タイトルは「無題」、なぜなら、最初に決めても書いているうちにだんだん違う方向に発展してゆき、最後にタイトルを変えることが少なくないからだ。何かを調べようとして、ネットで検索するうちに、別の記事を見たり広告に操られて、当初と違うものをいくつも見ることになるように(ネットサーフィン)、書いているうちに考えが発展して、というかあちこちに飛んで、書く予定のなかったことが頭から紡ぎ出されている・・・
最近とみに「思考」とか「感情」というものが、じつは「私」から生まれているのではないような気がしている。なぜなら、自分(=私)のものだとしたら、なぜ思考や感情を自分で操ることができないのか?なぜ理由もなく暗い気分になったり不快になったりしてしまうのか?なぜいやな気分がした時に、それを消すことができないのか?そもそも今から数十秒後に自分が何を感じて考えているかすら分からないなんて、もしそれらがほんとうに自分のものだったら、おかしいではないか?
「私」とは、湧いてくる思考や感情に気づく存在である、とある人が言っている。そして、そもそもその「私」自体も、作られたストーリーで、本来はなんの分離もない、ある一つの宇宙エネルギーの表現の一部にしか過ぎない・・・と「悟った人」たちが言っている・・・
う~ん。ものを書くということは、「私」の存在を強化するような行為の気がして、この頃少しやめていた。廣池千九郎の唱える「自我没却」ではないが、人間は不必要に自我を強調しすぎることに、あらゆる不幸が始まっているような感じがする。
そもそも地球上の生物の数パーセントにしか過ぎない人間の「常識」が、人類史上のほとんどの人間の生き方、見方を限定していることは、考えてみたら自然ではない。社会的動物である以前に、私たちもまた自然の動物である。動物に生存のための本能以外の自我があるだろうか?不幸なライオンとか、悲しいキリンとか、苦しい熊はいるのだろうか?苦々しい思いをしている蟷螂とか、悩んでいる蟻とか、自己嫌悪に陥ちいっているウサギとか、反省ばかりしているウナギとか、集団行動が嫌いなイワシとか、自信がない孔雀とか、さみしがり屋のトンボとか、狡猾なエビとか、義憤を抱くカモメとか、横恋慕したい鷺とか、仲間を蹴落としたい白鳥とか、戦争好きな鶴とか、平和を訴えるカバとか、太りたくないサザエとか、うつ病のフジツボとか・・・そんなものはいないのである。そもそも、不幸も哀しいも苦しいも苦々しいも・・・狡猾も義憤も横恋慕も・・・戦争も平和もうつ病も、人間が作り出した「概念」である、どれも存在すらしない、たんなる「思考」である。
人間はすごく愚かだ。存在すらしない「概念」にひたすらひたすら振り回されて生きている。来る日も来る日も、死ぬ日まで。そんな生物も動物もほかにはいない。集団的動物なら多少社会的な要素は持っているかもしれない。虚勢を張りたい虎とか狐とか、脅したい水牛とか、怖がる鹿とかネズミとか。でもそれは本能の範疇であろう。人間は本能の範疇を大いに超えて、概念を作り出し、概念に振り回される・・・
もちろん、巨視的に見たら、社会的動物として生きる人間というのが、すでに「自然」なのだろう。二人に一人はがんになるという統計をはじき出し、がん保険を考案し、不安を掻き立てて月々2,500円の掛け金で、がんと診断されたら100万円出します、一日の入院料は1万円、このプランは90歳まで10年ごとに更新できます―――などというあらゆる概念を駆使した経済社会的「ストーリー」を作り出し、それを聞かされてもっともだと思いこまされるのも人間らしさであり、それは、冬眠する前に何かを食べておこうというクマや蛇と何ら変わりない「自然の摂理」なのだろう。
しかし、両者の隔たりのなんと大きいこと。生命の98%が後者であり、じつに単純に生きているのに、どうして人間は不必要に(!?)複雑なのだ!?
