでこんなに芯がしっかりしているのだろう。私が小学校四年生の時は友達に恵まれていたとも言えず、いつもめそめそしていた。私は両親にも経済的にもわりと恵まれていたし、勉強もできないほうではなかったと思うが、クラスではのけ者のような気がしていた。絶対に主役になるような子供ではなかった。だから勇ましくて好きなものに真っすぐなカリンちゃんは私とは180度反対に思える。元々が優秀で、環境に鍛えられて、あんなにしっかりしたのだろうか。怖いものなしの彼女に、同じ施設の男の子たちはすっかり子分である。土屋アンナが若いころに、カリンちゃんの役を演じたらきっとハマっただろう。学校と母親の前では「わたし」、施設では「あたし」あるいは「あちし」を使い分ける。だけど、どんなに勝ち気で強気で優秀でも、やっぱり「施設の子」はクラスののけ者なのかもしれない。
それにしても、藏さんという人は、どうして小学生の女の子の立場で物が書けるんだろう、結構なオジサンに見えるのだが。この瑞々しい感覚は何なのだろう。彼の故郷の金沢に近い北陸の小さな町が舞台であり、いつかこのことを書こうと思っていたと言うから、この小説は、彼が見聞きした事実がもとになっているに違いない。蔵さんらしき人物は小説の中に見当たらないが・・・
その「事実」というのは、かなり深刻な問題をはらんでいるようだ。施設の子供たちは、暴行や性的虐待を受けてきた経験がある。そして、そうした子供たちは、それなりに、というか、それだからこそまたしたたかに成長し、その子供たちの生き生きしたやり取りだけでも十分に面白く、小説の半分くらいが終わってしまう。
教師「ん」っていうのは、いつ出てくるのだろう。
カリンちゃんは、希望を新たに中学生になる。「札付き」の不良小学生が、札を外して再出発しようと意気込んでいた、新しい環境で。
そこに立ちはだかるのが担任の「ん」である。
「ん」が登場したとたん、私は中学時代のある教師を思い出した。思い出すどころか、彼は私の知っている教師の中でももっともおかしな教師で、忘れたくても忘れられないやつである。かれはたしか理科の先生であったが、運動も得意で体育の指導もしていたような気がする。体罰が当たり前だった時代の、もっともひどい教師だった。赤いスポーツカーで出勤していた彼は、毎朝校庭のまんなかで急ターンをして停車した。子供ながらに胡散臭いやつと思った。授業中に自分の気に入らない(クラスでもいじめにあっていた)女の子を机の上に正座させ、頭にブリキのバケツをかぶせて、その上を金づちで叩いたりしてした。今では考えられないことだが、教師という立場がまかり通っていた時代であった。
だから、「ん」のような、悪辣な教師も非現実的な存在には思えない。実際にこんな男がいたのだろう。カリンに対する言葉の暴力、カリンと同じ施設の敦子に対する性的いやがらせ、そしてカリンのボーイフレンドをに対する残虐な行為・・・この辺の下りは、ものすごい緊迫感で話が進んでいき、その展開にドキドキしながら、読むのを途中で止めることはできなかった。作者の筆力に脱帽する。
「ん」の由来もよくわかる。文才のあるカリンは言葉に敏感で、生涯忘れられないような名前をこの教師につけてやろうと思ったのだ。私も誰もが発したことのない言葉を考案してみたり、人に突飛なあだ名をつけるのが好きだった。というか、子供はだれでも大人の思いもしないような言葉遊びをする。中学一年の担任だった新米の女の先生は、ちょっと歯茎が出ていたのだが、あるとき、OH用紙の端に男の子が「829」と落書きをした。それが画面に大写しにされて、クラス中で爆笑が起こった。「歯肉」をもじったわけだが、かわいそうにその先生は、泣きながら教室を出ていったっけ。
小説は、会話も地の文もともに臨場感があってテンポがよく、鮮やかに映像が浮かんでくる。修学旅行という言葉が出てくるところから、何か不吉なことが起こりそうな雰囲気が高まる。「修学旅行の夜である。二人だけが、「ん」に呼ばれた。」と思わせぶりなフレーズが帯に書かれているが、「ん」は湯船の中でカリンと敦子を待っていたのだ。そういう時にどうして別の先生に相談しないの、と大人は思うかも知れないが、子供はそう簡単に大人を信頼しない。幼い時に父親に裏切られた二人の少女にはとくに・・・。
確かに当時もそんな先生がいた。私のようなひょろひょろと割りばしのような子供はたいしたことはなかったが、書道の先生に抱えられるように筆書きを直してもらう際に、おしりを触られたという同級生が何人かいたと記憶している。そして私もカリン同様、そういうことを親には話さなかった。自分がクラスの仲間外れになっていたときも親や教師には絶対に話そうと思わなかった。子供はそういう屈辱を自分で耐えることはできるが、親や担任教師に知られて同情されたくないというプライドを持っている。大人が理解してくれることは期待しないし、してほしいとも思っていないのだ。それが子供の世界である。そうやって大人になっていくものだと思っている。しかし、いまの、マスコミや教育委員会まで巻き込んでのいじめの騒ぎは何だろう。いじめなど大昔からあったのだが・・・
しかし、カリンのボーイフレンドに対する暴行に及んでは、ついに母親の知るところとなる。ここからが面白い。少女が中心のストーリーが、母親たちによる完全犯罪の計画へ転回するとは!しかもその凶器となるコルト銃と三発の弾丸は、先にカリンの父の形見として描かれていて、実に伏線がうまく組み込まれているではないか。しかも、あんな教師だったら、この世から消してしまってもいいと、読者もその展開に納得し、決行の日を待つことになる・・・のであるが、そこでもまたさらなるどんでん返し、があるのである。
いや~、実に面白かった。こういう本を出す齋藤先生の懐も深い。藏さんの才能には驚嘆させられた。大人びていて感受性の強い、しかしどこか危なっかしいというアンビバレントな魅力を持った少女は、おそらく作者もそうだったのだろうと思わせる当代の女流作家の作品には欠かせない存在だが、男性であり(しかもオジサンの)藏さんがかくも自在にカリンという少女を生み出し(モデルがいるのかもしれないが)、あるいは彼女になりきって筆を走らせていることに、私は本当にびっくりしてしまった。まだまだ書きたいテーマがあるという。次作にも大いに期待したい。
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人は生い立ちに負けない、というより逆境を活かしてこそ生きていける。深刻なはずなのになぜか笑える、魅力的な少女の爽快なストーリーです。
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