『戦場にかける橋~The Bridge on The River Kwai』




例によってイタガキさんが、「この映画を観ないで死んではいけない」と言って送ってくださった一作。1957年公開の英米合作映画。なんだか重そうなタイトルですぐには観ないでいたが、実際に観てみて、なぜだろう、戦争特有の暗い話ではなくて、ラストシーンだって主な登場人物が全員死んでしまったのにもかかわらず、不思議な爽快感をもたらす映画だった。


冒頭からインパクトのある、疲れ切ったイギリス軍兵士の捕虜たちが新しい収容所へ向かう映像に加え、有名な『クワイ河マーチ』、演奏はロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団でいきなり盛り上がる。先の戦争では敗戦国としてのイメージばかりある日本だが、一時は戦果を挙げていて、東南アジアをはじめ本土日本にもたくさんの捕虜の収容所があったのだ。舞台となる収容所も「第十六捕虜収容所」であるから、それ以外にいくつもあったのだろう。まだ負けるなんて思っていなかった頃の昭和43年の話である。日本側としては描くことのないテーマともいえる。


そもそも、日本人は捕虜になることは国辱であり、自決しなければならないとされていたので、POW(Prisoner of War)の概念が、西洋諸国とはズレていた。そういう意味では、早川雪州演じる斎藤大佐の、「お前たちはもはや兵士ではない。国を裏切った卑怯者だ」という発想からくる言動も、当時の日本人には理解できるが、国際条約に基づく捕虜の扱いを順守してきた外国人には理解できなかったであろう。実際、戦後は収容所の役人の多くが戦犯となり、死刑に処されている。


齊藤大佐に対するイギリスのニコルソン大佐(アレック・ギネス)がまた堅物である。齊藤大佐の要求に決して屈せず、小さな牢に閉じ込められても譲らない。ましてや、たまたま紛れ込んできたアメリカ海軍兵士のシアーズ(ウィリアム・ホールデン)の脱走計画など、実現不可能として取り合わない。


齊藤大佐とニコルソン大佐の命を懸けた意地の張り合いがテーマではあるのだけど、どちらも個人の意志というより、立場上の対決、という点において、個人主義的なアメリカ人シアーズや、軍医という立場から人道的倫理を重んじるクリプトン(ジェームス・ドナルド)との対比から言っても、前者二人には共通するものがあった。それが、橋の建設という難事業の達成を可能にしたのだろう。


これは全くのステレオタイプかもしれないが、日本側の軍隊の形はよく描かれていたと思う。完全なる縦社会。そこに人間的交流はない。齊藤大佐は、その肩書ゆえに絶対的権力を持ち、部下に恐れられている。しかし齊藤大佐も上層部の絶対的命令下にあるのは同様である。それに対して、イギリス側の大佐は、絶対的な権力を持ち威厳はあるが、それは肩書というより、人望によって支えられている。彼の不屈な精神と上官としての責任感が、自国兵士たちの心をとらえ、ついには橋の建設に誰もが真剣に取り組むようになる。日本軍のための橋の建設だが、その完成という目標が、捕虜たちのモチベーションアップにつながり、過酷な状況を乗り切るエネルギーとなった。


日本側の建設計画の、完全なる無策ぶりは笑ってしまうほどである。尊敬できない上司からの命令で無理難題を出され、心身ともにすり減って働かされる…楽しくもないし、効果も上がらない…現代社会の構図とあまり変わっていないような。とある大企業に勤める知人は、60歳の定年を迎え、同じ部署に再雇用されたが、給料は半減、それでも今まで通り終電まで働いている。彼曰く、仕事内容はナンセンス、部下が上司になって気を遣う、それでも染みついた社畜精神(本人は愛社精神と思い込んでいる)で、休日出勤もいとわない。


日本の会社に勤めるアメリカ人の知人は、毎日4時には退社する。朝は電車が混まない早朝に出かけ、無駄話はせず、一日分の仕事を全うし、早めに帰る。そして夕方の時間を楽しんでいる。日本人が用もないのにだらだらと残業しているのがバカバカしい、むしろ自分の方が効率的に仕事をしているのだから、文句を言われる筋合いはない、と思っている。この個人主義的性質を、ウィリアム・ホールデンがうまく演じていた。仮病を使って兵役を逃れ、天に運を任せて脱出し、収容されたイギリス軍の病院で美人看護婦と楽しい時間を過ごすことを優先し、ウォーデン少佐による橋の爆破計画への参加を断る。とはいえ、やむを得ない事情により、危険極まりない爆破計画に参加して、ジャングルの険しい行程を進んでいくのだが、そこでもアメリカ人らしく、ケガをしたウォーデン少佐を見捨ててまで計画の遂行を優先するつもりはない、と言って、軍の規律より仲間、あるいは個人の尊厳を重要視する。


橋が完成し、斎藤大佐は自決を覚悟する。期日通りに任務は遂行されたが、それは敵による功績である。上官として、あらゆる面でニコルソン大佐に劣っていることを実感していた。かたやニコルソン大佐は長かった軍人生活の中でもっとも達成感を感じているという。それはいずれにとっても、しみじみと哀しいシーンである。


最後は、その橋の爆破シーンで終わる。齊藤もニコルソンもシアーズも死んでしまう。それを見ていた軍医のクリプトンが、「Madness, madness(狂っている、狂っている)」と声を上げるのだが、その感覚がもっとも正しいのであろう。戦争は、人を狂わせる。戦争だけではない、先の企業戦士の知人も、自分がどこかおかしいことを知らない。


それでも、この映画のもたらす不思議な爽快感は、登場人物がそれなりに皆懸命に生きているヒーローだからであろう。自己を捨てて大義に生きようとする姿勢は、狂っているかもしれないが、そしてそれを全うして死んだことすら、どこか救いのような気がするのだ。もちろん、それが可能になったのは、早川雪州をはじめとする名優があってのことだろう。


戦争の一端を、捕虜収容所という特殊な場面設定で切り取り、国籍や立場の違う人間模様を描き切った『戦場にかける橋』。再び観たら、また違う発見があるだろう。アカデミー賞に値する、さすがの名作であった。