なんでこんなことを書いているかと言うと、これも冒頭のネットサーフィンといえるのだが、私は60-70年代の車が好きで、『日本の名車』というAmazonの映像を見て、鈴木亜久里らが運転するホンダS600とかトヨタの2000GTとかにうっとりしていたのはよかったのだけど、その後、団地のおばさんから電話があって、当初のよもやま話から、建て替え反対に関する彼女の意見がしつこく繰り返され、一時間以上もしゃべって切ったら、気がくさくさして、何となくタイトルの可愛い『ストロベリーショートケイクス』という映画が同じAmazonのサイトで目に留まって、クリックしてしまった・・・そしてその映画を観てからずっと、すごく妙な感覚にとらわれ続けている私なのである。
この映画を観るにいたるまでの、異常に長いイントロ的説明自体が、自分の数時間という人生をいかにコントロールできないかを物語っている。そもそも名車の映像も、そこ(ネット上)にあったから観たにすぎず、ものすごく観たかったわけでもない。それでも好みの世界なので楽しく観たのはよかったが、そのあとの団地のおばさんの電話もその内容のそれによる私の感情の不愉快さから、思わずクリックしてしまった変な映画の世界に引きずり込まれたことも、どれも私が選んだものでもないし、想定出来たものではない。
で、肝心な『ストロベリーショートケイクス』という映画だが、冒頭に池脇千鶴が男の足に縋りつきながら、どこかの商店街を引きずられていき、そのまま男に捨てられるという、衝撃的な出だしから始まり、突如場面が変わると、狭いアパートの一室に棺桶が置かれてあって、その上で目覚ましのベルが鳴り、棺桶の顔の部分の窓が開いてきれいな腕が出て目覚ましを留め、そのまま煙草の箱をとって箱の中から、煙が吐き出されるという、風俗嬢らしき女性の一コマ・・・このイントロが巧みすぎて全部見せられてしまったというわけなのだ。
こうやって物事は「私」の意図に関係なく、「私」というものの経験に基づく好みとか興味という過去の蓄積データから生じた「感情」に、「私」が突き動かされて進んでいくようである。
さて、その映画はかわいらしいタイトルとは正反対に、4人の「崩れた女」のストーリーである。誰もが一生懸命生きているのに、その一生懸命さのために男に捨てられ、社会に適合できず、落ちていく・・・けれど、映画的にはそれ自体が愛おしい人生ではないか、というようにまとめられているというか、ありがちなエンディングなのだが・・・とりわけ池脇千鶴は、社会の底辺にいて周りに翻弄されながら、芯があるのにつかみどころのない魅力的な女性をうまく演じている・・・『そこのみにて光り輝く』という映画の中でも、痴ほう症で性欲の強い父親に悩まされる極貧の女性を生々しく演じていた。本作では男に捨てられて、デリヘル(という商売がすごいな)会社の電話受付しながら恋に憧れるという現実離れした女の子(里子)役である。
他の3人のキャラクターも「痛い」女たちである・・・里子の勤めるデリヘル会社で風俗嬢をしながらお金を貯めている秋代(中村優子)、人気作家の装丁をするなど、そこそこ稼いでいる美人イラストレーターの塔子(岩瀬塔子)、そして塔子の幼馴染みで、よい条件の男と結婚したがっている、やはり美人OLのちひろ(中越典子)。
誰がみな美人でスタイルもいいのに、幸せではない。里子はデリヘル会社の、妻子持ちの社長に告白されてたじろいで仕事を辞めて、場末のラーメン屋に勤めるフーテンぶり。
風俗嬢の秋代はあんなにセクシーなのに、普段は棺桶の中に寝ている虚無な女で、専門学校時代の同級生の菊池(安藤政信)といるときだけが生きているようであるが、彼に告白もできない。
塔子は魂をささげてイラストを描くものの、その作品を生み出すまでの苦闘を理解されず拒食症になっていて、ルームメイトのOLのちひろがいかにもお気楽で憎らしい。半年前に別れたばかりの元カレから結婚したという葉書と、かつて彼に貸していたお金が返送されるーー社会的に成功しているばっかりに、他者からは同情されない孤独な女・・・これはこの映画の原作者の魚喃キリコ像らしい。
そしてちひろはフツーのOLである。仕事も友人関係も恋愛も、常にそつなく振舞っているのにもかかわらず、なにかが不自然で計算高く感じられ、男にも女友だちにも嫌われてしまう。そして塔子のように自分の能力で社会的に成功している女には、自分のような平凡な女の悩みは分からないと思っている。
さっき書いたように、開き直ったフーテンのリスもいなければ、セクシーで弱気なカラスもいないし、自尊心の高さに苦しめられているカブトムシもいないし、自分は平凡だから結婚するしかないと思い込んでいる雀はいない。
これらはみな魚喃キリコさんの頭の中にある妄想人間である。実際の人間よりさらに質が悪い、というか実際にはあんな変な人たちはめったにいないだろう。
ところが、私たちはこうした映画を一種の芸術だと考える---魚喃キリコさんも、映画監督の矢崎仁氏も、池脇千鶴をはじめとする役者たちも、社会的に尊敬に値する憧れの職業である。そしてこの映画の製作や配給には何百、何千という人たちと彼らの才能が使われ、さらに何十万という人たちが映画を見る―――一大産業なのである、がはじまりは、魚喃キリコさんという漫画家の妄想だ。
実際にはいない人たち、あり得ない感情を、映像化し、音楽をアレンジし、一編の切ないストーリーに作り上げる、なんという膨大な努力、そしてそれを観る私たち、なんという膨大なエネルギー。
それを観て何かを感じることが私の人生の、いったい何になるというのだろう。「ああ、誰もが切なさを抱えて生きていて、それがそのまま人生の美しさなのだ」と思えるだろうか?
いやそこまでは達観できない。そもそもそんな風に自分の人生を投げだしたい人などいないのだ。デリヘル会社の電話受付とか場末のラーメン屋に勤める女性など私の周りにはいないし、デリヘル嬢自体も知らないし、拒食症のイラストレーターも知らないし、フツーのOLとかフツーの結婚なんていうのも絵に描いた餅のようなものである。私たちはもっと現実的な世界を生きている。そう、がん保険に入るとか、子供を塾に入れるとか、週末のスキー旅行を計画するとか・・・
たいていの小説や漫画の原作というものは、底辺のストーリーである。底辺にいる人たちが、そうでない世界に憧れて、妄想を描き、抗い、挫折し、受け入れる、あるいは破滅への道をたどる人々のストーリー。社会的に底辺でなくても、殺人とか復讐とか、たいていの人の人生にまずは起こりっこない、現実離れしたテーマをもとにしたストーリーがほとんどである。
こうした非現実的な人間模様を描くストーリーを多くの労力と才能で「芸術」にして、それを観る、決して楽しい気分になるわけでもないし、観たら数日後には忘れてしまうものばかり、それなのに一大産業。
いったいこのブログはどこへ行きつくのだろう・・・誰も読まない前提で書いているのだが、実はここからが肝心だ。
つまり、こうした妄想から生じた現実味のない、映画や小説や漫画に出てくる人間の物語と、今「現実的」だと「私」が思い込んでいる「私の人生」は、もしかして同じではないのかということである。
だって、映画を観ていろいろ思い悩む鷹がいるだろうか?他者の妄想に振り回されるミツバチがいるだろうか?こんな文章をだらだら書きたいと思っている山猿がいるだろうか?
本当の私なんてあるのだろうか。本当の私がいると思っている私って、いったいなんだろうか?
つづく・・・
(副題に、「映画」という妄想の世界、とつけてみた)